最強の隣人
ある日の午後、恭介は取引先の女性担当者と一緒に、打ち合わせ先へと向かって街を歩いていた。
秋の気配が混じり始めた心地よい風が吹くなか、恭介は手元の資料に目を通しつつ、隣を歩く女性に簡単な説明をしていた。
歩調を合わせながら、恭介は雑踏の中を進んでいた。ちょうど商店街に差し掛かったときだった。手前にあったスーパーの自動ドアが開き、買い物袋を片手に提げた見慣れた人物がひょっこりと姿を現した。
隣のおばちゃんだ。
「あ……」
恭介が声をかける前に、おばちゃんの鋭い視線がピシッと恭介へ、そしてすぐ隣に立つスーツ姿の若い女性へと向けられた。次の瞬間、おばちゃんの口元が怪しくニヤリと歪むのが見えた。
「あらぁ〜。こんにちは」
「あ、おばちゃん。こんにちは。買い物ですか?」
恭介が足を止めて挨拶を返すと、おばちゃんは片手に提げたネギと大根の突き出た袋を持ち直し、ズカズカと二人の距離まで近寄ってきた。そして女性の顔をまじまじと見つめた後、周囲の歩行者にもハッキリと聞こえるような声で、ニヤニヤしながら言った。
「お仕事〜?」
「は、はい……これから近くのオフィスで打ち合わせに向かう途中で……」
「ふ〜ん? お仕事ねぇ〜? あんなに可愛い奥さんが家にいるのに。知らないわよぉ〜、私」
「いや、おばちゃん! 違うから! 本当に仕事だから! 」
恭介は焦って手を横に振りながら必死で弁明した。しかし、一度思い込んだおばちゃんに通じるはずもなかった。おばちゃんは「はいはい、仕事仕事。男の人はみーんなそう言うんだから。」と完全な冤罪を着せ、恭介に向かって「めっ」と人差し指を振ってみせた。
満足そうにルンルンとした足取りでマンションの方へ歩き去っていくおばちゃんの背中を、恭介は絶望的な心地で見送った。
「あの……恭介さん? 今の方は……?」
隣で完全に引きつった笑みを浮かべた女性が、恐る恐る尋ねてくる。
「あ、いや……ただのお隣さんでさ……」
恭介は頭を抱えながら、大きく溜め息をつくしかなかった。
その直後。人生最大級の「大事件」を発見したと確信したおばちゃんは、買い物袋を揺らしながら猛スピードでマンションへ帰っていった。
カナの部屋の前に到着するやいなや、勢いよくインターホンを連打した。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
「はーい!」
部屋の中で夕食の仕込みをしていたカナが、あまりの連打ぶりに驚いてドアを開ける。そこには息をゼェゼェと切らせながら、目を血走らせたおばちゃんが立っていた。
「カ、カナちゃん! 大変よ!!」
「えっ!? おばちゃん、どうしたの? 」
「大変なのよ! さっきね、商店街で旦那さんを見たんだけどね……若い女の人と仲良く歩いてたわよ! 私、この目でバッチリ見ちゃったんだから!」
両手を広げて大身振りに身を乗り出すおばちゃん。突然の「現場目撃報告」に一瞬ポカンとしたカナだったが、恭介から今朝言われていた言葉をすぐに思い出した。
(そういえば今朝、恭介さん『午後は女性のクライアントと直帰で打ち合わせだから夕飯遅くなるかも』って言ってたっけ……)
「あぁ〜……それ、なんかお仕事みたいです」
カナが拍子抜けしたようにフッと肩の力を抜いて笑うと、おばちゃんは「あら……?」と目を見開いた。
「あら、そうなの!? 仕事なの……!?」
「はい、今朝恭介さんから聞いてたので大丈夫ですよ」
「もー! てっきり私、浮気の現場を押さえた気になっちゃって損しちゃったじゃない! 全く、紛らわしいんだからぁ!」
肩透かしを喰らったおばちゃんは不満そうに言いつつも、すぐに表情を真剣なものに変え、カナの両手をガシッと力強く握りしめた。
「でもね、カナちゃん。もし本当に浮気されれたりしたら、遠慮なくすぐに私に言うんだよ! わかった!?」
「ふふ、は、はい! ありがとうございます!」
おばちゃんの暑苦しいほどの優しさと頼もしさに、カナは苦笑いしながらも胸の奥が温かくなるのを感じていた。
その日の夜。無事に打ち合わせを終え、疲れ果てた様子で帰宅した恭介は、玄関のドアを開けるなり深々と溜め息をついた。
「ただいま……」
「おかえりー!」
キッチンからトントンと包丁を振るう心地よい音が聞こえ、カナが出迎える。恭介は靴を脱ぎながら、げっそりとした顔で言った。
「今日……昼間におばちゃんに変な目で見られたぞ……」
「あぁ、おばちゃんから聞いたよ〜」
「聞いたのかよ……」
恭介がリビングのソファーに倒れ込むと、カナはクスッと笑いながらお茶を運んできた。
「マジで焦ったんだからな。『可愛い奥さんがいるのに』とか言われちゃってさ。ただの仕事だって言ってるのに、全然信じてくれねぇし……」
「女の人と一緒のときに!? あはは! おばちゃん、相変わらずすごすぎるね!」
お腹を抱えて爆笑するカナを見上げ、恭介は困ったように頭を掻いた。
「でもね、おばちゃんは完全に私の味方だからね! もし恭介さんが変なことしたら、おばちゃんがガツンと言ってくれるんだって!」
恭介は呆れつつも、自分たちの間に自然と溶け込んでいるおばちゃんの存在と、それを受け入れて楽しそうに笑うカナの姿に、どこか誇らしくて温かい気持ちになるのだった。
◇
それから数日後の、休日の午後。
いつも旬の野菜や惣菜をお裾分けしてくれるお隣さんに、何かお返しがしたいと考えたカナは、朝からキッチンに立っていた。
カナが働くのはデパートのブランド化粧品コーナーだ。日頃から美意識が高く、手先が器用な彼女は、お菓子作りも得意だった。今日作ったのは、スパイスの香りがほのかに漂う「キャロットケーキ」。すりおろした人参とシナモン、クルミを練り込んで香ばしく焼き上げ、仕上げにクリームチーズのフロスティングを美しく塗った自慢の一品だ。
丁寧にラッピングを施した箱を抱え、カナは隣の部屋のインターホンを押した。
ピンポーン。
「はーい」
ガチャリとドアが開くと、割烹着を着たおばちゃんが顔を出した。
「あ、カナちゃん。どうしたの?」
「おばちゃん、これ! いつもいろいろ貰ってるから、そのお返し!」
「あらぁ〜! まぁ〜、ありがとう! これ、何? ケーキ?」
「キャロットケーキだよ。人参とシナモンが入ってて、上のクリームと一緒に食べると美味しいよ!」
「よくわからないけど、すごくおしゃれで美味しそうじゃないの! ちょうどお茶にしようと思ってたところなのよ。まぁあがんなさいよ、すぐ温かいコーヒー出すから!」
促されるまま、カナはおばちゃんの部屋へと足を踏み入れた。
おばちゃんの部屋は、昭和の温かみが残るどこか懐かしい空間だった。小さな座卓の上に運ばれてきたコーヒーとともに、カナが作ったキャロットケーキを切り分ける。
「それじゃあ、いただきます……んん〜っ! 美味しいわぁ〜!」
一口食べたおばちゃんは、目を丸くして感嘆の声を上げた。
「これ、本当にカナちゃんが作ったの!? お店で売ってるやつみたいじゃないの!」
「ふふ、良かった! お口に合って嬉しいな」
ベタ褒めされて照れるカナに、おばちゃんは嬉しそうに目を細めた。そこから二人の世間話が始まった。
「おばちゃん、いつも一人でご飯食べてるの?」
「そうなのよ。何年か前に旦那に先立たれてねぇ。息子夫婦は遠くに住んでて、滅多に帰ってこないのよ。まぁ、たまに孫が顔を見せに来てくれるのが一番の楽しみなんだけどね」
おばちゃんは壁に飾られた、幼いお孫さんの写真を愛おしそうに指さした。
「だからね、隣にカナちゃんたちみたいな若いカップルが越してきてくれて、すごく嬉しいのよ。毎日賑やかでさ。勝手に自分の娘みたいに思っちゃって、余計なお世話ばかり焼いちゃってごめんねぇ」
「ううん! 全然余計なお世話なんかじゃないよ! 私、すごく嬉しいもん。本当のお母さんかおばあちゃんができたみたいで」
カナの素直な言葉に、おばちゃんは「まぁまぁ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」と目尻を下げた。
お互いの昔話や恭介のグチ(?)で花を咲かせているうちに、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。ふと壁掛け時計を見たカナは、跳ね起きるように立ち上がった。
「あ、やば! もうこんな時間だ! そろそろ帰ってきちゃうかも!」
「あら、ほんとね! 楽しすぎて引き止めちゃってごめんねぇ!」
「ううん、すごく楽しかった! 美味しいコーヒーごちそうさまでした! ありがとね、おばちゃん!」
「うん、またいつでもおいでー!」
笑顔で手を振るおばちゃんに見送られ、カナは急いで自分の部屋へと戻った。
ドアを開けると、案の定、仕事を早めに切り上げて帰宅していた恭介が、リビングのソファーで手持ち無沙汰そうにお腹を押さえて転がっていた。
「おかえりー!」
「どこ行ってたんだよ……腹減ったー……」
恭介が弱々しい声で、恨めしそうな視線をカナに向ける。
「あはは、ごめんごめん! 隣のおばちゃんと話が盛り上がっちゃって」
「また、おばちゃんかよ……」
恭介は呆れたように天井を仰ぎ、深々と溜め息をついた。
「いつの間にそんな仲良くなってんだよ」
「いいでしょ〜? おばちゃん、遠くにお孫さんがいるんだって。私のことすごく可愛がってくれて」
嬉しそうに今日あった出来事を報告するカナの顔は、とても輝いていた。恭介はそんなカナの頭を「はいはい」と優しく撫でながら、「じゃあ、飯にしようか」と笑うのだった。
そして、平日の朝。
カナは姿見の前で、真剣な表情で最後の仕上げにかかっていた。
デパートで美容部員として働くカナにとって、自分の顔はまさに「ブランドの看板」であり「歩く広告」だ。休日の柔らかい雰囲気とは一変し、今日は重要な新商品のプロモーションということもあって、気合の入り方が違っていた。
ベースメイクは陶器のように隙なく滑らかに整え、秋らしい深みのあるグラデーションでアイメイクを完成させる。リップは鮮やかな勝負カラーをきっちり輪郭をとって塗り、ツヤの出るハイライトで立体感をプラスする。
「よし、……完成!」
姿見の中で完璧に仕上がった自分に小さく頷くと、カナはヒールの高いパンプスを履き、カバンを手に取った。
カツカツとヒールの心地よい音を響かせながらドアを開ける。すると、ちょうど廊下では隣のおばちゃんがモップを片手に共有部分の掃除をしているところだった。
「おはようございます!」
カナが通り際、通る声でハキハキと挨拶を投げる。
「おはよう……」
返事をしながら振り向いたおばちゃんだったが――カナの姿を見た瞬間、ピタリと動きを止めた。持っていたモップの手が固まり、目と口を限界まで大きく開けてカナを穴が開くほど見つめている。
「あら!! カナちゃん!」
想像を遥かに超えるリアクションに、カナは思わず苦笑いを浮かべた。おばちゃんはモップを立てかけ、カナの周りをぐるりと回りながら、信じられないといった様子で声を張り上げた。
「すごい綺麗じゃないの! いつもとはまるで別人みたいだよ!!」
「一緒だよ!(ちょっと! おばちゃん!)」
カナが赤面しながら即座にツッコミを入れると、おばちゃんはポンと自分の手を叩いた。
「いやぁ〜、本当にデパートの化粧品売り場にいるお姉さんだね……!」
誇らしげに胸を張るカナを見て、おばちゃんは感心したように深く頷き、カナの肩をポンポンと叩いた。
「いやぁ、目の保養だわ。こんなべっぴんさんでお出かけじゃ、街の男たちがほっとかないわねぇ。」
「あはは、大丈夫です! じゃあ、いってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい! がんばってねー!」
おばちゃんの元気いっぱいの見送りを受けながら、カナはカツカツとヒールを鳴らし、誇らしく晴れやかな足取りでエレベーターに乗り込んだ。
カナはふと胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。
見知らぬ街へ越してきて、最初は不安や恥ずかしさでいっぱいだった日々。そんな中で、ズカズカと遠慮なく踏み込んできては笑わせてくれたおばちゃんの存在は、いつの間にかこの場所を「帰ってくるべき温かい日常」に変えてくれていた。
お節介で、お茶目で、ちょっぴり早とちりだけど、誰よりも自分たちの幸せを心から喜んで守ろうとしてくれる、世界一頼もしいお隣さん。
(おばちゃん、いつも本当にありがとう)
心の中でそっと感謝をつぶやき、カナは秋の澄んだ空を見上げた。おばちゃんの温かいエールを背中に感じながら、今日も愛する人の待つ部屋へ帰るために、カナは前を向いて力強く歩き出したのだった。




