新生活
リビングのローテーブルに二人のスマホとノートパソコンが並ぶ。賃貸情報サイトの画面をスクロールするカナの表情は、どこまでも明るい。
毎夜の日課は、ふたりでパソコンやスマホの画面を突き合わせる「物件探し」になった。
「ねえ恭介さん、ここどう? 2LDKで日当たりもすごく良さそうだよ!」
カナが画面を恭介に見せると、恭介は画面を覗き込み、うーんと眉をひそめた。
「うーん……間取りは良いけど、ここだと俺の会社から遠いな。乗り換えも増えるし」
あーでもない、こーでもないと条件を言い合いながら、画面上の間取り図にふたりのこれからの生活を重ね合わせていく。
条件を出し合って画面を眺める日々が続いていたが、ついに「これだ」と思える物件に行き当たった。
築年数は浅く、すっきりとしたモダンな外観の3階建てマンション。間取りは対面式のシステムキッチンを備えた広めのLDKと、それぞれのプライベート空間を確保できる2つの洋室がある2LDKだった。南向きのバルコニーからは余計な遮蔽物がなく、心地よい風と陽光がリビングのすみずみまで差し込んでくる。
内見の当日、現地で合流した不動産屋の若い女性担当者が、朗らかな声でふたりを案内してくれた。
「こちらのマンション、徒歩3分の場所に24時間営業のスーパーがありますので、お買い物もかなり便利ですよ。最寄りのバス停も目と鼻の先ですので、雨の日の通勤も困りません」
スリッパを履き、前の住人の匂いがないまっさらなフローリングを踏みしめる。
不動産屋のお姉さんが「こちらがバルコニーです」と窓を開けると、ふっと通り抜けた風が心地いい。日当たりも、ベランダからの見晴らしも申し分なかった。
(内見なんて、おそらくお互いに最初の結婚のとき以来だろうな……)
恭介はふと、そんな思いを脳裏に浮かべた。しかし不思議と、過去の苦い記憶やしがらみが胸をかすめることはなかった。
恭介自身は、住めばどこでも都だと思っている。こだわりがないわけではないが、カナがこの部屋を本気で気に入るかどうかがすべてだった。
「カナ、どう? 日当たりもいいし、収納もそれなりにありそうだけど」
恭介が声をかけると、カナはリビングの中央に立ち、部屋全体をゆっくりと見渡していた。その表情には、じっくりと新しい生活を思い描く真剣さと、隠しきれない高揚感が滲み出ている。
決定権はすべて、カナにあった。
カナは部屋の中を静かにもう一巡し、窓から差し込む光と真新しい壁紙を確かめるようにゆっくりと頷いた。
「ここがいい。ここにしよ」
その一言に、案内してくれていた不動産屋の女性担当者がパッと表情を明るくし、「ありがとうございます! それでは、お申し込みとお手続きのご案内をさせていただきますね」とニコリと微笑んだ。
手続きは順調に進み、ついに真新しい鍵を手にする日がやってきた。
重厚なドアを開けると、そこにはまだ電気もガスも通っていない、しんとした静寂が広がっていた。カナの離婚手続きはまだ完全に終わってはいないが、今の部屋を引き払う準備も兼ねて、休みのたびに少しずつ自分たちの手で荷物を運び込むことにした。
洋服、お気に入りの食器、そして二人の夜に欠かせないお酒。
2LDKの部屋割りは自然と決まった。日当たりの良い大きな窓がある洋室が俺の部屋になり、もう一方の落ち着いた部屋がカナの部屋だ。
大きな家具も家電もまだ届いていない。何もないまっさらなリビングで、帰りに近所のスーパーで買ってきた惣菜のパックを広げ、缶ビールとウイスキーのボトルを直置きにした。
カーテンのない大きな窓からは、柔らかい月明かりがすうっと差し込み、何もないフローリングの床を淡く照らしている。
「いい部屋だな」
俺がポツリと言うと、カナは手に持ったグラスを揺らしながら嬉しそうに目を細めた。
「そうだね」
どこか照れくさそうに笑うカナの横顔を見つめていると、胸の奥から愛おしさがこみ上げてくる。どちらからともなく寄っていき、吸い寄せられるようにカナの身体を強く抱きしめた。
静まり返った部屋の中、ひんやりとしたフローリングの上で、二人の新しい時間が静かに始まっていった。
◇
連休の初日、トラックの停車する音とともに、屈強な作業員たちが手際よく大きな荷物を運び込んできた。
冷蔵庫、洗濯機、タンス――何もない空っぽだった空間が、大型家電や家具が配置されるたびに、急速に「生活の場」へと姿を変えていく。最後に入ってきたのは、新しく注文したダブルベッドだった。過去の生活を一切持ち込まないよう、「ベッドだけは絶対に新品にしよう」と二人で話し合って決めたものだ。
電気も水道もガスも開通し、ライフラインはすべて整った。これでいつでも生活を始められる。
「じゃあ、私一旦戻るね。まだ細かい片付けが残ってるから」
「おう、気をつけてな。無理すんなよ」
カナは名残り惜しそうに部屋を見回してから、自分の自宅へと戻っていった。彼女の離婚手続きも、いよいよ大詰めを迎えている。
一人残された恭介は、真新しいベッドのマットレスにゆっくりと腰を下ろした。
静まり返った部屋には、先ほどまでカナがいた気配がかすかに残っている。恭介は今日から、ひと足お先にこの新しい部屋に泊まることにした。
カーテンを開けると、街の灯りが遠くまで広がっている。
妻との別居、カナの部屋での居候生活、そして今回の部屋探しと引越し。目まぐるしく動いたここ数ヶ月の出来事を振り返りながら、恭介は深々と息を吐いた。
(本当に、新しい生活が始まるんだな……)
静かな夜の空気が、恭介の胸にゆっくりと染み込んでいった。
翌日の夕方、仕事を終えて新しい部屋の鍵を開けると、芳しい料理の匂いとともに「おかえり!」と明るい声が響いた。
カナが出迎えてくれる。その笑顔を見ただけで、一日の疲れが吹き飛んでいくようだった。
ふとリビングのローテーブルに目をやると、お歳暮に使うような綺麗な包装紙に包まれた箱がいくつか並べられていた。
「ん? なにこれ?」
「あ、お隣さんとかに挨拶に行こうと思って。買ってきたの」
「あ、そうだね。今のうちに行っておこうか」
二人で箱を手に取り、まずは隣の部屋のインターホンを押した。
ピンポーン。
「はーい」
扉が開くと、ぽっちゃりとした気の良さそうな、どこか親しみやすいお母さん風の女性が顔を出した。
「隣に引っ越してきた者です。これからよろしくお願いします」
恭介が挨拶をして箱を差し出すと、女性は顔をほころばせた。
「あら、いいのにー! ご夫婦?」
間髪を入れず、カナがいつものように自然なトーンで答える。
「はい」
その迷いのない返事に、女性はさらに目を細めた。
「よろしくね。何か困ったことがあったら、なんでも聞いてね!」
温かい笑顔で見送られながら、次は下の階へ向かった。出てきたのは若い女性で、こちらも落ち着いた雰囲気のカップルか新婚夫婦といった様子だった。
一通り挨拶を終えて1階へ下りると、ちょうどエントランスに管理人のおじさんがいた。
「どうも、新しく入居した者です」と声をかけると、おじさんは「ああ、よろしくお願いしますね」と気さくに頷き、ハッと何かを思い出したように手を打った。
「あ、そうだ。奥さん、ちょっと待ってて」
そう言って管理人室へ消えていくおじさん。
(奥さん……)
その言葉が聞こえた瞬間、隣に立つカナの口元が分かりやすく緩むのを、恭介は見逃さなかった。
すぐに出てきたおじさんは、「はい、これ。入居のプレゼントね」と箱入りの洗濯用洗剤をカナに手渡してくれた。
「ありがとうございます!」
洗剤を受け取るカナの顔は、完全に上機嫌そのものだった。
「奥さん」と呼ばれた余韻を慈しむように、大事そうに洗剤の箱を抱きかかえている。
これからこの部屋で暮らす限り、あの管理人のおじさんからはずっと「奥さん」と呼ばれ続けるのだろう。
エレベーターへ向かうカナの足取りは、昨日にも増して誇らしげで、弾んでいた。
◇
何事もなかったかのように、二人の新しい日常が静かに動き出した。
朝、アラームの音で目を覚まし、カーテンを開けて朝光を浴びる。キッチンから漂う香ばしいコーヒーの匂いと、朝食の準備をするかすかな羽釜の音。
「おはよう」
「おはよう、今日も暑くなりそうだね」
何気ない挨拶を交わし、朝食を済ませて、いつものようにそれぞれの仕事へと向かう。
夕方、仕事を終えてドアを開ければ、「おかえり」という温かい声と温かいごはんが待っている。ローテーブルを挟んで、その日にあった他愛もない出来事を話し、食後はグラスを傾けながらテレビを観たり、読書をしたりして穏やかな時間を分け合う。
そして、同じベッドで身体を寄せ合って眠りにつく。
かつて二人の間に漂っていた「不倫」「別居」「離婚協議」といった泥沼の言葉や、いつ破綻するかわからないという冷たい緊張感は、どこにも存在しなかった。
世間から見れば、それはどこにでもある「ごく普通のカップル」の日常。
けれど、激しい感情の乱高下や不安の夜をくぐり抜けてきた二人にとって、この「何事もない普通の日々」こそが、何よりも新しく、かけがえのない愛おしい生活だった。
「窓を開けると涼しいねー」
「そうだな」
心地よい夜風がシーツを揺らす室内で、ふたりベッドの上でゴロゴロと体を寄せ合っていた。いつもと変わらない愛おしい流れでそのまま密やかな夜を迎え、ふたりは深く穏やかな眠りについた。
――そして、次の日の午後。
用事で出かけようとカナがドアを開けて玄関を出ると、ちょうど隣の部屋のおばさんが廊下にいた。
「こんにちはー!」
カナはすっかりこの部屋での生活にも馴染み、満面の笑みで挨拶をする。
「あら、こんにちは。今日は涼しいわねぇ」
「そうですね」
「どう? もう慣れた?」
「はい!」
「それは良かったわ!」
おばさんはそう言ってニコニコとカナを見つめていたが、ふと口元を緩めると、どこか意味深な表情でニヤニヤとし始めた。
「……ほんと、若いっていいわね〜。羨ましいわよ」
「ん?」
一瞬、カナは不思議そうに首を傾げた。若いっていい? 急にどうしたんだろう。
次の瞬間、カナの脳裏に昨日の夜の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
(はっ……! ま、まさか……!!)
昨日の夜――窓を開けたまま、恭介と、あの雰囲気に……。
「っ!!!!」
一瞬で顔が爆発したように真っ赤になる。耳まで熱くなり、血の引く音が聞こえるようだった。
「す、すいませんっ! うるさかったですか……!?」
カナは恥ずかしさのあまり消えてしまいたい衝動に駆られながら、必死に頭を下げた。
するとおばさんは、声を上げてカカカと笑い、カナの肩をポンポンと叩いた。
「いいのよ〜! 若いうちってのは元気があっていいんだから!」
「き、気をつけますっ……!」
顔を真っ赤にしたまま恐縮するカナに、おばさんは「いいのよ〜、本当に気にしないでね!」と優しく温かい笑顔を向けた。
恥ずかしさで爆発しそうだったカナだったが、この気取らないおばさんの懐の深さに、どこか救われる思いでもあった。
ちなみに――このときは悶絶するほど恥ずかしい思いをしたカナだったが、この「事件」をきっかけに、このおばさんとは将来的に何でも話せるすごく仲の良い間柄になっていくのだった。
休日の午後、部屋でまったりと過ごしていると、玄関から軽やかな音が響いた。
ピンポーン。
「はーい」
カナがインターホンへ向かうと、画面の向こうで手招きをする人物が見えた。
「私よ、私」
隣のおばちゃんだ。カナがドアを開けると、おばさんは手にずっしりと重そうなボウルを抱えて立っていた。
「カナちゃん、しじみをたくさん貰ったから食べてよ」
「えー、嬉しい! おばちゃん、ありがとう!」
カナがパッと表情を輝かせると、おばさんは「いいのよ〜、うちじゃ使いきれないからさ」と目を細めた。
「砂抜きはもうしてあるから、そのまま使って大丈夫だからね。お味噌汁にしても美味しいし、酒蒸しにもいいわよ」
「本当ですか? 主人はお酒飲むからすごく喜びます!」
「あら、ご主人お酒好きなの? じゃあぴったりねぇ。しっかり栄養取って、また夜も元気でいてもらわないとね!」
「っ……! お、おばちゃん……っ!」
サラッと爆弾を投げ込まれ、カナの顔が再びカッと熱くなる。あの「窓開け事件」以来、すっかり打ち解けたおばさんは、こうして時々からかうような冗談を交えつつも、カナのことを本当の娘のように可愛がってくれていた。
「ふふ、冗談よ。じゃあね、また何かあったらいつでも言ってね!」
おばさんは楽しそうに笑いながら手を振り、自分の部屋へと戻っていった。
ドアを閉め、しじみの入ったボウルを大切に抱えながら、カナは「もう、おばちゃん!」と苦笑いした。
最初は恥ずかしさでいっぱいだったお隣さんとの関係も、今ではこの部屋で過ごすカナにとって、とても心強く温かい日常の一部になっていた。
恭介が仕事を終えてマンションに帰り、1階のエントランスに入ると、ちょうど買い物へ行く途中の隣のおばさんと鉢合わせた。
「こんにちは」
恭介が声をかけると、おばさんは「あら、おかえり!」と顔をほころばせた。
「カナちゃんにしじみ渡しといたよー」
「あ、ありがとうございます」
恭介がお礼を言うと、おばさんはニカッと笑い、恭介に向かってニヤリと親指をグッと立てて見せた。そして、そのまま満足そうに去っていった。
(ん……? なんだ今の……?)
不思議に思いながらも部屋へ向かい、鍵を開ける。
「ただいまー」
「おかえりー!」
キッチンからカナの弾んだ声が返ってきた。手際よく夕飯の支度をしているカナの元へ向かう。
「1階で隣のおばちゃんに会ったよ。しじみいただいたんだって?」
「そうなの! たくさん貰っちゃって、今日のお味噌汁にしじみ入れたよ」
嬉しそうに鍋の蓋を開けるカナに、恭介は首をひねりながら尋ねた。
「なんかさ……おばちゃん、俺に親指立ててたぞ?」
「……えっ!?」
カナの手がピタリと止まり、お玉を持ったまま固まった。
(また『夜も元気で』とか思ってグッジョブしたなあの人……!)
一瞬で顔が熱くなり、カナは恥ずかしさと呆れで天を仰いだ。
「……もう、おばちゃんっ……」
「? なんだよ、どういう意味なんだ?」
何も知らない恭介が不思議そうにカナの顔を覗き込む。カナは「なんでもないのっ!」と赤くなった顔を背け、慌ててお味噌汁をかき混ぜ始めたのだった




