静かなる怒り
リビングでは、低めの音量で流れるテレビの画面がぼんやりと光っていた。バラエティ番組の笑い声が虚しく響いている。
ふと見ると、隣に座る恭介はテレビに目を向けつつも、どこか視線が泳いでいた。グラスを握ったまま、意識は完全に別の場所にあるような、上の空の様子だった。
カナはその違和感を見逃さなかった。
「ん? なんかあった?」
軽いトーンで尋ねると、恭介はハッと我に返ったようにカナを見つめ、少しの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「……実はさ、このまま離婚することになりそうなんだ。まだ先の話だけど」
その瞬間、カナの胸の中でジャンジャンと歓喜のベルが鳴り響いた。
(嘘……本当に……!?)
全身の血が逆流するほどの衝撃と喜び。しかし次の瞬間、カナの頭の中に「離婚」という現実の重さが過る。特に子供のことや、周囲を巻き込むいろいろなことをカナは身をもって知っていた。
ここで浮かれるのは絶対に違う。カナは必死で顔に出そうになる喜びを押し殺した。
「……そうなんだ。これからろいろと大変だね」
「あぁ……ありがとな、カナ」
恭介は深く息を吐き、少し救われたような顔をした。
「ちょっとお風呂入ってくるね」
カナは立ち上がり、脱衣所へ向かった。 扉を閉め、服を脱ぎ、湯船に浸かった瞬間――ずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
湯船の中で膝を抱え、顔を半分お湯に沈めながら、カナの口元がぐにゃりと歪む。恭介の前では隠し通した歓喜が、一気に溢れ出した。
(うそ……恭介さんが、本当に離婚する……!)
あとは待つだけなのだ。恭介が自由になるのを、ただ静かに待てばいい。
しかし、温かいお湯の中で足を伸ばした瞬間、ふと冷や水のような疑問が頭をよぎった。
――でも。離婚したあとに、恭介さんは私のところに来るのだろうか?
自由になった恭介が、わざわざ自分を選ぶという保証はどこにもない。「もう縛られたくない」と去っていくかもしれない。
リビングに戻ると、恭介はソファに深く腰掛け、スマホの画面を指でスクロールしていた。
「恭介さんも入ってきたら?」
髪をタオルで拭きながら声をかけると、恭介はスマホをテーブルに置き、小さく息を吐いた。
「ああ、入ってくる。……あ、そういえばさ」
恭介は立ち上がりかけ、ふと思い出したようにカナを見た。
「近いうちに、新しく部屋を探さないとな」
「……え?」
カナの手がピタリと止まる。
「本格的に離婚になると、ちゃんと自分の部屋借りないとな」
恭介は何気ない口調で言い、そのまま脱衣所の方へと歩いていった。
パタンと扉が閉まる音。
カナはリビングの真ん中で立ち尽くした。タオルを握りしめる手に、じわりと力が入る。
(え……? 出ていくってこと? うそでしょ!)
思考が真っ白になり、続いて激しい動揺が波のように押し寄せてくる。
別居中のいま、恭介は半ばカナの部屋に入り浸るような生活をしていた。だからカナは、離婚が成立すればそのまま二人で一緒に暮らし始めるのだと、疑いもなく思い込んでいたのだ。
(新しく部屋を探す……? なんで……? 離婚して自由になるつもり……?)
「縛られたくないから」「一人になりたいから」と、自分から離れていく恭介の姿が頭をよぎる。
脱衣所の扉の向こうから聞こえるシャワーの音を聴きながら、カナの胸の奥で、先ほどまでの悲しみや冷たい不安とは違う「別の何か」が形を変えて膨らみ始めていた。
沸々と、マグマのように煮え滾るような怒りだった。
(やっと……やっと、この時が訪れたのに? 出ていく……? は? ふざけてるの?)
長年待ち望んでいた「恭介の離婚」という悲願。その先に待っているはずの未来を、恭介はあっさりと足蹴にしようとしている。カナは脱衣所の扉を、穴が開くほどの鋭い視線で睨みつけた。
やがてシャワーの音が止まり、バスタオルで頭を拭きながら恭介がお風呂から出てきた。
「ふぅ、さっぱりした」
呑気に呟く恭介に対し、カナは極めて自然な、いつもの穏やかなトーンを装って声をかけた。
「ねえ、恭介さん。部屋を探すって……どういうこと?」
カナは努めて普通の、穏やかなトーンで尋ねた。
恭介はバスタオルで髪を拭きながら、何でもないことのように当然の顔で答える。
「え? いや、これから本格的に離婚するんだから、自分の部屋を借りないとダメだろ」
「……え?」
「このままずっとここにいるわけにはいかないだろ? カナも離婚するんだし」
恭介の口からあっけらかんと飛び出したその言葉に、カナの思考が一瞬フリーズした。
カナもいま、旦那との離婚に向けて絶賛話し合い中だ。旦那はすでに家を出て行き、離婚が確定するまではこの部屋に住んでいいことになっている。世帯主も名義もまだ旦那のままだ。
だから、カナの離婚が成立すれば、自ずとこの部屋は引き払うことになる。それは分かっている。
(だけど……なんで『俺の部屋』なわけ……?)
カナの胸の奥で、静かに、そして激しくマグマが煮え滾り始めた。
恭介は「お互いに離婚して部屋を引き払うんだから、俺も自分一人で住む部屋を探さなきゃな」と、さも当たり前の理屈として話している。
二人で新生活を始めるための部屋を探すのではなく。 離婚して自由になった恭介が、カナを置いて「一人で暮らすための城」を作ろうとしている。
(……ふざけてるの?)
「別居中の居心地のいい避難場所」としてカナの部屋を散々使っておきながら、いざお互いに自由になったら、あっさりと一人でどこかへ行こうとしている恭介。
(やっと……やっとこの時が来たのに……!)
悲しみなど一瞬で吹き飛んだ。込み上げる猛烈な怒りを全神経で押し殺しながら、カナはテーブルの下でぎゅっと拳を握りしめた。爪が手のひらに痛いほど食い込んでいった。
恭介はスマホの画面で賃貸物件のサイトをスクロールしながら、どこまでも呑気に言葉を続けた。
「どこかいいとこないかなぁ。でも、こういうのってタイミングだからなぁ。たまたま良い物件が空いてたりするだろ?」
画面の光に照らされた恭介の顔には、一切の悪びれた様子もない。
その横で、カナの顔から完全に表情が消え去っていた。
カナにとって、恭介が離婚したあとに自分の元へ来るのは「当然の前提」だった。お互いに離婚が成立したら、当然ふたりで新しい生活を始めるものだと疑いもしなかった。
それなのに、目の前の男は「自由」を謳歌しようとしている。一人になって気ままに暮らす未来を夢見ている。
(……今までは、なんだったの?)
都合よく私の部屋を使っただけ? 私の時間も、気遣いも、全部ただの「一時しのぎ」だったっていうの?
沸点を超えた怒りが脳を焼き尽くし、カナの視界が赤く染まっていく。テーブルの下で握りしめた拳が震える。
我慢の限界だった。この呑気な顔を叩いてやりたい。衝動に突き動かされ、握りしめた拳を振り上げようと手が出かかった――まさにその瞬間。
「……あ、でも2LDKくらいでいいよな?」
恭介は何気ない口調で、画面から目を離さずに言った。
「それくらい広さがあれば、カナの部屋も作れるだろ?」
「……え!?」
カナの手が、空中でピタリと止まった。
「え! なに……!? 」
裏返った声を上げ、カナは呆然と恭介を見つめた。
恭介は「え? なにが?」という顔でカナ振り返り、不思議そうに首をひねっている。
「だから、新しい部屋だよ。カナだって自分の部屋がないと落ち着かないだろ?」
恭介のなかでは、「一人で住む部屋」ではなく「二人で住む部屋」を探しているのが、あまりにも当然すぎたのだ。
一瞬にして怒りの持って行き場を失い、カナの思考は完全にフリーズした。心臓がドクンと大きく脈打ち、あわや振り下ろされそうだった拳が、宙で虚しく震えていた。
「そ、そうだね……」
カナは絞り出すような声でそう返すのが精一杯だった。
背筋を冷たい汗が伝落ちていく。自分の手のひらを見つめると、指先が微かに震えていた。
(私……なにをしようとしてたの……?)
恭介を殴り倒そうと本気で手を振り上げようとしていた自分。恭介の言葉を勝手に悪い方に解釈し、勝手に激怒し、暴力まで振りかざそうとしていた。その異常なまでの情緒の振り幅に、カナは自分自身が恐ろしくなった。病気なんじゃないかと本気で疑うレベルだ。
「……お風呂、入ってくる」
呆然としたまま立ち上がり、脱衣所へ向かおうとするカナに、恭介が「は?」と声を上げた。
「さっき入ったばかりだろ」
「……もう一回、入ってくるの」
「え、洗えてなかったのか?」
恭介の呑気なツッコミを背中に受けながら、カナは逃げるようにバスルームへ駆け込み、カチャリと鍵を閉めた。
服を脱ぎ捨て、勢いよくシャワーを出す。温かいお湯が頭から流れ落ち、身体の緊張をほぐしていく。
恭介の言葉が、何度も脳内でリフレインした。
『2LDKくらいでいいよな? それだとカナの部屋もあるだろ?』
一人で住むんじゃない。二人で住む新居を探してくれていたんだ。
恭介はちゃんと、私との未来を当然のように考えてくれていた。
シャワーの音に包まれた密室の中で、カナの顔にぐにゃりと歪むほどの破顔が広がった。
「ッ……よし……!!」
カナはシャワーを浴びながら心の中で思いきり叫び声を上げた。
(やった! やったぞ!!)
両手を握りしめ、ボクシングの勝者のように何度も天井に向かって力強く拳を突き上げる。
(そうなんだよ! やってくれるじゃない恭介! )
ついさっきまで殺意すら抱いていたのが嘘のように、胸の奥から溢れ出す愛おしさと歓喜が暴走していく。情緒が完全におかしくなっているのは分かっていたが、もうそんなことはどうでもよかった。
勢いよくお風呂場を出ると、脱衣所にあったバスタオルをサッと肩に引っかけただけの、ほぼ全裸の状態でそのままリビングへ駆け出した。
「きょうすけさんっ!」
「うおっ!? なに――」
ソファに座る恭介の元へ小走りで寄り、勢いよくその胸に飛び込んで首元へ抱きついた。
「おいっ! びしょびしょじゃないか! っていうか服着ろよ! ちゃんと体拭いてこいよ!」
濡れた肌と雫で服を濡らされた恭介が、驚きと冷たさで声を張り上げる。しかしカナは腕の力を緩めるどころか、さらに強く恭介を抱きしめた。
「いいんだよっ!」
「なんだよ急に? おかしくなったのか?」
呆れ果てた恭介がカナの肩を押し開けようとするが、カナは恭介の顔を見上げ、今まで見せたこともないような満面の笑みを弾けさせた。
「うん、おかしくなった! あはは!」
バスタオルが一枚肩にかかっているだけの姿で無邪気に笑い転げるカナを、恭介は「マジで洗顔料でも飲んだのか?」と心底心配そうな目で見つめている。その呆れた視線すら、今のカナにとっては愛おしくてたまらなかった。




