最悪の羞恥
よく晴れた休日の午後。 近所にある、前から気になっていたおしゃれなインテリアショップで大規模なセールが始まるというチラシを見つけ、二人で出かけることにした。
広々とした店内には、北欧風の洗練された家具やシックな雑貨が整然と並んでいる。休日ということもあり、店内は家族連れやカップルで賑わっていた。
展示用のソファの感触を確かめていたカナが、ふと思い立ったように振り返った。
「タンスをそろそろ買い替えたいなって思ってたんだよね。部屋の雰囲気にもちょっと合わなくなってきたし」
「確かにそうだな。いいのがあれば探してみるか」
店内をあちこち散策しながら奥の大型家具エリアへと向かう。木目の温かみがあるナチュラルなものや、アイアンフレームを使ったモダンなデザインなど、様々な家具が並んでいた。 その一角で、カナがピタリと足を止めた。
「ねえ、恭介さん! これ見て!」
カナが指さした先には、清潔感あふれるマットな質感の白いタンスが佇んでいた。シンプルながらも洗練されたシックなデザインで、取っ手の真鍮パーツが上品なアクセントになっている。二人で暮らすリビング横の寝室に置けば、一気に部屋が明るくなりそうだった。
「おお、いいじゃん。安っぽくないし、サイズも今のにちょうどいいんじゃないか?」
「でしょう? それにね……ここ見て!」
カナが興奮気味に展示ポップのプライスカードを指さす。そこには大きな赤文字で、衝撃的な数値が躍っていた。
『現品限り・展示品入れ替えのため 70% OFF』
「な、70%オフ……!? まじかよ、元値結構するのに」
目をキラキラと輝かせるカナの熱意に押され、デザインも価格も文句なしということで、その場で即決。配送の手続きを済ませ、翌日の午後に届けてもらうことになったのだった。
翌日。約束通りの時間帯に配送業者が訪れ、ピカピカの新しい白いタンスが届いた。
2人で寝室に運び込む。少し模様替えをしながら設置する。部屋に新調された家具がひとつ入るだけで、空気までガラリと変わったように爽やかだ。
カナはキッチンで夕食の準備に取りかかっていた。トントンと軽快な包丁の音が響き、香ばしい油の跳ねる音と、出汁の甘い香りがリビングいっぱいに漂い始めている。今夜は手のかかる揚げ物と煮物がメインのようだ。
「恭介さん! ごめん、私いま手が離せないから、古いタンスの中身、新しい方に移動させておいてもらえる!?」
キッチンから身を乗り出すようにして、フライパンを握りしめたカナが声をかけてきた。
「え……? おい、タンスの中身って……カナの下着とかも入ってんだろ? どうすんだよ」
恭介が戸惑いながら尋ねると、カナは特に気にした様子もなく、フライパンを揺らしながらあっけらかんと振り返った。
「大丈夫だよ! 前も見てたでしょ!そのまま同じように入れ替えてくれればいいから! よろしくね!」
「あ、おい……!」
拒否権を与える間もなく、カナはすぐさま料理の世界へと戻ってしまった。
「マジかよ……」
恭介はひとつ大きな溜息をつき、寝室に置かれた新しい白いタンスの前にぽつんと立った。 ベッドの上には、搬出の際に一時避難させたカナの服や衣類が山積みになっている。意を決して腕まくりをし、作業に取りかかることにした。
上の段のカットソーやニット、部屋着の類はスムーズだった。丁寧に畳み直しながら、新しい引き出しへと収めていく。問題は、深い引き出しに収納されていた衣類だった。
恭介はゴクリと唾を呑み込んだ。
そこにあったのは、普段使いのシンプルなコットン製のものから、二人の特別な夜に使われるような色鮮やかなレースの勝負下着まで、カナの極めてプライベートなラインナップだった。
手にとって破いてしまわないかヒヤヒヤするほど、繊細で柔らかい生地や細いストラップ。恭介はまるで時限爆弾を解体するかのように指先に細心の注意を払い、そのままの状態で手に取り、白いタンスの引き出しへと慎重に移動させていった。
額にうっすらと汗を浮かべながら作業を続けていた、その時だった。
綺麗に詰め込まれた下着の一番底、古いタンスの引き出しのさらに一番奥に隠されるように置かれていた――ポツンと小さな「巾着袋」が顔を出した。
恭介の手がぴたりと止まる。
素朴な地味な生地で作られており、口が紐でキュッと固く結ばれている。明らかに周りの下着や衣類とは異なる、独特の存在感を放っていた。
(これは……)
恭介の頭の中で、けたたましく警報が鳴り響いた。
――絶対に見てはいけないものだ。
恭介も伊達に年を重ねていない大人だ。自分の彼女が、わざわざ下着の奥の奥に隠しているこの小さな巾着袋の中に、一体何が入っているのか……薄々、いや、ほぼ確実に察しはついていた。
「恭介さーん? 順調〜? もうすぐご飯できるよー!」
キッチンから能天気で楽しそうなカナの声が飛んでくる。
「う、うん。もうすぐ終わる!」
恭介は返声を上げながら、巾着袋の結び目や口には一切触れないよう、まるで超危険物や致死性の薬品でも扱うかのように、指先で袋の端をチョンとつまんだ。そして、新しいタンスの一番下の引き出し、その最も奥の暗がりへとそっとそのまま移動させた。
ふう、と胸を撫で下ろし、すべての作業を完了させた恭介は、静かに引き出しを閉めたのだった。
「お待たせー! 今日は気合入れて作ったからね!」
食卓には、揚げたてのカツとホクホクの肉じゃが、炊きたてのご飯と味噌汁がずらりと並べられた。 二人は向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。サクサクの衣に歯を立てながら、恭介はどこか申し訳なさそうな、けれど「俺は中身に一切気付いていない」という無害な男を完璧に演じながら、さりげなく切り出した。
「あ、そういえばさ……一番奥のほうにあった、あの袋みたいなやつも、同じように奥に移動させといた……」
カチン、と固まる音が見えた気がした。
その瞬間、カナの手から箸がポロッと零れ落ち、フローリングの上で虚しく転がった。
「あ!!!!!」
部屋中に響き渡るような絶叫。カナの顔から一瞬で血の気が引き、真っ青に青ざめた。
自分のプライベートの最深部に隠していたあの危険物の存在をすっかり失念し、恭介に作業を丸投げしてしまったという恐ろしい事実に、今さらハッと気付いたのだ。
青ざめていた顔は、次の瞬間には耳の根元まで真っ赤に沸騰した。あまりの恥ずかしさと絶望感に耐えきれなくなったカナは、ガタッと椅子を蹴るようにして立ち上がった。
そのままダイニングを飛び出し、リビングのソファへ倒れ込むと、クッションに顔を埋めて「うあーっ!」と叫びながら泣き始めてしまった。
「うわっ、おい! カナ!?」
予期せぬ大パニックに焦った恭介は、急いで立ち上がり、ソファの横へ駆け寄った。
「……もう最悪だよ。……うぅ、もう別れよう。もう一緒にいられない……っ」
クッションに顔をぎゅっと押し付けたまま、カナが消え入りそうな、けれど痛烈な絶望を込めた声でぶつぶつと呟く。
「はぁ!? なんでそうなるんだよ! ただ頼まれた通り移動させただけだろ! 中身だって見てないし!」
「うそ! 絶対見たでしょ!!」
「ほんとに見てないって! 紐だって解いてないし、中に何が入ってるかも知らないし!」
恭介は必死の形相で否定した。だが、カナにとって真の問題は「中身を見られたかどうか」ではなかったのだ。
そんな禁断のアイテムを恭介の手に触れさせてしまったこと、そして「そういうものを所持している」という事実そのものが知られてしまったという恥ずかしさが、彼女の乙女としてのプライドを粉々に砕き、完全な自暴自棄へと追い込んでいた。
「うぅ……もう嫌だ。一緒にいたくない……っ!」
しゃくりあげながらボロボロと涙をこぼすカナの姿に、恭介はどうにかして安心させようと、頭をフル回転させて言葉を選びながら優しく声をかけた。
「そんなことないって。大丈夫だから……ほら、大人の女性なら、そういうの持ってるのも普通だろ?」
一瞬、部屋の中に静寂が訪れた。
クッションから、ゆっくりと、恐る恐るカナの顔が上がった。 その目は涙で真っ赤に腫れ上がり、鼻を真っ赤にして、涙と怒りと恥ずかしさがぐちゃぐちゃに混ざり合った凄まじい表情になっている。
「……気付いてるじゃん!!!!」
「あっ――」
慰めようとしたはずが、完璧な墓穴を掘ってしまったことに気付いた時には、すでに遅かった。
「うああああん! やっぱり知ってるんじゃん!! 最悪!! 本当に最悪!!」
カナは再びクッションに激しく顔を埋め、先ほど以上の大泣きで足をバタバタとさせて暴れ始めるのだった。
「俺の友達も使ってるとか聞くから! だから全然普通だと思う!」
恭介はなんとかカナの「自分は変なんじゃないか」という絶望的な思い込みを解こうと、焦る頭で必死に言葉を重ねた。世間の例を出せば安心するだろうという、男ならではの単純な発想だった。
しかし、それがさらなる巨大な地雷を踏み抜くこととなる。
カナがバッと顔を上げ、涙で濡れた瞳でキッと恭介を恐ろしい勢いで睨みつけた。
「誰!? 誰よそれ!」
「え……ほら、タクヤとか。あいつの彼女もそういうの持ってるって昔言ってたし……なんなら大きいの使ってるとか……」
「私のことも言うんでしょ!? 『カナもそんなの持ってる』とか絶対ネタにして言うんでしょ!! もう死にたい!!!」
最悪のシチュエーションが頭の中で一気に膨らんでしまったカナは、再び頭を抱えて「うあああん!」と大号泣の第二波に突入した。
「いや、言わないから! 絶対に言わないって!」
焦り度が限界に達した恭介は、ソファに座り込むカナの両肩を強く掴み、真っ赤な顔で涙をポロポロ流す彼女の目をまっすぐに見つめた。
「言うわけないだろ! そんな恥ずかしいこと、人に喋るわけないだろ! ……いいか、これは俺とカナ、二人だけの秘密な」
「ひぐっ……ぐすっ……ほんと……?」
「ほんと。墓場まで持っていく。絶対に誰にも言わない」
恭介が力強く、一点の曇りもない目で言い切ると、カナは大きくしゃくりあげながら、消え入りそうな蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……約束、破ったら死ぬからね……」
「うん、わかった。絶対に破らない」
「……あと、あの袋のやつ……私、使ったことないから……」
涙で濡れた長いまつ毛を伏せながら、顔を真っ赤にしてボソッと呟いたカナ。
(嘘つけw)
恭介の心の中で、猛烈なツッコミの嵐が吹き荒れた。 『じゃあなんで下着の一番奥に隠してあるんだよ!』という当然の言葉が喉元まで出かかったが、ここでそれを一口でも発したら間違いなく命はない。恭介は絶対に顔に出さないよう、全身の筋肉を硬直させて表情を殺した。
「……おう、そうか」
「うん……」
恭介は優しくカナの柔らかい髪を撫でながら、そっとその小さな体を抱きしめた。怒涛の修羅場をなんとか乗り切ったことに、心の中でそっと深々と胸を撫で下ろす。
恭介の腕の中で、しばらく静かに鼻をすすっていたカナ。 温かい腕の温もりに包まれて少し落ち着いてきたと思ったら、急に上目遣いで、不安に揺れる瞳で恭介を見上げてきた。
「……私のこと、エッチな女だと思ってるんでしょ」
(まぁ、それは前から思ってるけどな)
喉まで出かかった身も蓋もない本音を必死に押し殺し、恭介は世界一真摯な男の顔を作った。
「そんなことあるわけないだろ」
「うそ……本当は汚い女だと思って、軽蔑してるんでしょ?」
「全然! むしろもっと好きになったわ」
「そんなわけないじゃない!」
パニックのあまり極端すぎる自暴自棄に走りまくるカナに、恭介は優しく微笑んで、包み込むように言葉を重ねる。
「本当だって。逆に、そういう大事なことを俺に秘密にされてたことの方がショックだったわ」
「言うわけないでしょ……!」
悔しそうに小さく唇を噛むカナの可愛らしさに、恭介は少し緊張がほぐれ、ニヤリと悪戯っぽく笑ってみせた。
「じゃあ今度、俺がもっと大きいやつ用意しとくな」
「変態じゃん! 気持ちわるっ!」
カナはバッと恭介の胸を強く突き飛ばし、真っ赤な顔で言った。
(おいおい……)
持ってたのはお前だろ、というツッコミが喉から破裂しそうになったが、ここで反論すれば確実に振り出しに戻る。恭介はグッとそれを飲み込み、降参するように苦笑いを浮かべた。
「そ、そうだな」
「そうだよ! 変態!」
カナはプイッと横を向くと、乱れた髪をサッと耳にかけた。そして、完全に冷め切ってしまったテーブルの上の美味しそうな夕食をちらりと見る。
「……ご飯、温め直してくる」
「おう、ありがと」
少しぎこちない足取りで、エプロンの裾を直しながらキッチンへ向かうカナの背中を見送りながら、恭介は寝室の新しい白いタンスの方へ視線をやった。
引き出しの、一番奥。そこにひっそりと眠る、小さな巾着袋。恭介は一人で小さく苦笑いしながら、カナが温め直してくれる温かい夕食を待つのだった。




