キャットアイ
平日午後のデパートは、静かで落ち着いた高級感が漂っている。
恭介は8階の催事・イベント事業部との打ち合わせのため、1階の正面口からデパートへ足を踏み入れた。
足を踏み入れた瞬間に漂う、数々の高級ブランドが混ざり合った華やかな香水の香り。色とりどりのボトルや洗練された照明に彩られた1階のコスメフロアは、周囲を見渡しても女性客や綺麗にメイクをしたスタッフばかりで、スーツ姿の男ひとりではどうにもアウェイ感が否めない。少しばかり肩を身狭くしながらエレベーターホールへ向かって歩き一際シックな照明に照らされたブランドのブースが目に入る。
洗練されたホワイトとゴールドを基調とした、格調高い店舗。その中央で、立ち姿美しく客に対応している女性の姿がある。
――カナだ。
すっきりと品良くまとめたヘアスタイルに、スキのない完璧なプロのメイク。黒のパンツスーツを美しく着こなし、背筋をすっと伸ばして立ち振る舞う姿は、普段自宅で見せる表情とは完全に別人の「プロの顔」だった。
客の問いかけに優雅に微笑み、商品を取り扱う指先の一つひとつにまで無駄がない。圧倒的な美しさと「男ガード全開」の隙のないオーラを纏っている。
(……仕事モードの完全体のカナ、相変わらず綺麗だな……)
立ち止まり、少し離れた柱の陰から見とれていると、ちょうどひと通りの接客が終わったらしい。ふっと店内を見渡したカナの視線が、吸い寄せられるように恭介をとらえた。
(……えっ!?)
カナの完璧なプロの表情が、一瞬で驚愕に染まる。パッチリとした目が大きく見開かれ、「なんでここに……!?」と口元が固まっている。
恭介が楽しそうにニコッと微笑んで見せると、カナは周囲にお客さんがいないのを素早く確認し、きっちりとした姿勢のまま、早歩きで恭介のもとへと近寄ってきた。
「ちょっと、何してるの……!?」
周りに聞こえないよう声を潜めながら、動揺を隠しきれない様子で恭介を見上げるカナ。
「いや、これから8階のイベント事業部と仕事の打ち合わせなんだよ」
「えっ、仕事って…… 全然聞いてなかったんだけど!」
「急に決まったんだよ。通りかかったら、なんかめちゃくちゃ綺麗な店員さんがいるなーと思ってさ」
「もう、やめてよ……」
恭介の軽口に、カナの頬がほんのりと朱に染まる。職場で見せる「隙のない大人の女性」から、一瞬で恭介の前だけの表情へと崩れていく。
「打ち合わせって、どれくらいで終わるの?」
「うーん、1時間くらいかな」
「じゃあさ! 打ち合わせが終わったら、帰りに寄ってよ!」
恭介は自分のまわりを取り囲む、高級感あふれるガラスのショーケースと数々の化粧品ボトルを見回して苦笑いした。
「いや、化粧品屋だろ……? なんで男の俺が行かなきゃいけないんだよ」
「いいじゃん! 約束ね!」
「え、ちょっ……」
反論しようとする恭介を遮るように、カナは嬉しそうに微笑んで人差し指を立てた。
「待ってるから! ほら、遅刻するよ!」
「はいはい、分かったよ……」
小悪魔っぽく笑いながら手を出して送り出そうとするカナに苦笑しつつ、恭介はエレベーターへと向かった。
8階での1時間ほどの打ち合わせを終え、恭介は再び1階へと戻ってきた。 洗練されたコスメフロアの独特な香りのなか、店舗へ向かって歩いていく。
打ち合わせが終わった解放感はあるものの、やはり周りは女性客ばかりで、一人でコスメブースに近づくのは相変わらず緊張する。
意を決してブースに足を踏み入れると、カウンターの奥から上品で落ち着いた声が届いた。
「いらっしゃいませ」
目の前に立っているのが恭介だと認識した瞬間、そのプロの表情が一瞬で解け、嬉しそうに瞳をパッと輝かせた。
周囲の目を気にするように素早くフロアを見回してから、カナは静かに恭介のそばへ歩み寄ってくる。
「来てくれたんだ!」
トーンを落とした、接客用のやわらかく静かな声。けれど、その響きには嬉しさが隠しきれていない。
「……距離が近すぎだろ。ちょっと離れろよ……」
周りの目が気になって仕方ない恭介が小声で呟くと、カナは素知らぬ顔でくすりと笑った。
「いいじゃん」
離れるどころか、カナは「こちら、最新の保湿クリームなんですけど」とプロっぽい手つきで恭介の手の甲をすっと取った。
「ちょ、いいから。やめろよ」
「仕事してるんだから仕方ないでしょ? サンプルをお試しいただいてるだけですー」
澄ました顔で言いながら、恭介の手の甲によくわからないサンプルのクリームを滑らかに塗り伸ばしてくる。柔らかい指先の感触と、上品でほのかに甘い柑橘系の香りがふわりと漂う。
「打ち合わせ、うまくいったの?」
「うん、無事にまとまったよ。……それにしても、男の手にこんなクリーム塗ってどうすんだよ」
「ちょっと乾燥してるから丁度いいでしょ?」
ぬくもりのある手つきで優しく馴染ませてくるカナの仕草に、恭介の心拍数が少し上がる。
ふと視線を感じて横を見ると、少し離れたカウンターにいる別の女性店員とバッチリ目が合ってしまった。店員さんは温かい微笑みを浮かべ、恭介に向かって丁寧に会釈をしてくる。
恭介も思わず引きつった笑顔でペコッと会釈を返した。
「……恥ずかしいだろ」
「恥ずかしくない」
カナは平然とクリームを恭介の手になじませながら、楽しそうに小悪魔っぽい微笑みを浮かべたままだ。
それから客が来ないのをいいことに、他愛もない雑談を交わすこと5分ほど。手の甲のクリームもすっかり馴染んだ頃、恭介はチラッと腕時計に目をやった。
「じゃあ、俺そろそろ戻るわ」
「えー」
「いや、俺も仕事中だし。これ以上いたら本当に邪魔だろ」
「ちぇっ」
不服そうに唇を尖らせるカナに苦笑しつつ、恭介は手を振った。
「じゃあな」
恭介が背を向けて歩き出すと、カナは一瞬でピシッと背筋を伸ばす。
「ありがとうございましたー!」
完璧なお辞儀で見送るカナの声を聞きながら、恭介は塗られたばかりの手の甲を鼻に近づけた。ほんのり残る甘い香りに、なんだかソワソワした気持ちのまま、デパートの出口へと向かった。
恭介が去った後、少し離れたカウンターにいた先輩店員が、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべながらカナの隣にすっと寄り添ってきた。
「カナちゃん、彼氏?」
「あ、そうなんです。バレました?」
カナは少し頬を染めながら、照れくさそうに頭をかいた。
「そりゃバレるよ〜。あんなに距離近くてイチャイチャしてたんだから。ふふふ、仕事中にわざわざ顔出しに来てくれるなんて、優しい彼氏さんだね」
「そうですかー?」
カナはそう言いながらも、口元がゆるむのを隠しきれない様子で、恭介が去っていった方向をチラッと見やるのだった。
◇
その日の夜、カナの部屋。
お風呂上がりの甘い香りをまとわせたカナが、恭介のとなりに、ちょこんと腰を下ろした。
「あの後ね、他の子に聞かれたんだよね。『彼氏?』って」
「そりゃそうだろ。あんな至近距離で手になんか塗られて話してりゃ一目瞭然だわ。……で、バレると困るの?」
「ううん、全然! 明日も来てね」
「行くわけないだろ!」
恭介の食い気味なツッコミに、カナは「えー!」と楽しそうに笑った。
「でもさ、化粧品屋って男の客ってくるの?」
恭介が素朴な疑問を投げかけると、カナは顎に手を当てて「うーん」と首をひねった。
「数は少ないけどたまに来るよ。奥さんと一緒にプレゼントを選びに来たりとかね。最近は自分用にスキンケアやメイク道具を買いに来る男の人も増えてるし」
「へえー、いるのはいるんだな。……彼氏が来る人とかもいるのか?」
「いるよ。仕事帰りに待合せで寄ったり、忘れ物を届けに来たりね」
「あー、なるほどな。やっぱりその人たちも、カナみたいに家と職場じゃ雰囲気が違うのかな?」
「は? 私は家でも変わらないでしょ」
心底不思議そうに目を丸くするカナに、恭介は(いや、絶対違うだろ……)と心の中で盛大なツッコミを飲み込みつつ、苦笑いを浮かべた。
「う、うん、そうだな……」
「でもね、私はこれでもメイク薄いほうだと思うよ」
「へー、そうなんだ」
「うん。でも、濃い化粧もやろうと思えばできるよ」
「やっぱりメイク変えると雰囲気も全然変わってくるんだろ?」
「そりゃ変わるよ。やってみようか? どんなのがいい? きつい感じの顔にしてみようか? ちょっと待ってて!」
カナはパタパタと足音を立てて寝室へと消えて行った。
15分ほど経った頃だろうか。
「お待たせ」
静かに寝室のドアが開き、カナが出てきた。
その足取りはいつもの軽やかなものではなく、まるでランウェイを歩くモデルのように、すっと背筋を伸ばした優雅で重厚なものだった。
その姿を見た瞬間、恭介は思わず息をのんだ。
そこに立っていたのは、いつもの柔らかく親しみやすいカナでも、昼間のデパートの綺麗な接客スタイルでもない。まるで海外のファッション誌の表紙から抜け出してきたかのような、圧倒的な存在感を放つ女性だった。
目元は目尻に向かってアイラインがすっと跳ね上げられた、切れ長で鋭い「キャットアイ」。黒と深いブラウンのグラデーションが瞳の奥深さを際立たせ、キャットアイの瞳で恭介を鋭く射抜いてくる。
さらに、くっきりと輪郭を取られた深紅のボルドーリップが、白磁のような肌に鮮烈に映えていた。
いつもの隙のある甘い雰囲気は完全に消え去り、恭介は思わずドキッとしてしまう。
「……なんか違う人みたいだな」
呆然と呟く恭介を見下ろし、カナはツンと顎を上げて見せた。完全にクールビューティーになりきり、どこかドSを気取った挑戦的な態度をとっている。
強烈なメイクの完璧な美しさと、そのドSな雰囲気が驚くほどよく合っていた。
「そんな生意気なこと言わないの」
「ははは、なんだよそれ」
恭介が思わず吹き出すと、カナは細めた目元で冷ややかに見つめ返してきた。
「何笑ってるの? お仕置きするわよ」
「――」
その一言で、恭介の側のスイッチもカチリと入った。
「こっちのセリフだよ。あ?」
「え……」
恭介は間髪入れずにカナのあごをキュッと掴むと、両側からキュッと力を入れて頬を寄せた。カナの塗ったばかりの赤い唇が、むにゅっとタラコ唇のように押し出される。
「ちょっと! メイクが崩れるからやめなさい!」
ドSの口調を維持しようとするカナだが、顔が変形しているせいで全く威厳がない。
「ダメだ」
「ちょっと、やめてよぉ……せっかくメイクしたんだからぁ」
一瞬で素のカナに戻って情けない声をあげる彼女に、恭介はニヤリと笑った。
「『やめてください』、だろ」
「やめへくらはい……!」
「はははは!」
さっきまでのクールな面影はどこへやら、タラコ唇のまま降参するカナを見て、恭介は腹を抱えて爆笑した。
恭介が手を離すと、カナは「もうっ!」と両頬を押さえ、テーブルの上の手鏡を取り出して必死に鏡を覗き込んだ。
「もう、メイクは命なんだから!」
ぷんぷんと怒りながらリップの乱れをチェックするカナの綺麗な顔立ちを見つめた。
「でも、これはこれで綺麗だよ」
「……そう? やだなー、もう」
「綺麗だよ」と素直に言われ、カナは手鏡で顔を隠しながら、照れくさそうに口元をゆるませた。そのままちらりと鏡の脇から恭介を見て、上目遣いに尋ねてくる。
「……普段とどっちが好き?」
「どっちもいいよ」
「やっぱりー? うんうん」
恭介の「どっちも良い」という言葉を都合よく「どっちの私も完璧に可愛い」と解釈したのか、カナは満足そうに何度も深く頷いて見せた。
さっきまでのドSなクールビューティーの面影は微塵もなく、いつもの無邪気で調子のいいカナに戻っている。
そのままカナはすっと立ち上がると、ソファに深く腰掛けている恭介の膝の上に、ちょこんと跨るように乗ってきた。恭介の体温を一番近くで感じられる、彼女だけの特等席だ。
さっきまでの「タラコ唇」のコメディモードから一転、カナは恭介の首元に柔らかい腕を回し、至近距離からじっと見つめてくる。
「お仕置きが、まだだったわね」
「まだやってんのかよ」
恭介が呆れ半分に苦笑すると、カナは妖艶なキャットアイの目元を細め、小悪魔のような笑みを口元に浮かべた。
「お仕置きのキスよ」
言い終わるか終わらないかのうちに、カナの顔がすーっと近づいてくる。
くっきりと描かれたキャットアイと、深紅のボルドーリップ。普段の可愛らしいカナとは一味違う、どこかミステリアスで大人びた顔立ちが、目の前いっぱいに広がる。
ドSになりきっているつもりの、カナの可愛らしくて甘いお仕置き。
恭介は観念したように膝の上の愛おしい存在をしっかりと腕の中で抱きとめるのだった。




