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あなたは帰る場所を知らない  作者: KYSK


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譲れない選択

週が明け、月曜日の朝。カナが勤める店舗は、開店前の独特な静けさと慌ただしさに包まれていた。ガラスケースを磨く布の音や、新作コフレのディスプレイを整える微かな音がフロアに響く。


「みんな、ちょっと集まって!」


店長の声に、オープン作業をしていた女性スタッフたちが一斉に中央のカウンター前に集まった。


「今日からうちのエリア担当として、本社から新しく着任された橘さんです」


「本日付で店舗開発部から参りました、橘 涼太です。現場の皆さんが少しでも売りやすく、働きやすい環境を作っていきたいと思っています。よろしくお願いします!」


シュッとした高身長に、仕立ての良いスーツ。爽やかな笑顔と、通りやすい爽やかな声。女性スタッフばかりの店内に、小さく「おぉ……」と歓声が上がった。


店長がカナの肩を軽く叩く。


「カナさん、橘さんにうちの店舗の動線や顧客層の特徴なんかを教えてあげて」


「わかりました。橘さん、よろしくお願いします。分からないことがあったら何でも聞いてくださいね」


「カナさんですね! よろしくお願いします。現場のこと、色々教えてください」


涼太は人懐っこい犬のような笑顔を見せた。


日中の業務中、涼太の仕事ぶりは完璧だった。素直で飲み込みが早く、指示を出す前に「これ、裏から出しておきましょうか?」と気を利かせる。重い限定商品の段ボール箱を軽々と運んだり、高い位置にあるディスプレイの微調整を代わってくれたりと、力仕事でも周囲を自然にフォローしていた。


「カナさん、この新商品なんですけど」


午後、店頭のメイン台でディスプレイの変更作業をしていた時のことだ。涼太が横に並び、商品パネルの角度を指差した。


「こちらのライティング、もう少し角度を上げたら、カナさんの肌みたいに透明感が出て目引くと思うんですよね」


「え? あ、ありがとう……?」


唐突に混ざった褒め言葉にカナが目を丸くすると、涼太は悪びれる様子もなく、いたずらっぽく微笑んだ。


「本当のことですよ。僕、今朝ご挨拶した時から思ってたんです。カナさんって、すごく肌が綺麗で、立ち姿が洗練されてるなって」


「ちょっと、お世辞が上手なんだから」


カナは大人の対応でくすくす笑い、作業に戻った。しかし、涼太の視線が自分の横顔や手元にじっと注がれているのを感じ、胸の奥で小さな違和感が芽生えていた。


数日後、店舗から徒歩数分の場所にある落ち着いた雰囲気の居酒屋で、涼太の歓迎会が催された。


「橘さん、数字も現場も分かってくれて本当に助かる〜! 乾杯!」


「乾杯ー!」


ジョッキやグラスが触れ合い、氷が涼やかな音を立てる。指導役だったカナは、自然な流れで涼太の隣の席に座ることになった。


宴会が始まって一時間ほどが過ぎると、酒も回り、話題は仕事の苦労話からプライベートへと移っていった。


「橘さんって、彼女とかいないんですか? 絶対モテそうですけど」


向かいに座る後輩スタッフが尋ねると、涼太は困ったように苦笑いしながらグラスの縁をなぞった。


「いや、前職が忙しすぎて、半年前くらいに別れちゃったんですよね。今は全然フリーです。……カナさんは、ご結婚されてるんですか?」


ふいに振られた問いに、カナは手元のビールを一口飲んで答えた。


「うーん、微妙なとこだなぁ。でも、同棲してる彼氏がいるよ」


「えー、そうなんですか。ちょっとショックだなあ」


涼太は冗談めかして肩をすくめて見せたが、その瞳は笑っていなかった。まっすぐにカナの瞳を覗き込んでくる。


「どんな彼氏さんなんですか?」


「うーん……まあマイペースな人かな。この週末も男の人と二人でグランピング行ってたよ」


カナが呆れたように、けれどどこか愛おしそうに笑うと、涼太は少しだけ身を乗り出した。カナの空になったグラスに手際よくお酒を注ぎ足しながら、低い声で囁く。


「えっ……こんな綺麗な彼女を置いて、週末に男同士で放置ですか? 僕なら絶対にそんな放置しないのに。もったいないですね」


「お酒入ってるからって調子いいこと言わないの」


「いやいや、ほんとに!」


涼太のトーンが、わずかに低く落ちた。


「今日、カナさんに店舗案内してもらってるときからずっと考えてました。綺麗で、教え方も優しくて……すごく魅力的な人だなって。彼氏さん、カナさんの価値をちゃんと分かってないんじゃないですか?」


テーブルの下で、涼太の膝がカナの足に微かに触れた。カナがさりげなく脚を引いても、涼太は引く気配を見せず、甘く熱を帯びた視線をカナの唇へと送っている。


昼間の「爽やかで仕事ができる本社担当」の仮面の下から、あからさまな「男の顔」が覗いていた。


「そろそろ2次会行きますかー!」「おー!」


店長の呼びかけで一斉に席が立ち上がり、大人数でぞろぞろと居酒屋を出た。夜の湿気を含んだ風が肌をなでる。カナは少し酔いを覚ましたくなり、大通りの手前にあるコンビニへ寄ることにした。


「あ、カナさん。僕も水買います」


振り返ると、涼太が当然のような顔で後ろについてきていた。


二人でミネラルウォーターを買い、店舗を出ると、先に歩いていた同僚たちの背中はすっかり街灯の向こうへ消えていた。


「あちゃー、みんなずいぶん先を歩いちゃってますね」


「まあ、2次会のお店も分かってるし大丈夫よ」


カナはペットボトルのキャップを開け、冷たい水を一口含んだ。喉を落ちていく感覚が心地いい。二人で並んで歩き出すと、涼太が歩幅を合わせ、徐々に肩が触れそうな距離まで詰めてきた。


「カナさんって、本当に隙がないというか……大人の余裕がありますよね」


「そう? 単に酔っ払ってるだけだよ」


「そういうところも好きです。……さっきの彼氏さんの話、やっぱり勿体なさすぎますよ。僕なら、カナさんみたいな人を週末に一人になんて絶対にさせないのに」


「ちょっと橘さん、お酒の勢いに任せて適当なこと言わないの。私なんかより、もっと若い子のほうがいいよ?」


カナは笑ってかわそうとしたが、涼太は立ち止まり、カナの正面に立ちふさがった。


「適当じゃないです。僕、お店でカナさんを見た時から、すごく綺麗な人だなって思ってました」


まっすぐな直球の言葉に、夜の静けさが重なる。


「仕事教わってる時も、ずっとドキドキしてて。彼氏がいるって聞いた時、本当に悔しかったんです」


「え、そこまで……?」


困惑して身を引こうとした瞬間、不意に手首をキュッと強く掴まれた。


「え……?」


拒絶する間もなく、強い力で横道の暗がりへと引っ張られる。ビルとビルの間に挟まれた狭い路地裏。街灯の光も届かない静寂の中に引きずり込まれたかと思うと、一瞬で涼太の腕がカナの背中に回された。


「ちょっと……!」


力任せに引き寄せられ、涼太の広い胸の中に深く抱きすくめられる。アルコールの匂いと、甘くスパイシーな香水の香りが鼻腔を強く刺激した。


「僕じゃ、ダメですか……?」


耳元で切なく囁かれ、熱い吐息が首筋に吹きかかる。抱きしめる腕の力は強く、男性特有の体格差に身動きが取れない。


「やめてよ……!」


カナは胸元に回された手に抗い、涼太の胸を両手で強く押し返した。


「気持ち悪いからやめて!」


カナの容赦のない、強い拒絶の声が狭い路地裏に響き渡った。


その言葉の冷たさにショックを受けたように、涼太の腕からすっと力が抜ける。その隙を見逃さず、カナはすぐさま涼太の胸を強く押し、数歩後ろへ下がった。


「最低ね。私、そんな女じゃないのよ」


乱れた息を整えながら、カナは鋭い眼差しで涼太を強く睨みつけた。昼間の優しさは完全に消え去り、一人の毅然とした女性としての怒りを露わにしている。


「……すいません。でも、好きなんです」


涼太は気まずそうに視線を落とし、頭を掻きむしりながら消え入るような声で呟いた。しかし、その言葉がカナの心に届くことは二度となかった。


「私は、今の彼氏が大好きなの。今すぐにでも会いたいくらいにね」


きっぱりと言い放ったその言葉に、一切の迷いはなかった。


週末を一人で過ごした微かな寂しさも、涼太の強引なアプローチも、すべてを吹き飛ばすほど恭介への愛おしさが胸の中に溢れ出していた。他人に心を揺さぶられる隙など、自分のどこにも存在しないのだと、はっきりと自覚した。


涼太は肩を落とし、諦めたように力なく微笑んだ。


「……そうなんですね」


カナは乱れた髪と服のシワをすばやく手で整えると、冷ややかな視線のまま告げた。


「今のことはなかったことにしとくから。はい、行くよ」


二次会へ向かう同僚たちの待つ大通りへ向かって、カナは背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく迷いのない足取りで歩き出した。


2次会のカラオケ店に入ると、涼太は反省したのか、それとも気まずいのか、カナから一番離れた端の席へと静かに座った。カナも何事もなかったかのように他のスタッフと笑顔で談笑し、無事に飲み会は終わりを迎えた。


店を出てみんなと別れた後、カナは一人でタクシーのリアシートに滑り込んだ。


夜の街灯が窓の外を滑るように流れていく。流れる光を見つめながら、カナはさっき路地裏で涼太を突っぱねた自分の言葉を反芻していた。


(私、今すぐにでも会いたいくらい恭介さんのことが好きなんだ――)


土壇場で口から出た言葉は、自分でも驚くほど素直で、偽りのない本音だった。


タクシーが自宅マンションの前で止まり、料金を払って降りる。部屋の前に立つ。鍵を差し込んで回すと、カチャリと心地よい金属音が響いた。


ドアを開けると、聞き慣れたテレビの音と、いつもの我が家の匂いがカナを優しく包み込んだ。


靴を脱ぎ、リビングのドアを開ける。


ソファには、部屋着姿の恭介が呑気にテレビを見ながらくつろいでいた。テーブルの上には、飲みかけのグラスとスナック菓子の袋。


「おかえり、飲み会楽しかった?」


恭介がこちらを振り向き、いつもの調子で柔らかく声をかけてくる。その変わらない無防備な笑顔を見た瞬間、胸の奥から温かい愛おしさが一気に溢れ出した。


「ただいま!」


カナはバッグを床に放り出すと、一直線に駆け寄って、ソファに座る恭介の首元に勢いよくギュッと抱きついた。


「うわ、酒くさ! なんだよ急にー」


突然の奇襲に恭介は目を丸くしながらも、嬉しそうに照れくさそうな笑いを浮かべ、しっかりとカナの背中に腕を回して受け止めた。


恭介の腕の温もりと、着慣れた部屋着から漂う洗剤の匂いに包まれた瞬間、カナの胸の奥で固く緊張していたものが、ふっとほどけていく。


(やっぱり、この人なんだ)


さっきまでの路地裏で感じた不快感や焦りは、恭介の体温に触れた途端、影も形もなく消え去っていた。


他人の甘い言葉や強引なアプローチなんて、恭介がくれる何気ない「おかえり」の一言には到底かなわない。マイペースで、たまに気が利かなくて、週末に男同士で出かけてしまうような彼だけど、自分を一番安心させてくれるのは、世界中でこの腕の中だけだということを痛いほど実感していた。


「恭介さん……」


腕に力を込め、もう少しだけ強くその背中を抱きしめる。


自分でも呆れるくらいこの人が好きで、この場所が愛おしい。恭介の胸に顔を埋めながら、カナは「この人をずっと大切にしよう」と心の中で静かに、けれど強く誓っていた。

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