潮騒の秘密
「今週末、ちょっと撮影でグランピング施設に行ってくるわ」
夕食後、リビングでコーヒーを飲みながら恭介が切り出すと、ソファーでスマホを触っていたカナの指先がぴたりと止まった。
「……グランピング?」
ゆっくりと顔を上げたカナの目が、明らかに不穏な光を帯びている。普段はサバサバしているカナだが、こういう感の鋭さだけは恐ろしいほどだ。
「誰と?」
「カメラマンと二人」
「ふーん……カメラマンねぇ」
カナはスマホをソファーに置くと、肘をついてじーっと恭介の顔を見つめてきた。その視線はまるで取り調べを行う刑事のようだ。
「カメラマンさんって、どんな人? 若いお姉さんだったりしない?」
「いやいや! ゴツい野郎だから! 髭生えた30代半ばの男! タツさんって人だよ」
「本当にー? 『撮影』って名目で、実質旅行だったりしないの? 」
疑いの目を崩さないカナに、恭介は苦笑しながらスマホの画面を見せた。
「ほら、これ仕事のチャットツール。スケジュールと撮影カット表入ってるだろ? クライアントの案件で、施設のPR用の素材撮りに行くだけだって」
画面に並ぶびっしり書き込まれた打ち合わせログと、「男二人で焚き火の良さ伝えるカット厳しいっすね(笑)」というタツさんからのメッセージを目にして、カナの表情がようやく緩んだ。
「なんだ、本当に仕事かぁ」
「当たり前だろ。グランピングって言ったって、男二人で映え写真撮りまくるハードワークだよ」
「ふふ、男二人でオシャレなテントで過ごすんだ? なんかシュールで面白そう。男同士でロマンチックな夜を過ごしてくれば?」
すっかり納得したカナは、ニヤニヤしながら恭介の顔を覗き込んできた。
恭介は胸をなでおろしつつ、男二人で過ごすグランピングの光景を想像して、少しだけ頭を抱えるのだった。
「……よし、準備完了」
週末、グランピング施設へと向かう車内で、恭介は小さく息を吐いた。
実は、カナに言っていないことが一つだけある。
今回のPR撮影のコンセプトは、男二人の泥臭いアウトドアなどではなく――「女子旅」だ。
クライアント側の意向で、別会社の制作チームから2人の女性スタッフが現地で合流することになっていた。写真や動画のモデルを務めるのは、その素朴で親しみやすい雰囲気の女の子たちだ。
(まあ、あくまで仕事だしな……変に心配させてもアレだし、黙っておくのが一番だ)
信号待ちの間にLINEの画面を開くと、カナからメッセージが入っていた。
『無事に着いたー? 』
『今着いたところ。これから速攻で撮影入るわ』
恭介は微かな罪悪感を覚えつつも、そう返信してスマホをポケットにねじ込んだ。
助手席のタツさんが「恭介さん、合流する女の子たち、もうセンターハウスに着いてるらしいっすよ」と声をかけてくる。
「あ、おう。行こうか」
男二人で黙々と作業するはずだった現場で、恭介は絶対にカナにはバレてはならない「女子旅企画」の撮影に挑むことになったのだった。
太平洋を一望できる高台に位置するそのグランピング施設は、まるで海外のリゾート地のような洗練された雰囲気に包まれていた。青々とした芝生の上に並ぶ巨大な白いドーム型テント、その脇に配置された専用のウッドデッキ、そして目の前に広がる広大な海。潮の香りが微風に乗って鼻腔をくすぐる。
案内された大型ドームテントに入ると、室内は冷房が心地よく効いており、北欧風の木製家具や大きなふかふかのベッドが設置されていた。そこにはすでに到着していた女の子2人が楽しそうに談笑していた。
「あ、お疲れ様ですー!」
恭介たちに気づくと、パッと華やかな笑顔で立ち上がる。
「初めましてー、凛です。こっちの子が、サクラです」
「サクラです。初めましてー」
ポニーテールの似合う凛と、柔らかい雰囲気のロングヘアのサクラ。二人とも派手さはなく、どこか素朴で親しみやすい「いい子」感が全身から溢れ出ている。自然体な魅力を前面に出したい今回のコンセプトにはぴったりだ。
「初めまして、恭介です。今日はよろしくお願いします」
挨拶もそこそこに、二人は周囲を見回して「うわぁ、見て凛ちゃん! このベッドめっちゃ気持ちいい!」「ウッドデッキからの眺めやばいね!」と無邪気にはしゃいでいた。彼女たちはグランピング体験自体が初めてらしく、目に映るすべての景色や設備に目を輝かせている。
「じゃ、さっそく撮影入っていきましょうか!」
タツさんの声を合図に、機材がセッティングされ、撮影作業がスタートした。
まずは海辺でのカットだ。どこまでも続く白い砂浜と澄み渡る青い海。波打ち際を楽しそうに走る二人の姿を、タツさんがローアングルから捉えていく。風に揺れるワンピース、弾けるような笑顔、素朴ながらも魅力的な表情。
続いて、ウッドデッキでの火起こしシーン。炭に火をつけようと苦戦しながら「あつーい!」「火ついた! すごーい!」とはしゃぐ二人の様子を、恭介はディレクションしながら画角を確認する。
「はい、一旦ライティングの調整変えるので、15分ほど休憩しまーす!」
グラデーションのように変わりゆく夕方の光を捉えるため、撮影は何度も細かな休憩を挟みながら進められた。その待ち時間の合間に、ウッドデッキの影で冷たいお茶を飲みながら、自然と会話が弾んでいく。
「お二人とも、お若いのにしっかり現場を回してくれて頼もしいですね」
恭介がそう労うと、凛がぷっと吹き出した。
「えー! 若くないですよ? 私たち二人とも、もう30手前のお姉さんですからね?」
「えっ、そうなの!?」
てっきり20代前半の学生気分か新卒くらいだと思っていた恭介は、思わず素で驚いてしまった。落ち着いた素朴さと、少女のような無邪気さが同居しているのは、そういう年齢的な余裕と大人としての落ち着きからくるものだったらしい。
太陽が沈みかけ、空が幻想的な紫とオレンジのグラデーションに染まり始めると、撮影は後半戦へと突入した。
「うわー、このお肉すごーい!」「映える! 絶対SNSに載せるー!」
夕食のシーンでは、施設が用意した極上の厚切りTボーンステーキや鮮やかな手持ち野菜、地元の海鮮がテーブルいっぱいに並べられた。凛とサクラは、仕事用の撮影をそつなくこなしつつも、合間合間に自分たちのスマホを掲げてカシャカシャと写真を撮りまくっている。仕事とプライベートの境目がなくなるほど、この場所を楽しんでいるようだ。
ジュウジュウと肉が焼ける香ばしい匂いと音。ランタンの温かい光がウッドデッキを照らし出す。
夜が深まると、次は海風を感じながら楽しむ手持ち花火のシーンだ。暗闇の中でぱちぱちと弾ける不揃いな光線が、二人の横顔を幻想的に浮かび上がらせる。そして最後は、エアコンの効いたドームテント内のふかふかベッドで、パジャマ姿で女子会風に談笑するカット。
「はい、OKです! 今日のカット、全部完璧に撮れましたー!」
タツさんの満足そうな声が響き、本日の撮影工程がすべて終了した。
「お疲れ様でしたー!」
「ありがとうございました! 楽しかったー!」
安堵の空気が現場に広がる。
「じゃあ、余った食材と酒で、みんなでご飯食べながら飲もうか!」
タツさんの提案に「やったー!」と歓声が上がる。そこからは仕事の撮影ではなく、大人たちの本格的なグランピングの始まりだった。
波の音をBGMに、焼き立てのステーキや海鮮を頬張り、キンキンに冷えた缶ビールで乾杯する。ランタンのやわらかな灯りに包まれたウッドデッキで、解凍されたプライベートな時間がゆったりと流れ始めた。
「実は来るとき、彼氏に『誰と行くの?』ってめっちゃ疑われてさー」
サクラが缶ビールを傾けながら苦笑いすると、凛も「わかる!」と手を叩いて強く同意した。
「うちもだよ。『男のカメラマンとスタッフもいるんでしょ?』ってしつこくて。女子旅のPR案件だって言ってるのに、全然信じてくれなくて大変だったんだから」
「どこも同じだな……」
恭介は苦笑いしながら缶ビールを一口あおった。自宅で「髭のカメラマンと男二人」と信じ切っているカナの顔が浮かび、微かな罪悪感で胸がチクッと痛む。
「でも正直、女子だけで来るより、こうやって男性がいてくれたほうが火起こしもスムーズだし、お肉焼くのも上手だし、話も面白くて楽しいですよね」
お酒が進むにつれて場はますます盛り上がり、仕事の裏話や休日の過ごし方、お互いのパートナーへのちょっとした愚痴など、たわいもない世間話が次々と飛び出していく。凛は酔うと少し頬を赤くし、リアクションが大きくなるのが可憐だった。
夜の海風が心地よく吹く中、ランタンの灯りに照らされたウッドデッキには、ビール缶やワインの空き瓶が着実に増えていった。
「じゃ、俺もう眠いから先に寝るわ。明日も早朝から朝日狙うからよろしくー」
時計の針が深夜1時を回った頃、タツさんが大きな欠伸をしながら、隣にある俺たちのドームテントへと戻っていった。
ウッドデッキに残された恭介と凛、サクラの3人は、そのまま酒を酌み交わしながら、テーブルに並んだ残りの食材を平らげていく。明日の撤収作業を考えると、余計な食材は残さず食べてしまうのが一番だからだ。
ワインの2本目のボトルが空になる頃には、全員に徐々に心地よい酔いが回っていた。
ふと横を見ると、サクラがコップを握りしめたまま船を漕いでいる。完全に限界のようだ。
「サクラ! 寝てるよ! ベッドの上で寝ないと」
「んぁ……起きてる……起きてるよぉ……」
ろれつの回っていないサクラの肩を支え、凛が「ちょっとベッドまで運んできますね」と女子用のドームテントの中へ消えて行った。
数分後、凛が一人でウッドデッキへ戻ってきた。
「サクラ、完全に夢の中です(笑)。ベッドに倒れ込んだ瞬間に爆睡しちゃいました」
「お疲れ様。じゃ、もう少し飲むか」
二人で再びグラスにワインを注ぎ、小さくカチンと音を立てて乾杯する。タツさんもサクラもいなくなり、周囲は一気に静まり返った。
「ほんと、いい場所ですね」
凛がランタンの灯りを見つめながら、しみじみと呟く。
「そうだね。海も近いし、星も綺麗だし、最高だね」
ザザーッ、ザザーッという心地よい波の音が規則正しく響いている。満天の星空と、澄んだ夜風、そして潮騒だけの贅沢な空間。酔いも手伝って、火照った身体に風を浴びたくなった。
「ちょっと、俺、砂浜を散歩してくるわ」
「あ、私も行きます」
凛がスッと立ち上がり、二人で夜の砂浜へと歩き出した。
木製の階段を下り、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返った砂浜に足を踏み入れる。湿った砂の柔らかい感触を踏みしめながら海辺まで進み、波打ち際から少し離れた場所に二人並んで腰を下ろした。
潮風が二人の髪を揺らす。暗闇の向こうで、白い波頭が崩れる様子だけがうっすらと見えた。
「静かだな」
「そうですね……彼氏と来たいなぁ」
「それは最高だね」
「恭介さんも、彼女と来ればいいのに」
「あぁ、そうだね。いつか来れたらいいな」
暗い海を眺めながら答える恭介の脳裏に、家で留守番をしているカナの顔が浮かんだ。しかし、アルコールで鈍くなった思考の渦の中に、その影はゆっくりと溶けて消えていく。
こういう綺麗な場所で、深夜に酔った男女が二人きり。
言葉数が減っていくにつれ、空間に漂う空気が少しずつ、熱を帯びた怪しいムードへと変質していくのを恭介は肌で感じていた。
砂浜に置いた恭介の右手に、ふっと温かいものが触れた。凛の手だ。どちらからともなく、指先が触れ合う。
恭介は酔った勢いと、目の前の幻想的なシチュエーションに背中を押されるように、その華奢な手をそっと包み込んだ。指を絡め合わせるように強く握りしめると、凛も逃げることなく、それ以上にギュッと握り返してきた。
「……恭介さん」
ささやくような切ない声とともに、凛の身体がこちらへ寄ってくる。
二人の肩と腕、太ももがぴったりと密着した。文字通りのゼロ距離。凛から漂う微かな甘い香水と、ワインの香りが鼻腔をくすぐる。互いの鼓動と吐息が混ざり合いそうなほどの距離感に、恭介の胸が激しく跳ねた。
寄せては返す波の音が、二人だけの世界を外界から完全に切り離していく。
恭介がゆっくりと顔を寄せると、凛はうっすらと瞳を伏せ、素直にその唇を受け入れるように顔を上げてきた。
重なる唇。
周りには誰もおらず、人影も灯りすらもない。ただ、暗闇と波の音だけが存在していた。
ふっと恭介の身体から重みが消えたかと思うと、凛がそのまま恭介の上に跨るようにして乗ってきた。昼間の素朴で落ち着いた雰囲気からは想像もつかないほどの大胆さに、恭介は息を飲んで少し驚く。
「……内緒ですよ?」
耳元で甘く囁く凛の吐息と体温を感じながら、恭介は彼女の細い腰を引き寄せた。
潮風が頬を撫で、波の音がすべての音をかき消していく。その規則正しいリズムに混ざり合うようにして、二人は静かに、深く、肌を重ねていった。
火照った身体に夜風が心地よく染み渡る。
乱れた衣服を整え、二人は静かに立ち上がると、並んで砂浜を歩いてウッドデッキへと戻った。
「最高のシチュエーションでしたね」
ふと隣を歩く凛が恭介を見上げ、何事もなかったかのようにニコリと可憐に笑った。その瞳には、先ほどまでの妖艶さはなく、いつもの素朴で爽やかな光が戻っていた。
「はは、そうだね……」
恭介もどこか照れくさそうに、けれど少しの敗北感を交えて答える。
ウッドデッキに戻ると、二人はテーブルに残っていた缶ビールを手に取り、小さくカチンと音を立てて乾杯した。冷えたアルコールが喉を通り、火照った胃袋へと落ちていく。
「それじゃ、また明日」
「うん、おやすみ」
お互いに余計な追及や言い訳は交わさず、それぞれ自分たちのテントへと戻っていく。
静まり返ったキャンプ場の中、恭介は自分のドームテントに戻り、ランタンの明かりを消した。暗闇の中で横になると、まだ体に残る凛の体温と、遠く聞こえる波の音が、現実感を狂わせていった。
翌朝。
眩しい太陽の光と、賑やかなウミネコの鳴き声で目が覚めた。
外に出ると、澄み渡った朝空の下、すでに準備を整えた凛が「あ、おはようございます!」と爽やかに声をかけてきた。
昨夜の砂浜での出来事など、まるで最初から存在しなかった夢だったかのように、いつも通りの素朴で可愛らしい笑顔だ。その完璧な割り切り方に、恭介は一瞬圧倒されそうになる。
「おはよう」
恭介も意識して自然体を装い、そのまま朝の撮影作業に合流した。
朝日に照らされる輝く海をバックに、凛とサクラが爽やかに朝食を食べるカットなどを撮影。二人ともカメラに向かって眩しい笑顔を振りまき、昨夜の怪しげなムードなど微塵も感じさせないそつのなさで、撮影はお昼前に無事すべて終了した。
「お疲れ様でしたー!」
「ありがとうございました! すごく楽しかったです!」
現場に撤収の挨拶が飛び交い、機材の片付けが速やかに行われる。
凛とサクラの二人は、一足先に手配されたタクシーへ乗り込み、駅へと向かうことになった。
「恭介さん、タツさん、本当にお世話になりましたー!」
後部座席に乗り込む間際、凛がふと足を止め、恭介の方を振り返った。そして、サクラやタツさんからは見えない角度で、ニコリと微笑んで見せた。その瞳の奥には、昨夜、暗闇の砂浜で見せたあの妖艶で甘い表情が、ほんのわずかだけ混ざっているように見えた。
恭介も静かに笑顔を返し、小さく手を振った。
二人を乗せた車が敷地を出て、小さくなって見えなくなるまで見送りながら、恭介はポケットの中でスマホを握りしめた。
画面を開くと、カナから『早く帰ってきてねー』とLINEが入っていた。
日常へと戻る現実感と、胸の奥に残る微かな熱気。
誰にも言えない、波の音の中に永遠に溶けていった、二人だけの深夜の秘密だった。




