くだらない日常の愛しさ
恭介が部屋で一人スマホを眺めていると、トントンとドアが軽くノックされた。
「私のパソコンが調子悪いんだけど、恭介さんの貸してくれる?」
「ん? あぁ、いいよ。」
「ありがとー」
カナは恭介のノートパソコンを抱えると、パタパタとリビングへ戻っていった。
ベッドに転がり直して再びスマホの画面に目を戻した恭介だったが、しばらくするとリビングから尋常じゃない叫び声が響き渡った。
「ちょっと!!!!!」
「あ? なんだよ……」
リビングへ向かうと、そこには仁王立ちでパソコンの画面を指さしているカナの姿があった。画面に目をやると、ブラウザのタブには見覚えのあるエロサイトが堂々と表示されている。閉じたつもりが残っていたらしい。
「あ……」
「これ、なーに?」
カナの目が完全に据わっている。低い声がリビングに落ちた。
「いや、違うんだよ……」
「は? 何が違うの? なに変なもの見てるのよ?」
ド派手なサムネイルを前にどんな弁明も虚しく消え去るのを感じ、恭介は腹を括って開き直ることにした。
「変なものじゃないだろ! 人間の三大欲求のひとつだろうが!」
「気持ち悪い」
「は? 同じようなことカナだってやってるだろ!」
恭介が腕を組み、堂々と胸を張って言い返す。
「それとこれとは別でしょ!」
カナは眉間にしわを寄せ、冷ややかな視線で恭介をバシッと指さした。
「見るなって言ってもこれから見ることもあるからな! それが男ってもんだ!」
恭介が腕を組んで開き直ると、カナは怒りを通り越して心底あきれ果てたように、深くため息をついた。
「はぁ、はいはい。勝手にしてよ」
「当たり前だ!」
「……せめて、私の知らないとこで見てよ」
あきれ果てたように息を吐くカナに、恭介はどこか負け惜しみのような探る視線を向けた。
「カナは見ないのか?」
「見るわけないでしょ!」
食い気味に即答するカナの態度が逆に怪しく思え、恭介はニヤリと口角を上げる。
「見たことあるの?」
「そりゃ、若い頃に友達とふざけて見たことはあるけど……」
一瞬だけ目を泳がせ、気まずそうに白状するカナの隙を見逃さず、恭介は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「そんな古い時代と今は違うんだよ」
なぜか自信満々に腕を組み、熱っぽく力説を始める。
「ちょっと見てみろよ」
「はぁ?」
胡散臭そうな目を向けられながらも、恭介はパソコンの画面をカナのほうへぐいっと向けた。
「ほら、この子とか芸能人みたいだろ?」
「……まぁ、たしかに可愛いかもね」
カナはエッチな目線ではなく、まるでテレビに出てくる若いアイドルを品定めするかのような冷めた眼差しで、腕を組んだまま画面を見つめている。
「だろ? 今は可愛い子が多いんだよ」
誇らしげに語る恭介だったが、カナの射抜くような冷たい視線とバッティングし、一瞬で背筋が凍りついた。
「は? だからなに?」
やばい、墓穴を掘った——焦った恭介は、必死に頭を回転させて慌ててフォローを入れる。
「ま、まぁ、カナのほうが綺麗だけどな」
「当たり前でしょ」
一切表情を崩さず、温度差ゼロの冷ややかな顔で言い放つカナ。完全に呆れと嫉妬の混ざった視線を恭介に突きつける。
「若い子がいいなら、ずっと見てれば?」
吐き捨てるようにそう言うと、カナはぷいっと横を向いてしまった。
「カナちゃーん」
恭介は甘えた声を出しながら、カナの柔らかいうなじに顔をうずめた。ふわっと香るシャンプーの匂いに鼻腔をくすぐられる。
「ちょっとやめてよ」
「そんなに怒ることないだろ」
「くすぐったいからやめて」
身をよじるカナの言葉を半分聞き流しながら、恭介はすっと腕を回し、服の上からその胸を鷲掴みにした。
「もう……ダメだって」
口では拒むような言葉を口にするカナだったが、強い抵抗は見せない。それどころか、強がっていた体に徐々に力が抜け、恭介の胸元へと重みを預けてくる。甘い空気と体温が重なり合い、そのまま流れで一線を越えそうになった、その瞬間——
「よし、酒でも飲もうぜ」
恭介はあっさりと手を放すと、すっと身を起こした。
「ちょっと! いつもそういうことするけど楽しいの!?」
あまりの肩透かしに、カナの目が丸くなり、一瞬で顔が真っ赤に跳ね上がる。呆れと怒りと、照れ隠しが混ざり合った叫びがリビングに響き渡った。
「途中で、何かを思い出すんだよ。酒を飲みたい、とか」
「失礼じゃない!」
「ごめんごめん」
グラスのカランという涼やかな音を響かせながら、恭介はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、カナの顔を覗き込んだ。
「なに? もっとやって欲しかったの?」
「い、いや……そういうわけじゃないんだけど……」
図星を突かれたのか、カナは視線を泳がせ、急に語尾を濁らせてモジモジし始める。
「うん、そっか」
恭介は深く追求せず、そっけなくうなずくと、冷えたウイスキーを一口煽った。
「そうやって、どんどん欲求が溜まっていくじゃない?」
ソファーの端で抱きかかえたクッションに顎を乗せ、カナが不満げにポツリと呟く。
「そうなの?」
恭介がグラスを傾けながら他人事のように尋ねると、カナはジト目で振り返り、さらに言葉を重ねた。
「そうよ。休みの間ずっとおあずけで、それで我慢できなくなったらどうするの?」
「我慢できなくなったらどうなるんだよ?」
「そういうエッチなやつに出るかもしれないじゃん」
カナはさっきパソコンに映っていた画面を顎でしゃくりながら、挑発するように恭介の反応を伺った。
「あ、カナが出てたら俺は爆買いするからな」
恭介がニヤリと笑いながら即答すると、カナは一瞬口をぐっと結んだ後、深々とため息をついた。
もうこの男と喋っても無駄だ——そう顔に書いたように半目になると、カナは呆れ果ててテーブルの缶チューハイに手を伸ばし、プシュッと勢いよく口を開けた。
「ねえ、恭介さんって何フェチ?」
缶チューハイのプルタブをもてあそびながら、カナがふと表情を戻して訊ねてきた。
「うーん、なんだろうな。カナフェチかな!」
恭介がニヤニヤしながら即答すると、カナは眉をひそめて軽くスルーした。
「ほんとに何フェチ?」
「……色白でスタイルが良くて、ちょっと巨乳フェチかな」
「なんか多くない?」
呆れ顔で突っ込まれ、恭介はグラスを傾けながら問い返した。
「カナは何フェチなんだよ?」
「私は指かな。指がスラっとしてる人がいいな。恭介さんもスラっとしてるよね」
自分の手元をまじまじと見つめるカナの視線を感じながら、恭介は指を少し動かしてみせた。
「そう? 普通じゃないか?」
カナは恭介の手にそっと自分の指を重ね、そのままゆっくりと指を絡めてきた。手元の温もりを感じた瞬間、恭介は手を引っ込めて離した。
「なんでよ!」
不満そうに声を張り上げるカナに、恭介は白々しく画面を指さした。
「テレビ面白いよ、ほら見て」
意識をそらすように冷えたウイスキーへ手を伸ばす恭介を見て、カナは深々とため息をついた。
「もういいよ。……はぁ、バカみたい」
ぽつりと漏れた声はいつもと違い、怒りよりも乾いた呆れが混ざっていた。
「ん? 何が?」
グラスを傾けながら呑気に聞き返す恭介に、カナは膝を抱え直し、視線を落としたまま呟く。
「何度も断られて、バカみたいじゃない」
「そんなことないだろ」
いつものように冗談めかして流そうとした恭介だったが、カナはゆっくりとソファーから立ち上がった。
「もう二度と誘わない。勝手にしてよ」
その本気で冷え切ったトーンに、恭介はようやく胸の奥がざわつくのを感じた。焦りを隠すようにヘラヘラと笑みを浮かべ、カナの細い手首を掴み引き寄せる。
「冗談だろ。そんなに怒るなよ」
「……ほんとにやめて」
カナは恭介の手を冷たく振り払うと、一度も振り返ることなく、パタンと寝室のドアを閉めてしまった。
静まり返ったリビング。いつもなら隣で缶チューハイをプシュッと開けて、くだらないテレビ番組にケラケラ笑っているはずのカナが、今は固く閉ざされた寝室の向こうにいる。
(ちょっと断ったぐらいで、そんなに怒ることか……?)
氷をカラリと鳴らしながら、恭介は独りごちた。
(まあ……確かに何回かあったけどさ。でも、そこまで冷めることないだろ。ちょっとした冗談だし、タイミングが合わなかっただけじゃん)
頭を掻きむしり、暗い天井を見上げる。
(なんなんだよ、急に。……欲求不満なのか?)
酒のせいにしてヘラヘラ流そうとしていた恭介だったが、カナの手を引いた時に感じた、あの冷たい手応えと「ほんとにやめて」という拒絶の声が頭から離れない。
(カナだってそうしたくない時があるだろう)
恭介はソファーの背もたれに頭を預けた。
(俺がその気になればいつでも出来るのか? カナは常に発情してるのか?)
そんなわけがない。カナにだって疲れている日もあれば、乗り気じゃない夜だってあるはずだ。自分が誘えばいつでも応じるなんて、それこそ都合のいい妄想でしかない。
(なのに、なんで向こうから来た時だけ、断られたらあんなにブチギレるんだよ……)
自分勝手じゃないか、と苛立ちが込み上げる。
(溜まりに溜まって、我慢の限界が来てカリカリしてるだけじゃないかよ)
「カナちーん」
ドアをトントンと軽くノックし、語尾を跳ねさせて可愛らしく呼びかけてみる。 返事はない。しんと静まり返った部屋。恭介はそっと入った。
ベッドの上で横たわっていたカナは、入ってきた恭介を冷え切った目で見つめていた。一切の感情を削ぎ落としたような、冷ややかな視線。
「そんなに怒るなよ、ごめんな」
恭介は気にも留めない様子でベッドに滑り込み、カナの隣にゴロリと横になった。
「別に怒ってないから」
淡々と小さく吐き捨て、カナは天井を見つめたまま動かない。
「怒るとシワが増えるぞ」
「別にいいよ。シワが増えても」
「そんなこと言うなよー」
軽口を叩きながら、恭介はカナの着ているTシャツの裾に手をかけ、遠慮なくぐっと上に捲り上げた。急に空気に晒された白いお腹が、ぴくりと小さく跳ねる。
「……ほんとにやめてよ。もういいから」
「よくないだろ」
身をよじるカナを少し強引に抑え込み、恭介は肌を撫で上げていく。
「もうやめてって……」
拒むようにぷいっと横を向くカナだったが、触れられるたびにその胸の上下は大きくなり、吐き出される息は熱く乱れていった。頬はみるみるうちに朱に染まり、拒絶の言葉とは裏腹に、身体は恭介の体温に正直に反応してしまう。
カナはきゅっと目を瞑り、漏れそうになる吐息を必死に殺そうと唇を噛みしめていたが、強引で甘い愛撫に抗いきれず、次第に指先がベッドのシーツを固く握りしめていく。
「……電気消してよ」
諦めたように、か細く溢れたカナの言葉。
「いや、消さない」
恭介は意地悪く囁くと、そのままカナの身体を抱き寄せた。明かりの下で真っ赤に染まるカナの表情を逃さず見つめながら、夜の続きへと落ちていった。
◇
「恭介さん起きた? トーストもうすぐ焼けるよ」
キッチンから聞こえてくる声にはトゲひとつなく、それどころかご機嫌そうに「ふふん〜♪」と鼻歌まで口ずさんでいる。
昨夜あれほど「もう二度と誘わない」「勝手にして」と冷たく言い放っていたはずなのに、この一変ぶりである。昨夜は昨夜で、いつも以上に激しく燃え上がって応えてきたくせに、本人はその件について一切口にしようとしない。ただただ「ご機嫌」という事実だけが全身から溢れ出ていた。
(……わかりやすすぎるだろ)
恭介はソファーに腰を下ろし、コーヒーカップを手に取りながら、カナの背中をなんとも言えない目で見つめた。
自分勝手に「欲求不満」と決めつけて強引に押し切ったはずだったが、ここまであからさまに上機嫌になられると、勝ち誇るというよりは、むしろ女の現金さにちょっと圧倒されてしまう。
「何見てるの? 早く顔洗ってきなよ」
「うっ……なんだか腰がいてー」
朝食を終え、椅子から立ち上がろうとした恭介が思わず腰を押さえて顔を歪めると、キッチンで食器を下げていたカナがぴくっと肩を跳ねさせた。
「……もうやめてよー」
背中を向けたまま、カナの声が上ずっている。昨夜の激しさを思い出して勝手に甘い勘違いをしたのか、振り返った顔は、ニヤニヤと緩みきっていた。
「会社行く前に、昨日の続きやる?」
上目遣いで、恥ずかしそうに、けれどノリノリでそんな提案をしてくるカナ。
(いや、ガチでただの腰痛なんだよ……)
マジで歳を感じていただけの恭介は、その全力の勘違いに心の中で盛大にツッコミを入れつつ、言葉にする気力もなく苦笑いするしかなかった。
下手に乗っかるとさらに大変なことになると察した恭介は、引き止める隙を与えないスピードで、さっさと鞄を掴んで出勤の準備を整えるのだった。
「じゃあ、続きは帰ってきてからね!」
靴を履いている恭介の背中に向かって、カナが弾んだ声で追い打ちをかける。玄関まで見送りにきた顔は、完全にやる気満々の笑顔だ。
(……だから続きってなんだよ。俺の腰をトドメ刺す気か……?)
背中で受けるその圧に思わず冷や汗をかきながら、恭介は苦笑いを張り付けたまま振り返りもせずに片手だけを小さく振った。
「……行ってきます」
ガチャリとドアを閉め、朝の冷たい空気を吸い込んで深くため息をつく。
昨夜の険悪なムードから一転して機嫌が直ったのはありがたいが、完全に間違った方向へスイッチが入ってしまった彼女のテンションに、今夜無事に生還できるのだろうかという別の恐怖がじわじわと込み上げてくる恭介だった。




