理性
世間はお盆休みに突入した。
カナは実家に泊まり、恭介は手持ち無沙汰な夜を迎えていた。
恭介はいつものバー「アンカー」のドアを押した。重厚な木製のカウンターに腰を下ろし、マスターに注文を済ませてグラスを傾けていると、後ろを歩いてる女から不意に声をかけられた。
「今日はひとりなの? あの彼女は?」
振り向くと、そこにいたのは時々この店で見かける元カノ「エリカ」だった。かつてカナに存在がバレて、怒り狂った記憶が脳裏をよぎる。
「あぁ、旅行に行ってる」
「へえ。寂しくないの? 大丈夫?」
どこか面白がるような、からかうトーンに恭介は少し眉をひそめた。
「大丈夫に決まってるだろ。うるせーな」
「相変わらず素直じゃないなぁ」
そう言って彼女はクスッと笑うと、恭介のすぐ隣のスツールへと移動してきた。
「隣座ろっと。ねえ……彼女は私達のこと知ってるの?」
グラスの氷をカラリと鳴らしながら、上目遣いで尋ねてくる。
「あぁ、知ってる」
「あら、それはマズイんじゃないの? 怒られちゃうよ?」
「いや、もう昔のことだろ」
吐き捨てるように言った恭介の言葉に、彼女は少しだけ満足そうな笑みを浮かべた。
「そうだね。じゃあ今日は、久しぶりに一緒に飲もうよ」
カウンター越しに並んだグラス。酒が進むにつれて、話題は自然と共通の知人たちの近況へと広がっていった。
「そういえばさ、あいつは今何してるの? あと、あの子が結婚したって話、聞いた?」
「あぁ、あいつは相変わらずだよ。結婚の噂は本当らしいな」
「へえ、みんな色々変わっていくねぇ」
酒が回るにつれて昔話にはさらに花が咲き、懐かしい記憶が次々と掘り起こされていく。ふと、彼女がグラスを置く手が止まり、どこか遠くを見るような目になった。
「私、あの頃、ずっと恭介のことが好きだったんだけどなぁ……」
「……昔のことだろ」
恭介が素っ気なく返すと、彼女は少し恨めしそうな、けれど懐かしそうな表情で恭介を見つめた。
「でも、恭介は違う子に行ったじゃない」
「よく覚えてるな」
「私、すごく泣いたんだよね」
当時の記憶が鮮明に蘇り、恭介は少しバツの悪そうな顔をしてグラスを弄んだ。
「……あの時は悪かったな」
「ふふ、いいのよ。もういい思い出だから」
そんな会話を重ねるうちに、お互いにずいぶんと酔いが回ってきた。時計の針もすっかり遅い時間を指している。恭介はハイスツールから腰を上げた。
「俺そろそろ帰るわ」
「あ、私も帰る」
彼女もバッグを手に取り、二人並んでアンカーのドアを押した。夜の風が、火照った顔に心地よく吹き抜ける。
静まり返った路上で、彼女が足を止めて恭介の顔を覗き込んできた。
「帰っても、誰もいないんでしょ?」
「あぁ、そうだよ」
「じゃあ、うちにきなよ」
唐突な提案に、恭介は眉をひそめた。
「は? なんでだよ」
「飲み直そうよ。ね、少しくらいいいじゃない」
「めんどくせーなー……」
酔いと眠気、そして昔の懐かしさが混ざり合い、思考が少し鈍っている。
「……すぐ帰るからな」
そう呟いて、恭介は彼女の後ろをついて歩き出した。
彼女は独身で、気ままに自由に暮らしていた。人並みに男と遊んではいるようだったが、決まった彼氏はいないみたいだった。
「部屋汚いけど、ごめんねー」
マンションの鍵を開けながら彼女が言う。
「じゃあ、呼ぶなよ」
恭介が呆れ気味に返しつつ玄関をくぐると、特に汚いというわけでもなかった。
散らかっているどころか、無駄なものが置かれていない、よく整理された大人の部屋という感じだ。シックなインテリアで統一され、ほのかに落ち着いたルームフレグランスの香りが漂っている。
「なんだよ、普通に綺麗じゃねえか」
「ふふ、適当に座ってて」
彼女はキッチンへ向かうと、冷蔵庫から手際よく酒とグラス、軽いおつまみを用意してローテーブルに並べた。
二人でグラスを合わせ、再び乾杯する。
アンカーでの賑やかな空気とは違い、静かな部屋の中で落ち着いた二度目の飲みが始まった。
「で? 恭介は今、どんな感じなの? お仕事とか」
グラスを傾けながら、お互いの本格的な近況を話し始める。仕事の調子や最近ハマっていること、昔の共通の知人たちのさらに深い話。
飾らないトーンで会話が弾むにつれ、酒の酔いとお互いの距離感が、ゆっくりと解ろけていった。
「近いだろ」
ソファーで隣に座る彼女との距離の近さに、恭介は苦笑いを浮かべながら少し体を引いた。
「いいじゃないの。知らない仲じゃないんだし」
そう言うなり、彼女はコロンの甘い香りを漂わせながら、恭介の胸元にすっと身を寄せて抱きついてきた。
「おい、飲み過ぎだぞ」
恭介は彼女の肩を軽く押し戻そうとしたが、酔った彼女は力を抜いて腕にすがりついてくる。
「飲み過ぎてないよ。……恭介、冷たいなぁ」
胸に伝わる体温と、昔と変わらないようでいてどこか大人びた彼女の感触に、酒の回った恭介の頭が一瞬クラリと揺れた。
「……ねえ、恭介。彼女で満足してる?」
「……は?」
唐突な問いかけに、恭介の手が止まる。彼女は逃がさないように恭介の腕を強く抱え直し、上目遣いでまっすぐ見つめてきた。
「今の彼女と本当にうまくいってたら、お盆の夜に昔の女と二人で飲んだりしないよね?」
「……ただの暇つぶしだろ。変な深読みすんな」
「暇つぶし? じゃあ、なおさらいいじゃない」
彼女の手が恭介の胸元に伸び、ゆっくりとシャツのボタンに指をかける。
「ねえ……私たち、もう一度付き合わない?」
「おい、変なこと言うなよ」
「あの頃の私とは違うし、恭介のことだって今の方が理解できる。……彼女より、私の方が絶対楽しいよ?」
甘い香水と酒の香りが混ざり合い、息がかかるほどの至近距離で魅惑的な言葉が投げかけられる。ボタンが一つ外されていく。
「彼女にバレたら困る?」
「そりゃそうだろ」
「ここならバレないじゃない。知ってるのは私たちだけ」
「……そういう問題じゃねーだろ」
「ねぇ、泊まっていきなよ。やり直そうよ、私たち」
彼女の潤んだ瞳がじっと恭介の唇を見つめ、胸元にすり寄る体温が熱を帯びていく。逃げ場を塞ぐようなストレートなアプローチに、恭介の頭の中に激しい葛藤が渦巻いた。
「マジでやめろって。俺はもう帰るから」
恭介は彼女の手をしっかりと掴んで引き剥がすと、ソファーから勢いよく立ち上がった。上着をひったくり、背を向ける。
「なによ……しょーもない男になったわね」
背後から投げかけられた、悔しさと呆れの混ざった声。恭介は振り返ることもなく、玄関へと向かった。
「ははは、しょーもない男でいいんだよ」
吐き捨てるように言い残し、恭介は彼女の部屋を後にした。
夜風を浴びながら歩く恭介の手の中で、スマートフォンが短い振動を返した。画面を開くと、カナからのメッセージが表示される。
『まだ起きてる?』
恭介は足を止め、画面をタップして素早く返信を打ち込む。
『あぁ、起きてるよ』
すぐに既読がつき、カナからの返信が届いた。
『何してたの?』
一瞬、さっきまでの彼女の部屋での光景が脳裏をよぎる。はだけたシャツ、甘い香水、そして踏み込んできた言葉。恭介は短く息を吐き出すと、嘘のない事実だけを画面に打ち込んだ。
『今はアンカーからの帰り』
少し間が空いた。向こうでカナがどんな表情で画面を見ているのか、恭介には手に取るように分かった。少しだけ甘えたような、探るようなメッセージ。
『浮気してない?』
画面の文字を見つめながら、恭介は苦笑いを浮かべた。自分を試すような言葉の裏にある、カナの不器用な不安と愛おしさを感じる。
恭介は迷いなく、指を動かした。
『もちろん』
◇
「ただいまー」
玄関のドアが開き、カナの明るい声と同時に、キャリーケースを引くガラガラという音が廊下に響いた。
「おかえり。無事に帰ってきたな」
恭介がリビングから顔を出すと、カナは旅行バッグを床に下ろし、開口一番リビングの隅に目をとめて眉をひそめた。
「わ、洗濯物が溜まってるじゃない」
「溜まってないだろ。昨日と今日の分くらいだ」
「はぁ、これだから……。2日分も放っておいたら溜まってるっていうの。男の人って本当に大雑把なんだから」
カナは呆れ顔でため息をつきながらも、どこか嬉しそうにパタパタと腕まくりを始めた。
「ほら、さっさと洗っちゃうから脱いだもの出しなさい」
「お前、帰ってきたばっかなんだから少し休めよ」
「いいの。こういうのはすぐ片付けないと気が済まないの」
そう言いながら洗面所へ向かうカナの背中を眺めながら、恭介は胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。
数日前、あの部屋で聞いた「私の方が絶対楽しいよ」という言葉が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
(……やっぱり、俺にはカナだな)
恭介は小さく口元を緩め、自分の部屋から脱ぎ散らかしたTシャツを掴んで洗面所へと向かった。
「はい。よろしくお願いします」
「はいはい。……あ、私がいない間、変な子と会ったりしてないでしょうね?」
恭介は返事をせず、壁の時計に視線を投げてみせた。あえて無言のまま、ポケットに手を突っ込んで白々しく素通りしようとする。
「ねえ、ちょっと。なんで無視するの?」
意地悪な沈黙にすぐさま反応したカナが、洗剤のボトルを手にしたままクルッと振り返り、ジト目で恭介を睨みつけてきた。
「聞いてるんだけど? 恭介さん?」
「……何が?」
「何が? じゃないでしょ! 浮気してないでしょうねって聞いてるの! なんで急に黙るのよ、怪しい!」
「するわけないだろ。くだらないこと聞くなよ」
「まぁ、信じてるからね」
カナはふっと表情を緩めると、洗剤のボトルを置いて恭介の後ろへ回り込んできた。
「私がいない間寂しかったでしょ?」
「いや、特に……あ、いや、寂しかったよ」
言い直した恭介の言葉に、カナはクスッと満足そうに笑う。
「可哀想に」
言うなり、カナは恭介の背中にぴったりと身体を預け、後ろからぎゅっと抱きついてきた。そのまま、細い指先が恭介の下腹部へとすっと伸びる。
「ちょ、カナ? まだ昼だから」
「昼でもいいじゃない。寂しかったんでしょ?」
耳元で甘い吐息を漏らしながら、カナの手がゆっくりと服の上からなぞっていく。
「私も寂しかったんだから。ね?」
「ちょ、待ってくれよ。俺は酒を飲むんだよ」
恭介は必死に理性を保とうと、キッチンに置いたグラスへと目をやる。
「今飲まなくてもいいじゃない。ねー」
「ダメだ。俺は今飲む。ほら、離してくれよ」
恭介が身体をひねって腕を振り払うと、カナはぷっと頬を膨らませて唇を尖らせた。
「んもう!」
足を踏み鳴らすカナを横目に、恭介は胸を撫で下ろしながら冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。やっぱりカナしかいないと確信しながら冷たいビールを流し込んだ。




