境界線の解体
金曜の夜、いつもなら荷物をまとめて「じゃあな」とドアを開ける時間になっても、恭介はソファから動かなかった。
「本当に帰らないんだ……」
缶ビールを片手に、カナがじわじわと込み上げる嬉しさを隠しきれない顔で呟く。これまでは週末になれば恭介が自分の家に帰り、カナは一人で留守番をするのが当たり前だった。それが今日からは、土曜日も日曜日もずっとこの部屋に恭介がいる。カナにとって、それは夢のような変化だった。
だが、土曜日の昼過ぎ。恭介の中でその「快適さ」は、少しずつ息苦しさに変わり始めていた。
元・子供部屋だった物置を片付け、自分の荷物を置かせてもらっている四畳半のスペース。恭介はそこでパソコンを開き、一人で静かに仕事を進めようとしていた。
……パタン。
「ねえ恭介さん、アイス食べるー?」
ドアが遠慮なく開き、カナが顔を覗かせる。
「……いらない」
「そ? じゃあ私食べるよー」
ドアが閉まり、恭介はふぅと息を吐いて画面に視線を戻した。しかし、15分後。
……パタン。
「ねえねえ、今日の夜ごはん何にするー?」
「……後でいいだろ、まだ昼だぞ」
「えー、だって買い物行かないとじゃん」
悪気は一切ない。ただ「恭介が同じ家の中にいる」というだけで嬉しくてたまらないカナは、用があろうがなかろうが、数十分置きにドアを開けて入ってくる。挙句の果てには、恭介のすぐ後ろでゴロンと横たわり、スマホをいじりながら「ねえこれ見てー」と話しかけてくる始末だった。
部屋着の短いスカートがすっかりめくれ上がり、薄ピンクの下着が丸見えになっている。だが、当の本人は意に介す様子すらない。
「……おい、カナ。見えてるぞ」
恭介が呆れ気味に声をかけると、カナはスマホから目を離さず、へらへらと笑いながら手で適当に裾を引っ張った。
「えー、やだー。もうー」
全く隠す気のない雑な動作。以前なら「見ないでよ!」と慌てて恥ずかしがっていたはずなのに、今や完全にリラックスしきって、恭介のことを「身内」か「長年連れ添った家族」のように扱っている。
恭介はキーボードを叩く手を止め、こめかみを軽く押さえた。
これまでは週末に自分の家に帰り、誰にも邪魔されない時間を持つことで、精神的なバランスを保っていた。だが今は、四六時中カナの気配があり、パーソナルスペースに容赦なく踏み込まれてくる。
「一人にしてくれ」と突っぱねたいところだが、ここは元々カナの家だ。居座らせてもらっている立場上、そこまで強い態度を取るわけにもいかない。そのもどかしさが、さらに恭介のイラつきを加速させた。
「カナ」
あからさまにトーンの落ちた声に、ようやく危険を察したのか、カナがピクッと動きを止めてスマホを伏せた。
「……そういうの、やめてくれ」
「え……?」
「ここに入ってくるのもそうだし、そういう無防備な格好でダラダラされるのも嫌だ。」
ストレートな拒絶の言葉に、カナの顔から一瞬で余裕が消えた。傷ついたような、信じられないものを見るような目で恭介を見つめ返す。
「なによ……家族みたいでいいじゃん。せっかくずっと一緒にいられるようになったのに……」
「俺は一人の時間もないと息が詰まるんだよ」
恭介が目を逸らさずに淡々と言うと、カナは唇を噛み締め、勢いよく起き上がった。
「……分かったよ! 邪魔して悪かったね!」
スカートの裾を叩くように整えると、カナは恭介の脇を押し通るようにして部屋を出ていき、ドアを思い切りバタンと閉めた。
◇
バタン、と強めに閉まったドアの残響が、静まり返った四畳半に虚しく響く。
恭介は肘をデスクにつき、両手で顔を覆った。
言い過ぎたという自覚はある。せっかく週末も一緒にいられるようになって浮かれていたカナの気持ちを、土足で踏みにじるような言い方だった。
だが、あの緊張感のなさ、家族特有の「なあなあな空気」を向けられることが、恭介にはたまらなく嫌だった。
(家族か……)
その言葉が、胸の奥で重く冷たく引っかかる。
かつて守るべきだった自分の「家庭」が、年月の経過とともにどう変化していったかを、恭介は痛いほど知っていた。
最初は愛おしかったはずの相手も、同じ屋根の下で暮らし、生活の生々しさを共有し、お互いを「家族」と呼ぶようになった途端、性別を失っていく。触れ合うことも減り、ときめきや緊張感は消え失せ、最後に残ったのは冷え切った同居人としての沈黙だけだった。
「可愛い」とか、「綺麗な脚をしてるな」とか、カナに対して抱いている男としての感情。 それが「家族」というぬるま湯に浸かることで磨耗し、やがて消えていってしまう。
カナを傷つけたいわけじゃない。ただ、男女としての「境界線」を失うことが、二人を壊すような気がしていた。
恭介は深く溜息をつくと、扉の向こう、静まり返ったリビングへと向かうために、そっとドアノブに手をかけた。
リビングへ出ると、カナはソファの端っこで膝を抱え、テレビの消えた画面をじっと見つめていた。あからさまに「おこ」のオーラを漂わせている。
恭介は隣に腰を下ろし、頭を掻きながら切り出した。
「冷めるっていうかさ。俺が一番怖かったのは……カナを『家族』として見ちゃうことなんだよ」
「え、いいじゃん! 家族になろうよ! 家族になりたい!」
間髪入れずに返ってきた言葉に、恭介は少し眉をひそめた。
「家族になると身内だろ? 男と女という性別もなくなってしまうんじゃないか?」
「身内いいじゃん!」
カナは悪びれもせず、屈託のない笑顔で答える。まるで分かっていない。
「そうなると見られても平気とか、雑になってしまうだろ? それが嫌なんだ。俺はいつまでもカナと恋人同士のような関係でいたいんだ」
恭介が真顔で釘を刺すと、カナは少しだけ首を傾げた。
「カナの下着が見えたりしてドキドキしたいだろ? それが普通に見えてたら、そのドキドキもなくなるだろ?」
「え、そう?」
カナはそう言いながら、スカートの裾をちょいと持ち上げて、チラッと下着を見せてきた。
「ドキドキした?」
恭介は深く目を瞑った。ダメだ。こいつは何もわかっていない。
「……はぁ。とにかく、仮に家族のような関係になっても俺はそうしたいと思ってる」
「うんうん、なんとなくわかるよ。うん、そうだね」
あっけらかんと言い放つカナの表情には、悲壮感も深刻さも欠片もない。
(……ほんとにわかってんのか?)
「私も恭介さんにドキドキしたいから。ま、いつもドキドキしてるけどね。えへ」
カナはチラッと上目遣いでこちらを見ると、小さく舌を出して笑った。さっきまでの不機嫌などどこへやら、完全に調子を取り戻している。
(……やれやれだ)
恭介は頭を抱え、小さく息を吐き出した。
真剣に悩み、葛藤していた自分がバカらしくなるほどの、カナのこの圧倒的な無邪気さとマイペースさ。だが、その屈託のない笑顔を前にすると、これ以上固いことを言う気も失せてしまう。
ルールを決めたはいいものの、やっぱり現実はそう簡単にはうまくいかなかった。
一度身内モードに入ったカナの隙だらけな態度は、そう簡単に治るものではない。相変わらず恭介の部屋で無防備に寝そべり、気がつけばその中が見えてしまっている。
頭を抱えかけていた恭介の頭に、ふと一つの妙案が閃いた。
(そうだ……見てやればいいんじゃないか?)
これまでは「見えてるぞ」と呆れて注意するか、視線を逸らしていた。だが、カナのことだから、こちらが本気でジロジロ見れば「見ないでよ!」と恥ずかしがって隠すはずだ。そうすれば自然と恥じらいや緊張感が戻ってくるのではないか。
意を決した恭介は、無防備で下着が見えそうなカナの太ももあたりを、じーっと無言で凝視した。
数秒後、視線に違和感を覚えたのか、カナがスマホから目を離して恭介を見た。
「……ちょっと! 見ないでよ!」
カナが顔を真っ赤にして慌ててスカートの裾を引っ張り、手で必死に隠した。
(きた! これだ! よしよしよし!)
心の中でガッツポーズを決める恭介。読み通りだ。この「恥ずかしがる反応」こそが、恭介の求めていた緊張感だった。
平然とした顔を装いながら、恭介は素っ気なく言い放つ。
「見えてるんだからしょうがないだろ」
「でも、見ないでよ。なに? 見たいの?」
「見たいとかじゃなくて、見えてるんだよ」
「んもう、まったく……」
カナはぶつぶつと文句を言いながら、恥ずかしそうに背中を向けて体勢を整えた。
さらに調子に乗った恭介は、次の作戦を実行に移すことにした。
廊下の向こう、脱衣所からパシャパシャと水音が聞こえ、カナが着替えている気配がする。これまでは絶対に近づかないように配慮していた時間帯だ。
恭介は足音を忍ばせて脱衣所の前に立つと、何食わぬ顔で勢いよく扉を開けた。
「ちょっと! 開けないでよ! いるのわかってるでしょ!」
タオルを胸元に押し当てたカナが、目を丸くして金声をあげた。一瞬で顔を真っ赤にして、バタバタと身を隠そうとする。
(よしよしよし! いいぞいいぞ!)
心の中で大勝利のガッツポーズを決めながら、恭介は素知らぬ顔で「あ、ごめん」と短く謝った。
「気をつけてよね!」
パタン!と勢いよく扉が閉まり、カギの掛かる音がカチャリと響いた。
脱衣所の前で一人残された恭介は、ニヤけそうになる口元を必死に手で押さえた。完璧だ。
同棲生活のぬるま湯に浸かりかけていたカナに、着実に「男女の緊張感」が戻ってきている。
この「恥じらい」がある限り、二人ならいくら一緒にいても「冷め切った身内」にならずに済む——そう確信した恭介は、軽やかな足取りで自分の部屋へと戻っていった。




