小さな対立
その夜、恭介がカナの部屋にやって来た時の空気は、いつもより少しだけ静かだった。
「……話がある」
テーブルを挟んで向かい合った恭介は、温かいお茶のカップに手を添えながら、静かに語り始めた。
「別居することになった」
カナは思わず息をのんだ。恭介にとって家庭は、週末になれば戻っていく絶対的な境界線だったからだ。
「……何かあったの?」
「いや、ケンカしたとか険悪になったわけじゃないんだ。ただ、お互いに一度距離を置こうかって話になってさ」
長年一緒に暮らす中で、夫婦としての関係はとっくに冷め切り、お互い干渉しない同居人のようになっていた。妻とも冷静に話し合い、「お互いの人生のために、一旦別々に暮らした方が風通しもいいよね」と、前向きかつ穏やかに決まったことらしい。
「離婚するわけじゃない。ただ、俺が家を出て別居することになった」
「じゃあ……恭介さんはどこに住むの?」
「アパートが見つかるまでの間、ウィークリーマンションでも借りようかと思ってたんだけど——」
「うちに居ればいいじゃん! なんでわざわざそんなところ借りるの!?」
カナはテーブルを叩く勢いで身を乗り出した。ずっと「週末の留守番」を重ねてきたカナにとって、それは願ってもない展開だった。
「ありがとう。自分の部屋が見つかるまでの間だけな」
恭介が念を押すと、カナは「うん! ずっとここにいて!」と嬉しそうに何度も大きく頷いた。
いずれは自分の部屋を探す必要がある。それでも、期限付きの同棲生活にカナは大喜びだった。物置のようになっていた部屋——かつてカナの子供が使っていた小さな部屋——を片付け、恭介の荷物を運び込んで「恭介の部屋」が完成した。
それからしばらくして。
カナが友人のサツキを呼んで、宅飲みをすることになった。 これまでは恭介が家にいない週末や平日の昼間にやっていたのだろう。居間から聞こえる楽しげな笑い声に、恭介は自分の部屋で遠慮するようにパソコンに向かっていた。
居心地の悪さを感じながら静かに過ごしていると、トントンと軽やかにドアが叩かれた。
「恭介さん、 サツキが『せっかくだから一緒に飲もう』って言ってるよ。出ておいでよー」
断るのも角が立つ。恭介は「……ああ、じゃあ少しだけ」と仕方なく部屋を出て、居間のテーブルについた。
「いやー、恭介さんがいる時に来るの初めてですね! いつもカナから話は聞いてますよ」
サツキはすっかりくつろいだ様子で笑う。何度もこの部屋に来ているからか、自分の家のようにリラックスしていた。
問題は、その格好だった。
サツキが着ているのは、薄手の大きめなTシャツと、太ももが露わになるほどの短い短パン。床に直接あぐらをかいたり、足を崩したりするたびに、健康的で白い太ももが視界に入ってくる。
(……おいおい、目のやり場に困るんだよ)
恭介は居心地の悪さを誤魔化すように立ち上がり、「ビール取ってくる」とキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出していると、後ろから足音がしてカナがついてきた。恭介の横にすっと並ぶと、カナは軽く睨みつけるように恭介の顔を覗き込み、小声で怒りを出してきた。
「ちょっと……なにサツキの足ばっかり見てるのよ」
「……見てねーだろ」
恭介も小さな声で即座に否定する。本当に見ないように苦労していたのだから、濡れ衣もいいところだった。
気まずい空気のまま、二人はリビングのテーブルへと戻った。
するとカナは、わざとらしくパタパタと胸元を扇ぎながら言った。
「あー、なんか急に暑くなってきたな。ちょっと待ってて」
そう言って立ち上がり、寝室へと向かうカナ。
数分後、戻ってきたカナの姿を見て、恭介は思わず絶句した。 カナが履いていたのは、サツキのものよりもさらに丈が短い、ギリギリの短パンだった。完全に負けず嫌いが発動している。
「お待たせー。飲も飲も!」
何事もなかったかのようにサツキの隣に座り、すらりと伸びた自分の脚をアピールするように組み直すカナ。
女同士のくだらない雑談がBGMのように流れる中、恭介はただビールを口に運んでいた。時折「へえ」「そうなんだ」と適当に相槌を打つだけの簡単な業務だ。
「あ、なんかつまみ作ってくるから二人で飲んでて!」
カナがそう言って立ち上がり、キッチンへと向かった。 リビングに残されたのは、恭介とサツキの二人。気まずい空気が漂うかと思ったが、サツキが気安く話しかけてきた。
「なんか恭介さんがいるのにお邪魔しちゃってすいません」
「いえいえ、全然。いつでも来てください」
(……というか、まずその短パンと太ももをどうにかしてくれよ)
恭介は心の中でツッコミを入れつつ、視線をグラスへと逸らした。
「二人は仲良くていいですね」 「いやいや、そうでもないですよ。……サツキちゃんは彼氏いないの?」 「いないんですよー。全然できなくて」 「可愛いからすぐ出来るよ」 「えー、そうですかねー? 恭介さんお上手ですね」
そんなたわいのない会話を交わしながら、ふとキッチンへ目をやると、つまみを切っていたカナが手を止め、包丁を持ったまま猛烈な鋭い視線で恭介を睨みつけていた。「可愛い」の一言がアウトだったのか?
(……面倒くさいな)
嫌な予感がした恭介は、「ちょっとお酒取ってくるね」と席を立ち、キッチンのカナの元へ向かった。
「……なんだよ?」
小声で尋ねると、カナは包丁をトントンとまな板に叩きつけながら、低い声で詰問してきた。
「……サツキのこと口説き落とそうとしてる?」 「は?」 「彼氏がいるかどうか聞いたり、可愛いとか言ったりさ。口説いてるの?」 「んなわけねーだろ!」
あまりにも理不尽なヤキモチに、恭介の胸の中にイラつきが込み上げてくる。それと同時に、恭介の中の「悪い心」が目を覚ました。
テーブルに戻った恭介は、わざとらしく明るいトーンでサツキに話しかけた。
「サツキちゃんってスタイルいいよね。身長いくつ?」 「170cmありますよー」 「やっぱり! 顔も可愛いしスタイルもいいし、絶対モテるよね?」 「いえいえ、全然ですよ〜! 恭介さん褒め上手なんだから」
チラリとキッチンを見ると、カナの殺気がさらに増している。まな板を叩く音がさっきより明らかに大きくなっていた。
「彼氏いないなら、毎日寂しいでしょ?」 「そうなんですよー、一人暮らしだと余計に」 「じゃあ毎日ここに来ればいいじゃん。俺は大歓迎だけど?」 「えー、ほんとですかー? 毎日来ちゃおうかな〜!」
その瞬間、限界を迎えたカナが「はい、おつまみできたよー!」と強引に会話を遮り、ドタバタと猛烈な勢いでテーブルへ戻ってきた。
◇
「じゃあ私、そろそろ帰りますねー!」
日付が変わった頃、サツキが服を着替えて帰り支度を終えた。玄関まで見送りにいくと、サツキは「お邪魔しましたー!」と元気に頭を下げた。
「また一緒に飲もうね」
恭介がそう声をかけると、サツキは「はい! ぜひ〜!」と手を振り、カナが「下まで送ってくるね」と一緒に出て行った。
静かになった部屋で、恭介はテーブルの上に散らかった缶や皿を黙々と片付け始めた。
数分後、バタンとドアが開き、カナが戻ってきた。その顔は完全に「怒る準備万端」といった面持ちで、肩を怒らせながら恭介へ一直線に歩いてくる。
「……スタイルいいとか、キモいわー」
カナは頬を膨らませて、ぷんぷんしながらつっかかってきた。
「正直に言っただけだろ」
恭介が平然と答えると、カナはさらに不満そうに口を尖らせる。
「そこは『でもカナのほうがいいね』とか言えばいいじゃん!」
あまりにもストレートな要求に、恭介は込み上げてくる笑いを必死に噛み殺した。
「そんなこと言うやついるかよ」
「なによ! ……そんなに好きなら、サツキのこと紹介してあげようか?」
カナのいつものパターンが出た。ヤキモチが極まるとすぐに出てくる不貞腐れ文句に、恭介は思わず苦笑する。
「……足ばっかり見てさ」
「見てねーだろ」
「私の方が綺麗な足してるじゃん!」
自ら張り合ってきたカナに、恭介はわざと気のない素振りで返した。
「そうか?」
「そうよ! よく見てよ!」
カナはそう言うと、履いている短パンの裾をくいっと引っ張り上げた。
目の前に突き出されたカナの脚を見つめ、恭介はフッと息を吐くと、そっとその太ももに手を伸ばした。
手のひらに伝わる、しっとりと柔らかい肌の感触。
「……ほんとだ。カナのほうが綺麗な足してるな」
あからさまな機嫌取りの言葉を口にすると、カナの表情が一瞬でパッと華やいだ。
「でしょ!」
胸を張って誇らしげに微笑むカナを見て、恭介はそのままの手で太ももを優しくマッサージし始めた。
「ん……くすぐったいよぉ」
カナが身をよじるのも構わず、恭介は掌全体を使って、膝上から付け根近くまで上へ下へと太ももを丁寧に揉み込んでいく。さっきまでの怒りはすっかりどこかへ飛んでいったようだ。
だが、恭介の「悪い心」はまだ完全には収まっていなかった。
揉む手を上へと滑らせるついでに、一瞬だけ、短パンの裾の隙間から指先をスッと中へ滑り込ませた。
「ちょっと! 指! 指!」
慌てて声を上げるカナ。恭介は「あ、すまん」ととぼけた顔をしながら、マッサージを続けるフリをして、何度も同じように指先を短パンの中へと忍ばせた。
「だから、指だって」
二度、三度と繰り返すうちに、最初は抗議していたカナの声も次第に小さくなっていった。
短パンの裾のぎりぎり、太ももの付け根あたりを指先でしつこく揉みほぐしていく。
さっきまで怒っていたカナの目はすっかりトロンと潤み、熱を帯びた視線で恭介をじっと見つめていた。もう短パンの中に潜り込む指のことなんて、一切口にしようとしない。完全にその気になっている証拠だった。
恭介はニヤリとして、揉んでいた手をスパッと離し、何事もなかったかのようにさっと立ち上がった。
「さ、洗い物しなきゃな!」
そのままキッチンへ向かおうと背を向けた瞬間、後ろから拍子抜けしたカナの叫び声が響いた。
「ちょっと! ねぇ! ちょっと!! なんでよ!!」
立ち上がった恭介の後ろを、カナがドタバタと素足の音を響かせて追いかけてきた。
「まだマッサージ終わってないよ!」
「いや、終わっただろ。洗い物の時間だよ」
シンクの蛇口を捻ろうとする恭介の腰に、カナが後ろからしがみついて離れない。
「終わってないの! 終わってないから!」
必死に食い下がってくる姿が可笑しくて、恭介は手を止めて振り返り、上からカナの顔を覗き込んだ。
「なんだよ? 興奮して我慢できないのか?」
思いきり核心を突かれたカナは、顔を瞬時に真っ赤にして一瞬固まった。
「え、そ、そういうわけじゃないけど……」
急に口ごもり、視線をあちこちに泳がせるカナ。焦れば焦るほど、墓穴を掘っていることに気づいていない。
「じゃあ、なんだよ」
「……だって、マッサージが気持ちよかったから」
カナはモジモジしながら、白状した。
「じゃあ、また今度な」
恭介がそっけなく受け流してシンクに向かおうとすると、カナは恭介の腕を両手で強く引っ張った。
「今なの! 今やってほしいの!」
完全に火がついてしまったカナは、目を潤ませたまま絶対に譲らない構えだ。一度こうなったらテコでも動かないのを、恭介はよく知っていた。
「……ちっ、わかったよ」
恭介が諦めて吐き捨てると、カナの顔が一瞬でパーッと明るくなった。
「うん、お願いします!」
そう言うやいなや、カナは「暑いから短パン脱ごうかなっ」と鼻歌交じりに短パンのボタンを外し、躊躇なく足元へ脱ぎ捨てた。
さらにパチッと部屋の電気を消し、小さな間接照明だけの薄暗い空間を作り出す。完全にやる気モードだ。
普段なら「見ないで」と恥ずかしがるくせに、自分のスイッチが入った時だけは恐ろしいほど大胆になる。下着姿のままベッドの上に上がり、恭介をじっと見つめてくるカナに、恭介は呆れ半分、諦め半分で息を吐き出した。
脹脛や太ももを丁寧に揉んでやる。
しばらく続けてると、本当に気持ちよかったのか、スースーと寝息が聞こえてきた。
あんなに「今やって!」と大胆に迫ってきたくせに、本気でリラックスして眠り落ちてしまったらしい。
恭介は苦笑いしながらそっとカナの脚をベッドの上に下ろし、掛け布団をかけてその場を離れた。
残されていた台所の皿を洗い終え、風呂場へ入って汗を流す。さっぱりして湯上がりの髪をタオルで拭きながらリビングへ戻ってくると、カナが腕を組んで仁王立ちしていた。
完全に怒っている顔だ。
「マッサージは!」
開口一番、プンプンと肩を怒らせて抗議してくるカナに、恭介はポカンと口を開けた。
「は? 寝てただろ!」
「寝てないよ! 起きてたよ!」
「嘘つけ。完全にスースー言ってお休みモードだったろ」
「寝てないってば! ちょっと目をつむって気持ち良さに浸ってただけなの!」
ムキになって言い張るカナの顔は、寝起き特有の赤みがまだ残っていて、髪も少しボサボサだ。どこからどう見ても爆睡していた証拠だった。
言い訳が見苦しすぎて、恭介は呆れを通り越して笑いが込み上げてくるのを必死に堪えた。どこまでも可愛いやつだ。




