すれ違う二人
カナと別れてから、2週間が過ぎた。
恭介は相変わらず『アンカー』のカウンターで、ひとりぼーっとグラスを傾けていた。 カナのいない日常。気まずさと、どこかぽっかり空いた穴を埋められないまま、酒で時間を潰すだけの夜。
「……マスター、ごちそうさま。帰るわ」
「お疲れ様」
酒の味もよく分からないまま会計を済ませ、恭介は店の重い扉を押した。
カラン、とドアベルが鳴る。
扉を開けたその瞬間——目の前に、ずっと頭から離れなかった顔があった。
「……あ」
カナだった。 お互いに息を飲み、一瞬だけ時が止まる。
2週間ぶりに見る顔。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、喉の奥に引っかかって何も出てこない。
恭介は何も言わず、ただカナに扉を譲るように一歩引いた。
カナも一瞬戸惑ったように恭介を見たが、そのまま何も言わずに店の中へと入っていく。 入れ違いに、恭介は夜の街へと出て行った。
◇
(……あ、恭介さんだ)
目の前に現れた恭介の姿に、カナの鼓動が一気に跳ね上がった。 心臓がうるさいくらいに打ち付け、手先が冷たくなっていく。
振り返りたい。今すぐ背中にしがみついて、「寂しいよ」と叫びたい。
そんな激しい欲求を必死で押し殺し、カナはただ感情を殺して店内へと進んだ。
カウンターの端の席に、静かに腰を下ろす。
(……恭介さん、目も合わせてくれなかった)
私に気づいていたはずなのに。
すれ違いざま、彼は一度も私の顔を見ようとしなかった。
あの冷たい態度。もしかして、もう新しい彼女でも出来たんだろうか。
私なんて、もうとっくに思い出にすらなっていないのかもしれない。
波のように、途方もない悲しみが押し寄せてくる。
マスターは察したように何も聞かず、ただ静かにカナの前にグラスを置いた。
その無言の優しさが、逆にカナの心を締め付ける。
グラスの氷をじっと見つめるカナの目から、じんわりと涙が溢れ出してきた。
(なにしに来たんだろ、私……)
「また会えたら話くらいできるかも」なんて、どこかでずっと抱いていた淡い期待が、木っ端微塵に砕け散った瞬間だった。
◇
あの夜のすれ違い以来、恭介はいよいよ『アンカー』に足が向かなくなっていた。
カナに目すら合わせられなかった自分への自己嫌悪と、マスターに見透かされているような居心地の悪さ。 必然的に、足を運ぶようになったのは後輩のタクヤが経営するバーだった。
「はぁ……なんか、面白いことねーかな」
薄暗い店内のカウンター越しに、恭介はグラスの氷を指で揺らしながら呟いた。
タクヤは恭介の事情をすべて知っている数少ない後輩だ。恭介の手元を見ながら、手際よくグラスを磨きつつ口を開く。
「ないっすよー。恭介さんのおもしろいことってなんすか?」
「そりゃお前、女と遊んだりすることだろ」
「女っすかー。それ楽しいですか? めんどくさくないっすか?」
「はは……まあ、めんどくさいかもな」
苦笑いを浮かべながら、恭介は浅く息を吐いた。 頭に浮かんだのは、いつもキーキーと騒いでは勝手にいじけていたカナの顔だ。確かにめんどくさい。だが、あのすれ違った夜の冷たい表情ではなく、自分に向けられていた喜怒哀楽の激しい表情ばかりが思い出される。
そんな恭介の空気を察したのか、タクヤは「まったく……」という顔で肩をすくめると、カウンターの隅で一人静かにグラスを傾けていた女性に声をかけた。
「ねぇ、小春ちゃん。この人、俺の先輩の恭介さん」
「あ、こんばんは」
振られた女性が、少し恐縮したようにぺこりと会釈をする。
「あ、どうも」
恭介も手元のグラスを置いて、軽く首を傾けた。
(はい、女の子ですよ)
タクヤなりの、気晴らしをさせようという気遣いなのだろう。
「恭介さん、小春ちゃんです。俺と同い年っす」
「へー、若く見えるね」
「いえいえ! そんなことないですよ」
恐縮しながら照れたように笑う姿は、どこか初々しい。
「あの……私、何度かここでお見かけしたことあります」
「あ、そうなんだ? 覚えてなくてごめんね」
申し訳なさそうに言う恭介に、小春は「ううん」と首を振って、少し緊張した面持ちで微笑んだ。
小春を交えた三人での会話は思いのほか弾んだ。 だが、小春が「明日早いので」と帰っていった後、恭介の胸に残ったのは強烈な「物足りなさ」だった。
どれだけ他の女の子と話しても、どれだけ居心地が良くても、心が揺れない。
(……この子じゃないんだ)
嫌というほど痛感させられた事実に、恭介は酒のペースを早めた。 物足りなさを埋めるように、胸の奥の虚しさを麻痺させるように、ロックグラスを煽り続ける。
◇
「……恭介さん。恭介さんってば」
肩をゆすられ、恭介は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。 カウンターに肘をつき、うとうとと意識を飛ばしていたらしい。
「……んあ? なんだよ」
「もう帰ったほうがいいっすよ。相当入ってますって」
「いや……まだ飲むから。……おかわりな」
「はいはい……」
手元もおぼつかない癖にグラスを差し出してくる先輩に、タクヤは生返事をしながら溜息をついた。
(はぁ……もうこれ、終わらないパターンだな)
恭介の酒癖は知っている。こうして自暴自棄になって限界まで煽る時は、絶対に自力では帰ろうとしないし、いくら説得しても無駄だ。
(はぁ……結局、あの人か……)
タクヤは手元のグラスを水洗いに回すと、ポケットから自分のスマホを取り出した。
『アンカー』のマスターとは違い、自分はただの後輩だ。粋な気遣いも、静かな見守りもする気はない。先輩のこの惨状に付き合わされるのは、御免だ。
タクヤは迷うことなく、画面上のLINEアイコンをタップする。
友達リストをスクロールし、目的のフォルダへ。 画面に表示された『カナ』の名前を迷わずタップした。
本来なら、恭介から口止めされているわけでもないが、二人の関係性を知っている以上、勝手に連絡を入れるのは『禁じ手』だ。
だが、タクヤは躊躇なくトーク画面を開き、手早くフリック入力でメッセージを打ち込み始めた。
◇
ベッドに横たわり、天井のうす暗い闇をただ見つめていた。
ベッドサイドのスマホが、短い振動音を立てる。 画面がポッと明るくなり、LINEの通知を知らせた。
(……誰だろう)
もう、「恭介さんかも」なんていう愚かな期待は抱かない。 すれ違ったあの夜の冷ややかな目線を思い出せば、彼から連絡が来る可能性なんてゼロだと身にしみて分かっていた。
ため息を漏らしながら腕を伸ばし、何気なく画面をスワイプする。
ロック画面に浮かび上がっていたのは、予期せぬ名前だった。
タクヤ
『お疲れ様です。タクヤです。恭介さんが泥酔して寝てるんで迎えにきてください。よろしくお願いします。』
「……え?」
瞬間、カナの心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり、そのまま止まったかのように錯覚した。 全身の血がすーっと引いていく感覚。
(……え? 私? なんで……私が?)
『恭介さんが泥酔して寝てる』 その文字を見た瞬間、今すぐにでも飛び出したい、タクヤくんのお店へ走って行って、彼の顔が見たい。会いたくて、触れたくてたまらない。
でも——その直後、冷たい現実が頭をよぎり、足がすくむ。
(私が行って……いいの?)
あのアンカーでのすれ違い。 私に気づいていたはずなのに、目すら合わせず、冷たくすっと通り過ぎていった恭介さんの姿が鮮明に蘇る。
(私が行ったところで……『なんでお前が来るんだよ』って、あの冷たい目で見られるんじゃないの……?)
終わった関係なのだ。自分から身を引いて、お互いに拒絶し合ったのだ。 今更ノコノコと顔を出して、またあの冷ややかな態度を取られたら——もう二度と立ち直れないかもしれない。傷つくのが、恐ろしいほど怖かった。
震える指でフリック入力をし、タクヤへメッセージを送る。
『私じゃないほうがいいと思う』
送信ボタンを押すと同時に、逃げるようにスマホをベッドに伏せた。これでいい。これが正解なんだと自分に言い聞かせる。
——だが、秒も置かずにスマホが震えた。
恐る恐る画面を開く。すぐに返信が届いていた。
タクヤ
『なにめんどくさいこと言ってるんですか』
『カナさんなんですよ。』
『早めに来てくださいね』
ストレートすぎるタクヤの言葉に、息が詰まる。
(カナさんなんですよ、って……どういうこと……?)
頭の中がぐしゃぐしゃに困惑する。タクヤくんが勝手に言っているだけかもしれない。恭介さんはそんなこと一言も言っていないかもしれない。
けれど——『カナさんなんですよ』というその強い一言が、カナの胸の奥でずっとくすぶっていた覚悟の火種に、一気に油を注いだ。
傷つくのが怖くて足踏みしている場合じゃない。 拒絶されるかもしれない。酷い言葉を投げかけられるかもしれない。それでも——
(今すぐ会いたい。……今すぐ行くから)
恭介さんが自分を必要としているかもしれないというわずかな可能性と、二週間抑え込んできた「会いたい」という爆発しそうな感情が、恐怖を完全に塗りつぶした。
私がいかなきゃいけない。他の誰でもなく、私が。
『はい』
タクヤにたった一言だけ短く返信を打つと、カナはスマホを握りしめたままベッドから飛び降りた。
合わせ鏡を見る時間すら惜しい。ハンガーから上着をひったくるように掴み、乱暴に靴を突っ込んで、カナは夜の街へと駆け出した。
タクヤのバーの前に着いたとき、カナの肩は激しい息遣いで上下していた。
目の前には、薄暗い店内へ続く重いドア。 取っ手に手を伸ばしかけ、ほんの一瞬だけ指先が止まる。
(……このドアを開けたら、もう戻れない)
冷たくあしらわれる恐怖、また傷つくかもしれないという不安。 けれど——今のカナの胸の中でくすぶっていた炎は、そんな迷いを焼き尽くすほど激しく燃え上がっていた。
(傷ついたっていい。嫌われたっていい……私がいかなきゃダメなんだ!)
意を決して、力任せにドアを押し開ける。
カラン、と寂しげな鈴の音が店内に響いた。
「遅いっすよー」
カウンターの奥から、タクヤが呆れたような、けれどどこかホッとしたような声で迎えてくれる。
そして——その視線の先、カウンターに突っ伏すようにして倒れ込んでいる男の背中が見えた。
(……恭介さんだ)
二週間ぶりに近くで見る、大好きな背中。 それを見た瞬間、胸の奥から押し寄せてきた愛おしさと切なさで、視界が一気に熱く滲んだ。ぽろぽろと零れそうになる涙を、歯を食いしばって必死に堪える。
「……ごめんね、タクヤくん」
震える声をどうにか整えてそう告げると、カナは迷いなく恭介の元へ歩み寄った。
すぐ隣に立ち、その少し冷たくなった肩にそっと手を置く。 いつもの煙草と、あの日と変わらない彼の匂いが鼻腔をくすぐった。
「恭介さん……帰るよ。ほら、立って」
優しく、でも力強く声をかける。
「……んあ…… カナ……?」
弱々しく目を開けた恭介は、焦点の合わない目でカナを見上げると、抵抗することもなく「あぁ……」と小さくつぶやいた。
想像以上にずっしりと重い彼の体温が、カナの肌に伝わってくる。
恭介を支えながら、ゆっくりと出口へ向かう。 ドアを開け、店を出る直前、カナはふと振り返ってタクヤを見た。
タクヤはニッと笑うと、片目を軽くパチンと閉じ、カナに向けて親指をグッと立ててみせた。
『あとは任せたよ』とでも言うようなそのサインに、カナは小さく頷き返し、恭介を抱え直して夜の街へと踏み出した。
マンションに着き、エレベーターで部屋へ辿り着く。 鍵を開け、フラフラの恭介を抱え込むようにして静かな部屋の中へ連れ戻した。
「……んっ、しょ……っ」
倒れ込むようにソファへ恭介を寝かせると、カナは大きく息を吐き出した。 二週間前、恭介が最後に出て行ったあの日から何も変わっていない部屋。だが、彼がそこに横たわっているだけで、止まっていた時間が一気に動き出したような気がした。
カナは膝をついたまま、その不器用で無防備な寝顔をしばらくじっと見つめていた。 冷たく背中を向けられ、アンカーでも目すら合わせてもらえなかった。傷つくのが怖くて、逃げ出そうとしていたはずだった。
けれど、規則正しい寝息を立てる彼の顔を見つめているうちに、目の奥がじわじわと熱くなってくる。
(……恭介さんが帰ってくるのは、ここなのよ)
溢れそうになる涙をぐっと溜め込み、自分に言い聞かせるように、胸の中で小さく呟いた。 どれだけすれ違っても、どれだけ遠回りしても、結局ここに辿り着いたのだと。 ぽろりと落ちた一滴の涙を指先で拭い、カナは彼の体温を感じながら、静かに脇で目を閉じた。
◇
翌朝。
アラームの音で目を覚ましたカナは、まだ呼吸を荒くして眠っている恭介の姿を確認すると、起こさないように静かに立ち上がった。
仕事へ行く時間だった。 出かける準備を済ませ、ドアノブに手をかける。 昨夜の余韻と少しの気まずさを抱えながらも、眠る恭介をもう一度だけ振り返り、カナはそっと部屋を後にした。
◇
「……う……っ」
激しい頭痛と乾いた喉の渇きで、恭介は目を覚ました。
重い体を起こし、眉間にシワを寄せながら周りを見回す。 見覚えのある天井。そして、身体に染みついた部屋の匂い。
(……あれ? カナの部屋だ……)
記憶を手繰り寄せる。 昨夜、タクヤの店で小春と飲んで、物足りなくなって、そこから一人で無茶なペースで煽って……。
(あぁ……やっちまったな……)
ズキズキと痛む頭を押さえ、深いため息をつく。 二週間前、あんな態度で出て行ったはずだった。アンカーですれ違った時だって、まともに顔も見ずに逃げ出したというのに。
(カナの部屋にいるなんて、どういうことだよ……。なんで俺、ここに居るんだよ……)
部屋には誰もいない。カナが仕事へ向かったのだと察するのに時間はかからなかった。 置かれた冷えた水を喉へ流し込みながら、昨夜の自分を介抱してくれたあろうカナへの申し訳なさと、どうしようもない気まずさが重くのしかかる。
(……とにかく、カナに謝らなきゃな)
合わせる顔のなさに耐えかねるようにして、恭介は昼過ぎ、静かにカナの部屋を抜け出した。
夕方、スマホが震えた。画面を見ると、カナからのLINEだった。
『晩御飯どうする? 何か食べたいものある?』
画面に浮かんだあまりに普通な問いかけに、恭介は思わず苦笑いを漏らした。 昨夜あんなに泥酔して介抱させ、昼過ぎに気まずく逃げ出すように部屋を出て行ったというのに。怒られるどころか、まるで何事もなかったかのような日常のトーン。
『カナが食べたいものでいいよ』
手短に返信を打つと、すぐに『わかった』とだけ返ってきた。
◇
夕暮れ時、恭介は再びカナの部屋の前に立っていた。 ドアノブに手をかける手が、ほんの少しだけ重い。
二週間前に別れたはずの二人。 お互いに傷つき、目をそらし、すれ違っていたはずなのに——鍵を開けて中へ入ると、そこには当たり前のような匂いと空間が広がっていた。
「おかえり」も「なんで来たの」もない。 お互いにどこか探るような、けれど決してお互いを突き放そうとはしない不思議な空気が流れる。何もなかったかのように、でも確実になにかが変わった状態で、二人は静かに同じ部屋にいた。
「できたよー」
キッチンから、パタパタという足音とともにカナが姿を現した。 手には、湯気が立つ二つのカレーライス。
「……カレーか。美味そうだな」
恭介がテーブル越しに目をやると、お盆を置くカナの表情がふと視界に入った。
笑顔を作ろうとしているカナの瞳の奥。 そこには、溢れ出さないように必死で堪えられている、小さな涙が溜まっていた。
二週間抱え込んできた寂しさや不安、こうしてまた目の前に恭介がいることへの安堵。色々な感情が混ざり合ったその瞳を見て、恭介は「謝らなきゃな」と思っていた言葉の代わりに、静かにスプーンを手に取った。
言葉にしなくても伝わるものが、温かいカレーの湯気とともに二人の間に満ちていた。
スプーンを口に運ぶが、スパイスの香りも肉の旨味も、何も感じなかった。 ただ熱い塊を喉の奥へ流し込んでいるだけ。複雑に絡み合った感情のせいで、舌の感覚が完全に麻痺していた。
カナもまた、無言で自分の皿を見つめたままスプーンを動かしている。 カチャカチャという金属音と、時折響くエアコンの稼働音だけが、静まり返った部屋を満たしていた。
半分ほど食べたところで、恭介はスプーンを置いた。
「……ごめんな」
ポツリと漏れ出たその声に、カナがぴくりと肩を揺らす。
「……ん? なにが?」
カナは首をかしげ、とぼけたような顔を作ってみせた。だが、その瞳には限界まで溜まった大粒の涙が揺れていて、今にも溢れ出しそうだった。
「……うん。……私の方こそ、わがまま言ってごめんなさい」
絞り出すようなカナの声。 二週間のすれ違いと、お互いがお互いを想うがゆえのこじれ。部屋の空気が一気に重く、湿り気を帯びていく。
このままじゃダメだ。恭介はとっさに、その湿った空気を強引に吹き飛ばすように声を張り上げた。
「……ってか、このカレー辛すぎだろ! メシ食わせて泣かせにきてんのか!」
わざとらしく眉をひそめ、無理やり作った笑顔でカナを見る。
「あはは……ごめんね」
恭介の不器用な優しさに、カナは声を出して笑った。 けれど、その笑顔と同時に堪えていたものが決壊し、大粒の涙がポロポロと頬を伝って落ちていった。
辛さのせいなんかじゃないことくらい、二人とも痛いほど分かっていた。
「なんだよ。辛すぎて泣いてんのか?」
恭介が呆れたような顔をしてからかうと、カナは涙で濡れた目を細め、くしゃりと表情を崩した。
「うん……辛いね」
溢れる涙を手の甲でぬぐいながら、カナは笑った。
鼻をすする音と、不器用な笑い声。 カレーの辛さに逃げ込みながら、二人はお互いに本当の涙の理由を聞かないでおいた。
言葉にはならない想いをすべて飲み込むように、カナは再びスプーンを握り直し、恭介もまた、カレーを黙って口へと運んだ。
恭介は必死に喉の奥を締めつけ、目頭に集まる熱いものを押し戻した。
カナの前で涙を見せることだけは、男としてのプライドが絶対に許さなかった。ここで泣いてしまえば、自分がどれだけ打ちのめされていたかを認めることになる。
「……ちゃんと残さず食えよ」 「うん」
涙を拭ったカナが微笑む。
恭介のその不器用な言葉が、本当はカレーの辛さのせいなんかじゃないことくらい、痛いほど分かっていた。
二週間抱え込んできた孤独も、埋まりきらない二人の溝も、週末になれば彼は家族の元へ帰ってしまうという現実も、何ひとつ解決してはいない。明日になればまた不安になるかもしれない。
それでも、無理に作った恭介の笑顔と、カレーの湯気の向こうにある温もり。 今はこの不器用な優しさだけで、胸がいっぱいだった。
カナは涙を指先で拭うと、再びスプーンを握り直し、笑顔でカレーを口へと運んだ。




