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あなたは帰る場所を知らない  作者: KYSK


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空虚

妻から連絡が入ったのは、昼過ぎのことだった。


『料理中に包帯を巻くレベルで手を切った。買い物した荷物が重くて持てないから、迎えに来てほしい』


ため息をつきながら、恭介は上着を羽織った。

妻との冷え切った関係は相変わらずだが、目の前で怪我をしている人間を無下に突っぱねるほど、冷酷にもなりきれない。


指定されたスーパーの前で合流し、痛そうに包帯が巻かれた手を押さえる妻から、両手いっぱいに詰まったレジ袋を受け取る。 文句を言い合うこともなく、ただ沈黙のまま、並んでマンションへ向かって歩く。


恭介にとっては、ただの「最低限の義理と処理」でしかなかった。


◇


「そういえばさ、恭介さんのマンションって、公園のそばにあるあそこだよね?」


カフェのテラス席。向かいでグラスの氷をストローでつつきながら、友人がふと思い出したようにカナに言った。


「え? うん、そうだけど。……それがどうしたの?」


「やっぱりそうだ。この前、あそこのスーパーの角で見たんだよね。両手に食材の詰まったレジ袋抱えてさ、普通に家に帰っていくところ」


「……ふーん。そうなんだ」


アイスコーヒーの冷たさに逃げるように、ストローに口をつける。


(……そっか。家では、ちゃんと仲早くやってるんだ)


私の部屋にいるときの恭介は、自分の家庭のことなんて一度も口にしない。どこか「冷め切っている」ような顔をして、私の我がままを溜息混じりに聞き流している。


けれど、現実は違う。 彼はちゃんと買い出しをして、奥さんの待つ家に帰り、二人で過ごす「日常」を持っているのだ。


(そりゃそうよね。夫婦なんだから当たり前か……)


私はただの、都合のいい不倫相手。 胸の奥に冷たい石を落とされたような感覚を誤魔化すように、私は引きつった笑顔を浮かべた。


◇


その日の夜。いつものようにカナの部屋を訪れた恭介は、ソファに深く腰掛け、スマホを眺めていた。


いつも通りの、見慣れた光景。 背景で流れるテレビの音を聞きながら、何気なく流れていく時間。 でも、その横顔を見るだけで、昼間の友人の言葉が頭の中を駆け巡る。


「……ねぇ、恭介さん」


「ん?」


画面から目を離さずに、短い返事が返ってくる。


「……もう、終わりにしよう」


ピタリと、恭介の指が止まる。 静かに視線を上げてくる彼と、正面から目が合った。


「……急にどうしたんだよ」


「奥さんを大事にしたほうがいいよ。ちゃんと家で仲良くやってるでしょう?」


恭介の表情が一瞬、不快そうに歪む。 彼は普段から、カナの前で「嫁」の存在を匂わせることを徹底的に避けていた。その領域を踏み越えられたことに対する警戒と、気まずさが透けて見える。


「……そんなんじゃねえよ」


「奥さんと幸せになったほうがいいと思う。それが普通だし」


「いや、ならねーだろ」


低い声で短く否定する恭介。


(「お前の方が大事だ」って、嘘でもいいから言ってよ……)


カナの胸の奥には、どこかずるい期待があった。 言葉とは裏腹に、自分の言い分を笑い飛ばして、強引に抱き寄せてくれることを望んでいた。


「だからさ……私たちの関係は、もう終わりにしよう」


カナのまっすぐな目を見つめながら、恭介の胸中には複雑な葛藤が渦巻いていた。


一方が終わりにしようと言っているのに、しがみついてこの関係が続くわけがない。 必死になってすがりつき、めんどくさい男だと思われるのはごめんだ。 カナが本気で別れたいと口にしているのなら、その望みを無理に突っぱねず、黙って引き下がってやるのが男としての『優しさ』なんじゃないか。


(……カナがそういうなら、寂しいけど仕方ないか)


胸の奥に広がる痛みを悟られまいと、恭介は諦めを伴う冷静さを装った。


「……あぁ、わかったよ」


あまりにも呆気なく吐き出された一言。


(あ……本当に、終わるんだ)


カナの胸の中にぽっかりと大きな穴が開き、冷たい風が吹き抜けていく。 否定されることを望んでいた期待は打ち砕かれ、恐ろしいほどの現実感が押し寄せてくる。 押し寄せる恐怖と惨めさを隠すために、カナは必死で顔の筋肉を引き上げた。


「でもさー! 会ったら話くらいしようよー?」


自分でも引くくらい、軽くて明るい声が出た。空元気の道化を演じることでしか、自分を保てない。


「……いや、無理だろ」


恭介のトーンは、どこまでもドライだった。別れを受け入れた以上、中途半端に未練を残すようなマネはしない。それが彼の考える筋の通し方だった。


「えー、なんでよー? 友達としてさー!」


「荷物はまた取りにくる」


恭介は立ち上がり、カナと目を合わせないままドアへ向かう。 すれ違いざまに漂ったいつもの煙草の匂いが、鼻の奥をツンと刺した。


ガチャリ、とドアが閉まる。


「………………っ」


静まり返った部屋。 テーブルの上には、さっきまで彼が触れていたグラスが残されている。


さっきまでの「えー、なんでよー?」という自分の道化のような声が、気持ち悪く耳の奥で反響していた。 引き止められもしなかった。言い訳すらされなかった。恭介なりの葛藤や「寂しさ」の裏返しだったことなど知る由もないカナにとって、それはただの「あっさりとした拒絶」でしかなかった。


「……っ、ふ……あ……」


口を手で押さえるけれど、追いつかない。 膝から崩れ落ち、床に手をついた。視界が涙でぐしゃぐしゃに歪んでいく。


「うぁ……ぁ……っ、恭介さん……」


誰もいない部屋に、カナの汚い嗚咽が響き渡る。 自分から言い出したくせに。かっこつけて身を引いたくせに。


「いやだ……、嫌だよぉ……」


プライドも、強がりも、全部崩れ去った。 カナは床に伏せたまま、一人で声をあげて泣きじゃくった。




翌日。


インターホンの音が鳴り、ドアを開けると、そこには昨日と変わらない姿の恭介が立っていた。


「……入るぞ」


「……うん」


お互いに視線を合わせないまま、短い会話を交わす。 昨日までの、冗談を言い合っていた空気が嘘のように、部屋の中には重苦しい沈黙が満ちていた。


恭介は何も言わず、部屋の隅に置いてあった自分の荷物——着替えのシャツや充電器、煙草の予備なんかを、持参した大きめの袋へ淡々と詰め込んでいく。


カサ、カサと、袋の擦れる音だけが静寂に響く。


(……あの荷物を片付け終えたら、恭介さんは出ていってしまう)


ソファーの端に座り、その背中をじっと見つめる。 バッグが膨らんでいくたびに、二人の思い出や時間が、一つずつこの部屋から消し去られていくような感覚に襲われた。


(出ていったら……もう、会うことも、顔を見ることもできなくなる)


喉の奥がキュッと絞めつけられる。 今すぐ立ち上がって、その背中にしがみつきたい。 『やっぱり嘘です。離れたくない』って、子供みたいに泣きついて撤回したい。


でも——言葉は喉でつっかえて、指一本動かせない。


(言えるわけない……。それに……奥さんと幸せになるのが、恭介さんのためにも絶対にいいはずなんだ)


自分を納得させるために、心の中で何度もその言葉を唱える。 私はただの『邪魔者』で、彼には帰るべき正しい場所がある。そう自分に言い聞かせないと、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。


「……これで全部だな」


恭介が立ち上がる。 結局、片付けの最中、二人は一言も言葉を交わさなかった。


ドアの前で、恭介が足を止める。 ほんの一瞬、何かを言いかけるように口元を動かした気がしたが、彼はすぐにそれを飲み込み、低く短い声を落とした。


「……それじゃ」


「……うん」


絞り出すような私の返事を聞くと、恭介は振り返ることなくドアを開け、外へと踏み出した。


ガチャリ、と重い金属音が響き、ドアが閉まる。


完全に鍵がかかったその瞬間、私の足からすっと力が抜けた。 床にへたり込み、胸の前でぎゅっと膝を抱え込む。


(……行っちゃった。本当に行っちゃった……)


昨日静まり返ったはずの部屋が、今日はさらに広く、冷たく感じられた。 抱えた膝に顔をうずめる。 視界が涙で一気に滲み、ポロポロと膝の生地に黒いシミを作っていく。


引き止めることも許されず、嘘だと撤回することもできず。 私はただ静かに、膝を抱えたまま、声を押し殺して泣き続けることしかできなかった。


部屋の中はすっかり暗くなっているのに、明かりをつける気力すら湧かない。 スマホの画面は、黒いまま静まり返っている。


通知が鳴るたびに肩が跳ね、画面を覗き込んでは「アプリの通知」だと知って失望する。 そんなことを、もう何度繰り返しただろう。


何の連絡もない。 メッセージの一文すら、スタンプ一つすら届かない。


窓の外を見下ろせば、いつも通りの街並み。車のライトが流れ、遠くで電車の走る音が聞こえる。 世の中は何一つ変わらずに回っているのに、自分を取り巻く世界だけが、昨日までとはまるで違っていた。


色を失った部屋で、ポツンと一人。


「……はぁ」


部屋の中に、重いため息だけが虚しく響く。


お腹は空かない。テーブルの上に放置された食べ物は、もうすっかり冷めて乾いてしまっている。一口も喉を通りそうにない。


胸の奥に、ぽっかりと空いた巨大な風穴。 そこから冷たい風が吹き抜けて、自分の存在ごと吹き飛ばされそうな感覚。


(……私、なんで生きてるんだろ)


恭介さんのいない明日なんて、何の意味があるんだろう。 彼の笑った顔も、呆れた顔も、煙草の匂いも、もう二度と私に向けられることはない。


そんな当たり前の現実に行き着くたび、胸が引き裂かれるように痛む。


考えては、涙が溢れて。 泣き疲れては、また彼のことを考えて、泣く。


◇


恭介にとっても、ぽっかりと穴が空いたような、退屈で鬱屈とした日々が続いていた。


仕事が終われば、当たり前に足を向けていた場所。 いつもの『アンカー』のドアを押す。


カラン、とカウベルが静かな店内に響いた。


「いらっしゃい。……あれ? 今日は一人?」


カウンターの奥からマスターが顔を出し、恭介の後ろを少し気にするように覗き込む。


「……うん、まあ。いろいろあってね」


自嘲気味に苦笑いを浮かべ、いつものカウンターの端へ腰を下ろす。


差し出されたグラスに手を伸ばし、琥珀色の液体を喉へ流し込む。 いつもなら美味いと感じる酒も、今はただの苦い水でしかなかった。胸の奥に広がるのは、気まずさと、予想以上に残る「物足りなさ」だけ。


(楽しくねえな……)


酒を飲んでも一向に気分は晴れず、会話の弾まない店内に居づらさを感じた恭介は、グラスを空にすると早々に会計を済ませ、逃げるように店を後にした。


◇


カナもまた、現実感のない透明な世界の中を生きていた。


朝起きて、息をして、夜になる。 ただそれだけの作業。楽しいことなんて何一つない。 吐き出す息はため息ばかりで、何を見ても心が動かなかった。


(……もしかしたら)


ほんの少しの期待を捨てきれず、カナは吸い寄せられるように『アンカー』の重いドアを開けた。 恭介さんに会いたい。でも、会ったらなんて言えばいいかも分からない。ただ、彼の気配を感じたかった。


カラン、とドアベルが鳴る。


「いらっしゃい……あ、カナちゃん。あれ? 今日は一人?」


マスターがいつものトーンで声をかけてくる。


「……うん」


絞り出すような、暗く低い返事。 その一言とカナの表情を見た瞬間、マスターは察したように言葉を飲み込んだ。


店内を包む、察しの良い静けさ。


「……ごめんね、マスター」


気まずそうに目を伏せるカナに、マスターは静かにグラスを磨きながら、温かい声で短く返した。


「……まあ、色々あるよ」


出されたグラスの氷が、静かにチリンと音を立てた。 そこに恭介の姿はなく、ただ冷たい酒と、お互いにすれ違ったままの孤独だけが残されていた。

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