パートナー
明るい陽光が差し込むリビング。恭介とカナが「平日夫婦」始めて、互いの存在がある日常はごく自然なものとなった。
しかし、どれだけ生活が馴染もうとも、恭介にはどうしても理解できないカナの「謎の境界線」が存在した。
朝の通勤前など、時間がなくて焦っている時。カナは上は薄いブラジャー姿、下はショートパンツや下着のまま、髪を振り乱してリビングをバタバタと行き来することがたまにある。
すらりと伸びた無駄のない長い脚、キュッと引き締まった細いウエスト、そしてそこから滑らかな曲線を描く豊かな胸元。同性から見ても羨ましがられるほどの抜群のスタイルだ。
リビングでそんな美ボディを無防備に晒されれば、男としてどうしても目が奪われてしまう。恭介が何気にじっと視線を向けていると、カナはハッと動きを止め、両腕で胸元を隠しながらキーッと声を上げるのだ。
「ちょっと! なんでじっと見てるのよ! 見ないでよ!」
「……いや、リビングでその格好で歩いてたら、見るだろ普通」
理不尽な抗議に呆れつつ、恭介は溜息をつく。当のカナはプイッと横を向くと、着替えるために寝室へと向かっていく。
そして数分後。カナに渡すものがあった恭介が、特に何も考えずに寝室のドアをごく普通に開けると——
「ちょっと!! なんで入ってくるのよ!?」
ちょうどTシャツに腕を通そうとしていたカナが、悲鳴に近い声を上げてバンッと凄まじい勢いでドアを押し返してきた。
「さっきリビングでその格好で歩いてただろ……」
「それとこれとは別! 着替えてるときはノックして入ってこないでよ!」
リビングで下着姿のままウロウロするのはセーフで、寝室で着替えている最中に遭遇するのは絶対NG。女心というものの線引きが、恭介にはさっぱり理解できなかった。
また別の日。風呂上がりの恭介が、暑さもあってパンツ一丁の姿でリビングを歩いていると、ソファでスマホを眺めていたカナが露骨に眉をひそめた。
「ちょっと恭介さん、ちゃんと服着てよ」
「は? なんで俺はダメなんだよ。カナだって日常的にそのへん下着でウロウロしてんだろ」
すかさず反論する恭介に対し、カナはソファから立ち上がると、フンと鼻で笑って自信満々に胸を張った。
「恭介さんは、ちょっと太ってるじゃない?」
「は?」
「私は、ほら、スタイルいいでしょ?」
悪びれる様子など微塵もなく、どころか圧倒的な自信に満ちあふれたドヤ顔で言い放つカナ。
「……そ、そうだな」
完全に勝ち誇った顔をしたカナは、ピチピチで胸のロゴが左右に大きく伸び切ったTシャツをこれみよがしに見せつけてくる。
「私って胸もそれなりにあるし、スタイルいいじゃない? ふふん」
「カナって、実際何カップなの?」
「は? なに? 普通聞く? なんかキモいよ……」
自分から煽っておいて「キモい」の一言で切り捨てる理不尽さ。
「まあ、私くらいのスタイルを維持するには、日頃の姿勢と適度な運動が大事なわけ!」
調子に乗ったカナは、さらに腰を反らせて胸を極限まで強調するポーズをとってみせた。——その、次の瞬間だった。
ピキッ。
「……あ」
「……どした?」
「……え、ちょ……腰が……!」
プルプルと震え出し、そのまま「ひゃんっ!?」と情けない声を上げて床に崩れ落ちるカナ。さっきまでの威勢の良さはどこへやら、涙目になって腰を押さえている。
「おいおい、嘘だろ……ギックリ腰か?」
「わかんない……! 痛い、痛いよ……っ!」
恭介は呆れ混じりの溜息をつきながらも、床にしゃがみ込むと、静かにカナの身体の下に腕を通した。お姫様抱っこの要領で持ち上げると、カナは「うぅ……」と声を漏らしながら、恭介の首元にギュッと必死にしみついてきた。あんなに自慢していたスタイル抜群の身体が、今は驚くほど軽く、そして小さく縮こまっている。
「大丈夫か?」
「たぶん、大丈夫……」
「いや、大丈夫じゃねーだろ」
不安そうに眉をひそめるカナを横目に、恭介はスマホで調べた
「ほら見ろ。冷やして安静にしとけってさ。お風呂で温めたり揉んだりすんのも絶対ダメだってよ」
「うぅ……冷やすやつ……持ってきて……」
さっきまでのドヤ顔が嘘のように、布団の中から情けない声でおねだりしてくるカナ。恭介は「はいはい」と苦笑しながら、冷やしタオルとクッションを準備するためにリビングへと向かった。
しかし、本当の仕事はここからだった。カナが完全に動けないということは、今日からの家事・雑用・介護のすべてが恭介の肩にのしかかるということだ。
まずは痛みを和らげるための冷感湿布やゼリー飲料などを確保すべく、ドラッグストアへ急行。帰宅してカナに湿布を貼り、ひと息つく間もなく、今度はカナの「ベッドからの遠隔指示」が始まった。
「ねぇ、洗濯機回してくれた?」
「今やってる」
「あ、洗剤はいつものでお願い。……あ、違う、そっちの棚の青いボトルじゃなくて、奥にあるピンクの方!」
「これか? いや、ピンクなんてない」
「あるって! ちゃんと探してよ! これどうするの? あれはどこ? って、いちいち聞いてこないで自力で探してよー」
「動けないくせに口だけは達者だな……」
指示だけは的確(かつ高圧的)なカナに翻弄されつつ、なんとか最低限の家事をこなした恭介。だが、カナが「やっぱり激痛でトイレに行くのも限界……」と涙目になり始めたため、意を決して近所の整形外科へ連れて行くことにした。
車へ乗り込ませるだけでも一苦労だ。恭介の首に抱きつかせ、ゆっくりと身体を支えながら助手席へ乗せる。
「痛っ……痛い痛い! もっとゆっくり! 振動響く!」
「お前が暴れるからだろ! 」
病院に到着してからも、肩を貸してすり足で診察室へ。レントゲンを撮り、医師から「典型的な急性腰痛症ですね。数日は安静に」と告げられ、ガッチリとした医療用コルセットを装着してもらった。
会計を済ませ、命からがら帰宅。コルセットで腰をガチガチに固定されたカナを再びベッドへ連れて行き、恭介は深々と溜息をついた。
「はぁ……マジで疲れた。……で、晩飯どうする? 雑炊かおかゆでも作ろうか?」
病人だし、胃腸に優しいものが無難だろう。そう思って尋ねた恭介に対し、コルセット姿でベッドに横たわるカナは、即答した。
「ローストビーフ」
「……は?」
「ローストビーフ食べたい。お腹空いた」
腰はガチガチに痛むし一人で歩けもしないくせに、食欲だけは普段の三倍増しで旺盛だった。
「お前、さっきまで死にそうな顔してただろ……
布団から顔だけ出して当然のように要求してくるカナ。恭介は天を仰ぎ、「……はいはい」と再びスーパーへ向かって上着を羽織るのだった。
スーパーで買ってきたローストビーフを美味そうにペロリと平らげ、腹を満たしたカナ。食欲だけは一人前だったが、満腹になってしばらくすると、ふいにモジモジと布団の中で身体を揺らし始めた。
「……ねぇ」
「なに?」
「あのさ……トイレに行きたいんだけど……」
「わかった」
恭介はベッドへ歩み寄り、車に乗せた時と同じようにカナの腕を自分の首に回させ、身体をしっかりと支え上げた。
「痛っ……あ、うん、大丈夫。ゆっくりね……」
腰にがっちり巻かれたコルセットの感触を感じながら、すり足で廊下を渡り、なんとかトイレのドア前までたどり着く。
恭介がそのままドアの前に立ち、腕組みをして待機姿勢に入ると、カナは信じられないものを見るような目で恭介を睨みつけた。
「ちょっと! 離れてよ! モラルでしょ!」
我慢の限界が近いのか、それとも恥ずかしさがピークに達しているのか、カナは真っ赤な顔をしてすごい剣幕で怒鳴ってきた。眉間にシワを寄せ、今にも漏れて泣き出しそうな切羽詰まった表情だ。
「は? 出る時どうするんだよ。また立ち上がれなくなるだろ」
「いいから! はやく! 今すぐ離れて!」
半ばパニック状態でキーキー叫ぶカナ。
「はいはい。リビングまで戻るから、終わったら呼べよ」
恭介が背を向けてリビングへ歩き出すと、背後でガチャリと勢いよく鍵がかかる音が響いた。
数分後。
「……終わったよー……」
トイレの中から、どこか情けない敗北感と限界の漂う声が聞こえてくる。
恭介がドアを開けると、案の定、便座から自力で立ち上がることができず、壁の手すりにしがみついたまま真っ赤な顔で固まっているカナの姿があった。
プライドも何もかも打ち砕かれたカナは、小さく毒づきながらも素直に両手を伸ばしてきた。恭介は苦笑しながらその華奢な体をしっかりと抱き上げ、ゆっくりと寝室のベッドまで運んで横たえさせた。
「お風呂はどうするんだ? 今日は入らなくていいよな?」
「え? 入りたいけど」
「いや、無理だろ。2、3日入らなくても平気だろ」
「ダメダメ! あ、体を拭くやつとかあるじゃない? 買ってきて」
腰をガチガチに固定された状態で何を言っているんだと呆れつつも、カナの必死な目線に負け、恭介は本日何度目になるかわからないドラッグストアへ向かった。
店内の介護・清拭コーナーで、大判の身体拭きシートや、流さない泡タイプの清拭料など、使えそうなものをいくつかカゴに放り込んで帰宅する。
「ほら、買ってきたぞ」
「ありがとう!」
さっそくシートを一枚取り出したカナは、ベッドの上でゴシゴシと自分の腕や首元を拭き始めた。しかし、腰をかばいながらの不自然な体勢のせいで、少し動くだけで顔を歪める。
「いててて……っ、痛い痛い!」
「ったく……拭いてやるよ」
見かねた恭介がシートを奪い取り、カナの背中に回った。服の裾をめくり上げ、無駄のない綺麗な背筋や腰回りを、優しく丁寧に拭いていく。
「ほら、手を上げろ」
「え……」
恭介の言葉に、カナの動きがぴたりと止まった。
「手、上げないと脇の下拭けないだろ」
「……っ」
カナは急にモジモジとしだし、腕を固く閉じたまま動かなくなった。普段なら下着姿で平然とリビングを歩き回るくせに、面と向かって恭介に脇の下を見られることには猛烈な恥ずかしさを感じているらしい。
「こんな時に何やってんだよ」
「う、うん……」
恭介の呆れた声に押し切られるようにして、カナは意を決したようにゆっくりと両腕を上げた。
白く滑らかな脇が露わになり、恭介の目の前に晒される。
「……っ」
カナは恥ずかしさのあまりキュッと目を瞑っている。
「あまり見ないでね……」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「う、うん……」
背中と脇を拭き終え、恭介がシートを新しいものに変えて胸のあたりに手を伸ばすと、カナは恥ずかしいのか胸の膨らみが、荒くなった呼吸に合わせて上下している。
「ブラも外して拭くのか?」
「い、いや、それはいいです……っ!」
さすがにそこまでは耐えられないとばかりに、カナはぶんぶんと首を横に振った。真っ赤な顔で必死に拒否する姿に、恭介もそれ以上は追及しない。
上半身を一通り拭き終えたところで、恭介の動きが止まった。一番の難関が残されている。
恭介も気まずそうに視線を泳がせた。普段なら冗談交じりに自慢のスタイルを叩きつけてくるカナだが、さすがにここはデリケートすぎる問題だ。
「えーと、そのー……大事な部分はどうするんだ……?」
「そ、そこは自分でやるから……!」
カナはシートを取り上げようと手を伸ばすが、腰の激痛で「痛っ……」と身悶えし、満足に手を伸ばすことすらできない。
「無理すんなって。遠慮するなよ、やってやろうか?」
「いいから! 変態!あとは自分でやるから出てってよ!」
真っ赤な顔で涙目になりながらシートをひったくるカナに押され、恭介は両手を挙げて降参してみせた。
「はいはい。じゃあ終わったら呼べよ」
ドアを閉めてリビングに戻り、どっかりとソファに腰を下ろす。
静かになったリビングで、今日一日の怒涛のお世話ラッシュを振り返りながら息を吐いていると、すぐに寝室から聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。
「……あたたた……っ、痛い! いてててて……っ!」
腰に激痛が走っているのだろう。必死に自力でなんとかしようと格闘しているカナの、悲鳴に近い声が次々と響いてくる。
恭介はソファーから立ち上がると、寝室のドアに向かって声をかけた。
「おい、大丈夫かー? 助けてやろうかー?」
「だいじょ……痛っ! 全然大丈夫じゃないけど、入ってこないでっ!」
必死すぎるカナの叫び声に、恭介の苦笑いはしばらく止まりそうになかった。
ギックリ腰の激痛は簡単に引くはずもなく、カナは会社を数日休むことになる。
翌朝。出勤の準備を終えた恭介は、寝室から恐る恐る出てきたカナの姿を見て、思わず吹き出しそうになった。
「一人で大丈夫か?」
「うん……ゆっくり動けば、大丈夫……」
そう言いながら進むカナの動きが、あまりにも怪しすぎた。
がっちりと腰に巻かれたコルセットのせいで上半身は棒立ちのまま固まり、足元はすり足。まるで生まれたての小鹿か、あるいは配線が壊れたロボットのようなぎこちなさで、一歩一歩慎重にリビングを移動している。「私スタイルいいでしょ?」という自信満々な歩調はどこへやら、完全な怪しい不審者スタイルだ。
「なんだよ、その動き」
「仕方ないでしょ! 動くと激痛が走るんだから!」
笑いを噛み殺せない恭介に、カナは棒立ちのまま顔だけを向けてキーッと怒鳴る。しかし、怒る動作すら腰に響くのか、すぐに「イタタ……」と顔を歪めて大人しくなった。
「たく……無理すんなよ。何かあれば電話して」
「わかったー。いってらっしゃーい」
ベッドにたどり着き、ロボットのような動きでそろりと布団に潜り込んだカナ。顔だけを覗かせて小さく手を振るその姿に、恭介は苦笑いしながら玄関のドアを開けたのだった。
仕事が終わり玄関のドアを開けると、奥から「おかえりー……いててて」と声が聞こえてきた。
見れば、昨日と同じくロボットのようなカクカクとした動きでカナがリビングを歩いている。とはいえ、幾分マシなようだ。痛みに耐えつつも、少しずつなら歩けるようになっているらしい。
買ってきた晩飯を二人で手早く済ませた後、カナが少し躊躇いがちな表情で恭介を見上げてきた。
「ねぇ……シャワーしたいんだけど……」
「ひとりじゃ無理だろ」
「うん……」
申し訳なさそうに視線を落とすカナ。手伝えということだろう。恭介は「はいはい」と腹を括り、脱衣場へ向かった。
「……暗くして!」
服を脱がせようとした瞬間、カナが必死の顔で訴えてきた。
恭介は苦笑しながら脱衣場の電気を消し、廊下のぼんやりとした明かりだけを頼りにカナの服を脱がせていく。薄暗闇の中でも、首元まで真っ赤になっているのがよく分かった。
お風呂場の電気も消したまま、脱衣場のほのかな明かりだけでカナをお風呂へ連れ込む。プラスチックの椅子にゆっくりと座らせ、シャワーの温度を確かめてから、髪を流して泡立ててやる。
「次はそれ、違うよ! 次は黒いやつ。顔はそれじゃないよ!」
「はいはい」
口だけは相変わらず達者だ。矢継ぎ早に指示を出してくる。恭介は指示通りにシャンプーやトリートメントを手に取る。
続いて体を洗ってやる。泡立てたタオルで肩から胸元、背中へと滑らせていくと、不意にカナが身体を強張らせた。
「ちょっと! 触ってない!?」
「は? じゃあ、自分で洗えよ……ったく」
「あ、いや……ごめん……」
自力で洗えない後ろめたさがあるのか、恭介が本気で呆れた声を出すと、カナは珍しく素直に縮こまった。
全身をきれいに洗い流し、お風呂から上がってタオルで全身を拭いてやる。
なんとか脱衣場まで連れ出したが、ここからがまた一苦労だった。
腰が曲がらないカナは、自分で下着を履くことすらできないのだ。
「動くなよ」
背中側に回り、ブラジャーのホックを引っ掛けて止めてやる。
「女がよくやるように寄せてやろうか?」
「キモっ」
続いて、指先でつまめるような布面積の小さなパンツを、カナの足元から通そうとした。
「ちょっと!逆だよ! 逆!」
「うるせーな、どっちでもいいだろ」
前後を間違えた恭介にキーキー文句を言うカナ。
パンツを引き上げてやりながらチラリと顔を覗き込むと、カナは耳の裏まで真っ赤にして、恥ずかしさからギュッと唇を噛みしめていた。
今は身体の自由すら効かず、俺にすがりつくしかない。そんなギャップだらけの無防備な姿が、なんだか妙に可愛く見えてしまった。照れ隠しでキーキーと強がる声すらも、今はただの可愛らしい威嚇にしか聞こえない。
腰が治ったらまたいつものカナに戻るのだろうが、この「俺がいないと何一つできないカナ」をもう少しだけお世話してやるのも悪くないなと、柄にもなく思ってしまうのだった。




