見え隠れするルール
一線を越えたからといって、世界が劇的に変わるわけではなかった。
週末になれば、俺は相変わらずあの薄暗い「アンカー」のカウンターに座り、知り合いたちとくだらない話で盛り上がっている。
ドアが開いてカナが滑り込んでくるのもいつも通り。周りの常連たちを交えて、何事もなかったかのようにバカ話をして酒を飲む。客観的に見れば、俺たちの関係は以前と何一つ変わっていないように見えたはずだ。
だが、勘のいい奴らはどこかで何かを感じ取るらしい。
ある夜、カウンターで近くの友達と話していると、そいつがニヤニヤしながら小声で聞いてきた。
「お前ら、本当は付き合ってるんだろ?」
俺が応える前に、隣にいたカナがすかさず、いつもの抜群の愛嬌を含んだ笑顔で答えた。
「仲のいい友達ですよ!」
そのあっけらかんとした、あまりにも迷いのない否定の仕方に、俺は内心で(まあ、人妻だからそういう答えになるよな)と冷静に納得していた。
実際、俺自身も彼女と付き合っているのかと言われれば、よくわからない関係だった。お互いに家庭がある身だ。大人の割り切った遊びと言えばそれまでだし、深入りすることもない。
店を出て、いつものように並んで夜道を歩いて帰る。
ただ、その道中にも少しずつ変化は紛れ込んでいた。歩いている途中で、前方から知り合いらしき人影が見えると、カナは咄嗟に俺から数歩分の距離を取って離れる。その警戒心のリアルさに、俺は彼女の背負っているリスクの重さを実感させられた。
だが、俺もそこで慌てたりはしない。彼女の事情は理解できるから、俺は何事もなかったかのように他人のふりをして、一人で夜道をスタスタと歩いていく。
人影が通り過ぎて、安全だと分かると、またどちらからともなく距離が縮まり、並んで歩き出す。
そんなスリリングな駆け引きを交えながら、彼女のマンションの近くまで送り届けるのが常になっていた。
関係を持ってから明らかに変わったのは、送り届けた最後の瞬間だった。
「じゃあね、恭介さん。おやすみ」
そう言って、カナがごく自然に、軽いキスをしてくるようになった。
街灯の影に隠れるようにして交わされる、短いおやすみのキス。それは、ただの飲み友達の境界線を完全に踏み越えた、二人の秘密の合図だった。
時折、彼女が夜遅くまで飲みに出ていることに対して、男としての心配が頭をよぎることもあった。
家庭は大丈夫なんだろうか。家のことはちゃんとやってるのか?
だが、次の瞬間には(所詮は他人の家庭のことだ。俺が口を出すことじゃない)と、チャラい大人のスタンスでその感情を綺麗に押し殺していた。
そのうち、夜遅くの店だけでなく、一緒に夕食を食べに行く機会も目に見えて増えていった。
ある日、食事を終えていい感じに上機嫌になったカナが、いつもの悪戯っぽい笑顔で俺の顔を覗き込んできた。
「ねえ、今日もまたホテル行く?」
あまりにも軽い、相変わらず「もう一軒行く?」くらいのテンションだった。
男として、当然行きたい。断る理由なんてないはずだった。だが、その時の俺の脳裏に、男としてのプライドがブレーキをかけた。
(待てよ。このままカナの軽いノリに毎回ホイホイ付いていってたら、俺もただの『安い男』になっていないか?)
俺は確かにチャラい男だし、来る者を拒まないスタンスではある。だが、誰にでも簡単に身体を開くような、安っぽい男とは違う。そこには明確な一線がある。
俺は冗談交じりのトーンを装いながら、牽制も含めてカナに言葉を返した。
「あのさ、俺は友達とそんな簡単に何度もやるような安い男じゃないよ?」
少し意地悪に、釘を刺すつもりで言ったのだ。カナは一瞬、どうしていいか分からないような困った顔をした。誘いを断られたのが予想外だったようだ。その表情を見ながら、俺は内心でマウントを取ったような気分に浸っていた。
しかし、次の瞬間、カナの口から出た言葉は、俺の想定の枠を完全に飛び越えていた。
「……付き合ってください」
カナは真っ直ぐに俺を見つめて、そう言った。
(え、ちょっと待て。二人とも既婚者だろ!)
心の中で激しいツッコミが走った。お互いに家に帰れば配偶者がいて、子供がいる身だ。そんなまともな大人の理性が頭を過ったが、目の前のカナの瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
「本当に言ってる?今ホテルに行きたいから言ってるだけ?」
俺が少し真面目なトーンで、彼女を確かめるように聞き返す。
すると、カナは小さく首を横に振った。
「付き合いたいから」
その、言葉を飾らない真っ直ぐな返事には、さっきまでの軽いノリは一切消えていた。
既婚者同士の「お付き合い」。冷静に考えれば泥沼の始まりかもしれないが、ここでいまさら格好をつけて振るほどの純情さは、俺には持ち合わせていなかった。不倫なんて過去に経験済みだ。今更その倫理観に怯むようなタマじゃない。
「わかった。そうしよう。」
俺はいつもの軽い気持ちで、その言葉を受け入れた。
あの「すぐ関係を持てる安い女」が、今日から俺の彼女というポジションに収まった。本当に安い女なのかどうかは分からないが、当時の俺は、どこか冷めた目でそう思っていた。
それからは、恋人同士としての夜が始まった。
何度も夜を一緒に過ごし、時にはホテルで一緒に朝まで寝ることもあった。
だが、彼女は完全な自由の身ではない。朝、旦那が起きる前の静まり返った時間を見計らって、カナはそっとベッドを抜け出し、自分の家へと帰っていった。起きたとき、まだほんのりと彼女の体温が残るシーツの中で、俺は一人、大人の隠し事のヒリつくような余韻を味わっていた。
その頃になると、二人の関係は周囲にもいよいよ隠しきれなくなっていた。
カナはいつも通り否定するが周りはニヤついている。
特に、いつもの「アンカー」のマスターは、俺たち二人がそれぞれ既婚者であることを知っている。
だから表向きは「ただの仲のいい友達」というていで通してはいたが、マスターの目には全てがお見通しだった。
それでも、大人の街のマスターは野暮な追及なんて一切してこない。黙って、その関係をその場のルールとして受け入れていた。
週末、俺がいつものようにカウンターで1人でグラスを傾けているときのことだ。カナの姿はまだ店内にない。
マスターがふと、俺の手元に視線を落としながら、他人に聞こえないような低い声で一言だけ短く聞いてきた。
「来るの?」
名前すら言わない。だが、それが誰のことなのかは、わざわざ口にするまでもない周知の事実だった。
俺が無言で小さく頷くと、マスターは何も言わずに、俺のすぐ隣に、もう1つ真新しいコースターをポンと置いた。
そこが、これから遅れてやってくる彼女が座る指定席。
周りの雑音に紛れながら、俺たちの歪で、けれど確かに心地よい関係は、その薄暗いカウンターの上で静かに、深く根を張っていった。




