狂気のウォーミングアップ
二人でまったりと晩酌を始めた時のことだった。
カナは、恭介の隣にぴったりとくっつき、テレビを見ながらビールを飲んでいる。
「あー、やっぱりこのおつまみ美味しい! 恭介さん、はい、あーん」
「自分で食えるって……」
平和そのものの時間。恭介もすっかり気を抜いていた。
その時だった。
ブブッ……
短い振動とともに、スマートフォンの画面がフッと明るくなった。 チラッと目をやると、ロック画面に浮かんでいたのは『美里』という文字。
(……チッ、今じゃないぞ……!)
一瞬で、恭介の背筋に冷たい汗が吹き出した。 心の中で舌打ちしながら、あえて無視して素知らぬ顔でビール缶に手を伸ばそうとする。だが、その一瞬の視線の動きをカナは見逃さなかった。
「LINE来てるよ?」
カナがテレビから目を離さず、何気ないトーンで言ってくる。
「あぁ、わかってる」
「見ないの?」
「ん? うん」
「え、なんで?」
以前もこういうやりとりがあった。でも、今回は「美里」だとわかってる。なんとしても回避しないといけない。絶対にだ。
恭介の生返事と、あからさまにスマホを無視しようとする仕草。 そのわずかな違和感に、カナの女の勘がビビッと反応した。空気が微かに変わる。カナの目が恭介の顔を捉えた。
「どうせくだらない話だろ」
恭介は努めて平然を装い、一口ビールを口に含む。だが、カナの追求は止まらない。
「いやいや、見ればいいじゃん? 私がいるから見れないの?」
「そんなことねーよ」
「じゃあ見なよ」
以前と同じやりとりだ。カナはテーブルの上に手を伸ばすと、恭介のすぐ近くにあったスマホをサッと持ち上げた。そして、画面をこちらに向けたまま恭介に差し出してくる。
(まずいぞ!!!!)
背中に嫌な汗が噴き出す。
「ほら、早く見なよ」
「いいんだって」
恭介が受け取ろうとしないのを見て、カナの表情から一気に甘さが消えた。
「美里からLINE来てるよ? いいの?」
「美里」という名前を口にした瞬間、カナの目がすっと細められた。「いいから置いとけよ」
「あ? 見ろよ」
カナはドスの利いた声で、完全に喧嘩腰に言い放ってきた。さっきまでの可愛らしい彼女の面影は微塵もない。
「……そんな言い方やめろよ。可愛くないぞ」
「は? 可愛くない? 今そんな話してないよね?おかしくない? どう考えても変だよね?」
(……その通りだ。どう考えても変だ)
自分でも言い逃れができないくらい不自然な対応をしてしまった自覚がある。
「どうせ仕事の話だろ。今はオフなんだから」
恭介はあえて面倒くさそうに吐き捨て、スマホから目を逸らした。だが、そこからカナの脳内被害妄想ネットワークが破滅的なスピードで暴走し始めた。
「……おかしいよね? 新しい彼女?」
「は?」
「私がここにいるのに? 二股? 彼女作ったの? ねぇ、どういう神経してるの?」
「いや待て、話が跳躍しすぎ——」
「こういう男って本当にいるんだ……? すごい度胸してるね!?」
カナの顔から完全に笑顔が消え、目が血走り始める。まだメッセージの本文すら見ていないのに、彼女の頭の中ではすでに「浮気確定のドロドロ劇」が完結しかけていた。
「どうせ恭介さん好みのおっぱいの大きい人でしょ? 私より可愛いんだね! 良かったじゃん!!」
「声が大きいって! 誰の話だよ!」
「これで私はもう用無しになるんだね……! すごいね、本当にすごいよ! 私をポイ捨てして新しい女とイチャイチャするんだ!?」
(どんな飛躍だよ…まだLINEの通知が一回鳴っただけだぞ…)
心の中でツッコミを入れる恭介だったが、笑っている余裕は1ミリもなかった。 カナはぎゅっと拳を握り締めると、怒りで震える自分の膝を、トントンと猛烈なリズムで叩き始めた。完全に戦闘体制のファイティングポーズだ。
「……ただで済むと思ってないよね? どうするの? 私をバカにして、ただで済むと思ってるの……!?」
ヤバい。このままでは見てもいないLINEのせいで殺される。
「美里も呼んで一緒に飲む?私が連絡してあげようか?」
「……バカなこと言うなよ」
「なんで? 恭介さんの彼女でしょ? 私、挨拶したいなぁ。『こんにちはー! 恭介さんの元カノのカナでーす! 今から三人で飲みません?』ってさぁ!」
恭介は冷や汗をだらだら流しながら、慌ててカナの手からスマホを奪い取った。
「いや、今から見るから! 落ち着けよ!」
「落ち着け!? 落ち着けるわけないでしょ!!」
カナの咆哮が部屋に響き渡る。 狂気がウォーミングアップを完了し、スタートの合図を今か今かと待っている状態だ。一刻の猶予もない。
恭介はハァと面倒くさそうに息を吐きながら、極めて冷静にスマホを開く。 心の中では冷や汗で溺れそうだ。
(美里頼むぞっ……!)
画面ロックが解除され、トーク画面が開く。 隣からカナが、肉食獣のような眼光で画面に顔を押し付けてきた。
【明日の早い時間ってどう?】
(くっ! まずいぞ!)
その瞬間、隣にいるカナの首が、ギギギ……と効果音が聞こえそうなスローモーションで恭介の方を向いた。
カナの顔からすべての感情が消え去り、完全な「無」と化している。
「……ねぇ」
低く、温度のない声。
「……なにこれ?」
恭介は脳をフルスロットルで回転させる。
オーバーヒートを起こすほど回転させ、この極限状態から生きて帰るための最適なカードを探し当てろ!
恭介の脳内に微かに見えた一筋の光を、必死で鷲掴みにする。
「あぁ、明日の打ち合わせだよ」
声を震わせないように極めて自然に発声する。
「打ち合わせ? なに?」
「いや、時間が決まってなかったから」
「……すごいフレンドリーじゃない?業務連絡なら『お疲れ様です』とかつけるでしょ?」
「まぁ、向こうの会社の部長だからな。立場的に向こうが上だし」
恭介はカナの目の前で堂々とスマホを操作し始めた。
『明日確認して、また連絡します。』
完全に「業務連絡」としか思えない、事務的な返信を打ち込み、送信ボタンを押す。
(……これで、どうだ……?)
たぶん、乗り切れたはずだ。 恭介はスマホをテーブルに置き、カナの顔を見て、無理やり微笑むように口角を上げた。
「……なんだ、仕事の話か」
カナはフッと肩の力を抜くと、ビール缶を手に取った。
「だから、言っただろ」
「美里と浮気してるのかと思ったわ」
「そんなわけないだろ」
「浮気しないでよ?もし浮気してたら首絞めてたよ、へへへ」
そう言って笑うカナの目は、まったく笑っていなかった。 恭介は愛想笑いを浮かべながら、手元のグラスを持つ指が震えないように必死に力を込めるのだった。
「くだらないことばかり考えるなよ」
「怪しいからさ」
カナは嫌な微笑みでこちらを見てくる。やめろ。さっさと話題を切り替えなければ。
「カナだって仕事関係の男とLINEすることあるだろ?」
「まぁ、あるけど。何? 疑ってるの!?」
カナが完全に攻守逆転され、必死に弁明してくる。あえてプレッシャーをかける。
「いや、疑ってないよ。俺はいつだってカナのことを信じてるからな」
その言葉を聞いた瞬間、カナの顔に「当然よ」と言わんばかりの誇らしげな笑みが戻った。
(そう、いつかのカナの浮気——)
恭介の脳裏に、過去の苦い記憶がよぎる。 もし次、同じようなことが起きれば、それは確実に破滅を意味する。しかも、完全にカナ側の落ち度による破滅だ。
思考回路がバグりがちなカナとはいえ、さすがにそこまで危険な賭けに出るはずがない。
すっかり機嫌が良くなったのか、それともテンションが上がりすぎたのか、カナは突然恭介の肩にガブッと噛みついてきた。
「痛い痛い、興奮するなよ!」
肩を押さえながら抗議する恭介を見て、カナは「へへっ」と満足そうに悪戯っぽい笑みを浮かべた。さっきまで「元カノですけどー!?」と叫び、狂気で膝をトントン叩いていた人物と同一人物とは到底思えない、あまりのテンションの乱高下ぶりだ。
痛む肩をさすりながら、恭介は空気をガラリと変えるために提案した。
「飲みに出るか」
「うん、いこう!」
カナは二つ返事で頷き、上機嫌で出かける準備を始めた。
部屋を出て、いつもの「アンカー」へと向かう。道中の街並みはいつもと何も変わらない風景だ。さっきまでの部屋での修羅場が嘘のように、夜の風が心地いい。
店のドアを開けると、カウベルが軽やかな音を立てた。 テーブル席にいた顔なじみの常連と目が合い、「おっす」と軽く手で合図を交わす。恭介とカナは、空いていたカウンター席へ並んで腰を下ろした。
その隣には、見覚えのない男女が座っていた。 ふと目が合い、お互いに軽く会釈を交わす。落ち着いた雰囲気からして、夫婦だろうか。
男の方が、穏やかな笑顔で話しかけてきた。
「地元の方ですか?」
「はい、そうです」
恭介は答える。(観光客か……?)
「観光ですか?」
「そうなんです。いい街ですね。この店もすごく雰囲気がいい」
「そうですかねー? 地元なんでよくわからないですけど」
恭介が謙遜気味に返す。
「ご夫婦ですか?」
「そうなんです。2人だけで旅行なんて久しぶりでして」
「仲良くていいですね」
恭介がそう言葉を返した、その瞬間だった。
(……は!? この二人、本当に夫婦か……?)
恭介の脳裏に、かつてカナと行った旅行の記憶がフラッシュバックした。 旅先になると、当たり前のような顔をして「夫婦」になりきるカナ。もしかして、隣のこの二人も俺たちと同じような関係なんじゃないか……? 余計な勘繰りが頭をよぎる。
「いえいえ、喧嘩ばかりで。そちらもご夫婦で飲みにくるなんて、すごく仲良しじゃないですか」
男が謙遜して笑った、まさにその直後だった。
カナが間髪いれずに入ってきた。
「はい! そうなんです!」
満面の笑みで、何の迷いもなく「夫婦」と言い切るカナ。
その瞬間、カウンターの奥にいたマスターが、カクテルグラスを拭く手を止め、目を丸くしてニヤついているのが視界に入った。
「ちょっとトイレ」
恭介は席を立ち、奥のトイレへと向かった。 用を足して外に出てカウンターの方を見ると、カナが隣の観光客夫婦とすっかり打ち解け、楽しそうに笑い合いながら話している姿が見えた。
(……すっかり盛り上がってんな)
苦笑いしながら席へ戻ろうとした、その時だった。 グラスを洗っていたマスターが、すれ違いざまに恭介に向かってぼそっと声をかけてきた。
「旦那さんか……ははは」
マスターは目尻にシワを寄せて、ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべている。
(ん?)
一瞬、意味が分からず首をかしげながら自分のカウンター席に腰を下ろした。 すると隣から、カナの弾んだ声が聞こえてきた。
「あー、わかります! うちの旦那も同じですよ〜!」
楽しそうに旦那の愚痴を夫婦に語っているカナ。
(あぁ、マスター……そういうことか……)
恭介は察し、マスターの方をチラッと見て苦笑いを浮かべた。
当のカナは、恭介が戻ってきたことにも気づかない勢いで、すっかり「仲良し夫婦の妻」になりきってトークを爆発させている。
盛り上がった会話が一段落し、楽しそうに笑っていた夫婦が「良い夜を」と言い残して店を出て行った。
パタンと扉が閉まり、静けさが戻ったカウンター。 恭介は手元のグラスを軽く回しながら、隣で満足そうにお酒を口に運ぶカナへ、呆れたような、けれどどこか柔らかい視線を向けた。
「おい、なんで妻のポジションで喋ってるんだよ」
「いいじゃないの。観光で来てる人なんだし。困ることでもあるの?」
カナは悪びれる様子もなく、首をちょこんと傾げて恭介の顔を覗き込んできた。その瞳には、自分の悪戯が成功したときのような、無邪気で茶目っ気のある光が宿っている。
「おかしいだろ。ねぇ、マスター?」
一人では拉致があかないと悟り、恭介は困り顔でカウンターの向こうへ助け船を求めた。 グラスを磨いていたマスターは手を止めると、二人を温かい目で見守りながら、ふっと目元を和らげた。
「ふふふ、いいんじゃないですか? 夫婦みたいなもんだし。ははは」
「ほらね! さすがマスター! わかってる!」
マスターのお墨付きをもらった瞬間、カナの顔がパッと華やいだ。 まるで欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のように、心底嬉しそうに声を弾ませ、恭介の腕にぎゅっと抱きついてくる。
「ちょっ、マスターまで……おいおい」
恭介は困惑したように頭をかき、マスターに対して苦笑いを返した。
腕に伝わるカナの体温と、隣で「夫婦」と呼ばれて今にも溢れ出しそうなほど嬉しそうに笑っている表情を間近で見つめているうちに、恭介の胸の奥がじんわりと温かくなっていった。
さっきまでの修羅場や、日常のバタバタが嘘のように、愛おしい感情が静かに満ちていく。
(……嬉しそうなカナを見てると、夫婦ってのも、悪くないな)
恭介は心の底からそう思い、カナに見えないよう、小さく噛みしめるように微笑んだ。そして、マスターと軽く目を合わせると、静かに自分のグラスを傾けるのだった。




