奥様は美女
不倫カップルの何気ない日常の一コマ。ドロドロした愛憎劇もなく普通のカップルとして生きていく二人の話。
休日の昼下がり。 郊外にできたばかりの、都会では有名な大型スーパーへ二人で車を走らせた。
オープンしたてということもあり、広い駐車場は車で埋め尽くされている。
店内に入ると、普通の近所のスーパーでは見かけないような輸入食材や、スタイリッシュな陳列棚がずらりと並んでいた。
「わぁ……すごーい! 恭介さん見て、これ見たことない!」
カートを押す恭介のことなどすっかり置き去りにして、カナはあっちの棚、こっちのコーナーへと目を輝かせながら飛んでいく。まるでテーマパークに来た子供のようなテンションの上がりようだ。
恭介は苦笑いしながら、マイペースに店内を巡るカナの後ろをのんびりついて行った。
しばらくして、珍しいチーズや生ハムが並ぶ加工肉のコーナーに通りかかった時のことだ。
ガラスケースの中に、見たこともないような鮮やかな燻製と、ハーブがぎっしり詰まった自家製パテを見つけた。ワインにもウイスキーにも合いそうな、間違いなく美味いと直感する見た目をしている。恭介が足を止め、じーっとそれを見つめていると、試食を用意していた店員のおばさんが笑顔で声をかけてきた。
「お兄さん、それ気になります? これね、スペイン産の上質な素材を使ってて、うちのショップ限定で仕入れてるんですよ。お酒のアテにはもう最高なんです」
恭介が興味深そうに説明を聞いていると、人混みの向こうからカナがすーっと寄ってきた。恭介の腕に自然な動作でちょこんと手を添える。
「あら、奥さんもどうですか?」
店員のおばさんがカナを見て微笑むと、カナは間髪入れずに、何食わぬ顔で答えた。
「はい!」
満面の笑みと、完璧な即答。 「彼女です」なんて訂正する気は1ミリもない、いつものカナの得意技だ。店員さんの言葉をまるごと自分のものにして、すっかり「仲良し夫婦」の顔を作っている。
カナはガラスケースの中を覗き込み、弾んだ声で恭介を見上げた。
「美味しそう! あなた、これ買っていきましょうよ!」
(……あなた?)
恭介は一瞬、自分の耳を疑った。 俺のこと「あなた」って言ったのか? 普段一度もそんな呼び方をしたことがないのに、完全に妻の顔だ。
「奥さん」と認識されたことがよほど嬉しかったのか、カナの目にはそのおつまみがいつも以上に魅力的に映っているようだった。
「……そうだな。じゃあ、これ一つください」
恭介が苦笑いしながら注文すると、加工肉コーナーのレジを担当していたおばさんが、商品を包みながら嬉しそうに目を細めた。
「はいよ。それにしても、可愛い奥さんですねぇ。」
すると恭介は、ごく当たり前の社交辞令として口を出した。
「いえいえ、そんなことないですよ」
その瞬間、隣にいたカナの視線がギロリと恭介を捉えた。一瞬だが、明らかに目が笑っていない。
おばさんから商品を受け取ってその場を離れると、案の定カナがぷんぷんと怒りを露わにして詰め寄ってきた。
「ちょっと! 『そんなことないですよ』って言う!?」
「はぁ?」
「『そうなんです! 美人なんです!』とか言ってよ! 何? 私のことブスだと思ってるの!?」
理不尽すぎる言い分に、恭介は心底呆れた顔でツッコミを入れた。
「はぁ? 普通は他人に身内褒められたら、謙遜して『そんなことないです』って言うだろ!」
「言わない! 次は『はい! 可愛いでしょ!』って言ってよね!!」
自分の扱いに納得がいかず、ぷくっと頬を膨らませて抗議してくるカナ。さっきまで「あなた」なんてお淑やかな妻を演じていた姿はどこへやら、いつものカナ全開だった。
おつまみを買い終え、大型スーパーに併設されている靴屋の前を通りかかった時のことだ。
店頭には、普段使いに良さそうなスタイリッシュなスニーカーがずらりと並んでいる。
「あ、恭介さん! この靴かっこいい! 恭介さんに似合いそう!」
カナが足を止め、メンズスニーカーを手に取った。 さっきの「奥さん」呼びで調子に乗っているカナは、すっかり「夫の服や靴をコーディネートする理想の妻」モードに入っている。
そこへ、笑顔の店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ。そちら、今季の人気モデルなんですよ。……あ、ご主人様のお買い物ですか?」
「はい! 主人にどうかなと思って!」
カナは待ってましたと言わんばかりに満面の笑みで即答した。「ご主人様」という響きに酔いしれ、胸を張っている。
店員は感心したように頷き、在庫を確認するために尋ねた。
「旦那様の足のサイズはおいくつですか? すぐにお出ししますよ」
「あ……」
その瞬間、カナの動きがピタッと止まった。
(……え?)
カナの顔からさっきまでの余裕が消え去り、目が泳ぎ始める。
「えっと……旦那さんの……サイズ……」
「はい、靴のサイズです」
店員は爽やかな笑顔でカナの回答を待っている。 「妻」を気取るなら、夫の服や靴のサイズくらい即答できて当たり前。だが、同居しているとはいえ、さすがに恭介のスニーカーの正確なサイズ(何センチか)までは把握していなかったのだ。
カナは戸惑いながら、隣に立つ恭介の足をじーっと見つめ、脳内で必死に計算を始めた。
「えーっと……大きめだから……に、にじゅう……なな……? いや、はち……?」
小声でブツブツと呟きながら、助けを求めるような、すがるような目で恭介を見上げてくる。さっきまでのドヤ顔はどこへやら、完全にテンパっている。
「奥さん」になりきっていたはずが、ガチの質問を突きつけられて自滅しているカナの姿に、恭介はニヤついていた。
「……27です」
恭介が助け船を出すように横から静かに答えると、店員は「27ですね、かしこまりました!」と奥のバックヤードへ走っていった。
さっきまであれだけ嬉しそうに「あなた」「はい!」と夫婦を演じていたのに、急にしおらしくなって恭介の後ろに隠れるカナ。
試着を終えて靴屋を離れた途端、カナが不満を漏らした。
「あの店員さん意地悪だね」
「いや、普通だろ」
恭介が即座にツッコミを入れると、カナは不服そうに声を上げた。
「『旦那様のサイズは?』なんて、急にそんなコアな質問してくるなんて聞いてないよ! 絶対私が答えられないの分かってて聞いてきたんだよ!」
「んなわけねぇだろ。靴屋が客の足のサイズ聞くのは一番普通の接客だろ」
買い出しを終えて車内でカナに何気なく聞いてみた
「そういえばさ、カナは俺の好みの女性って知ってる?」
恭介が何気なく投げかけると、カナは「ふふん」と鼻で鳴らし、誇らしげに胸を張った。
「もちろんよ!」
「ほう、どんな感じの人?」
試すように尋ねる恭介に、カナは一切の迷いなく、指を折りながら胸をはって答えた。
「ショートカットで、スラっとしてて、ちょっとだけおっぱいが大きい人でしょ?」
(……自分のことじゃないか)
見事に自分自身のスペックを並べ立ててドヤ顔を決めるカナに、恭介は呆れ半分、可笑しさ半分で苦笑いを漏らした。カナの中では「恭介さんの好み=自分」という絶対的な方程式が完成しているらしい。
だが、恭介は淡々と、本当のところを口にした。
「いや、俺は別に太ってても大丈夫だけどな。ふくよかなのも優しそうでいいと思う」
「……え?」
カナのピタッと動きが止まった。
「ふくよか……? 恭介さん、細い子が好きなんじゃないの……?」
「別に痩せてなきゃダメなんて言ったことないだろ」
カナは、周りをキョロキョロと見回すと、女性をこっそり指差し、探るような目で恭介を見上げた。
「じゃ、じゃあ……あそこにいる人は? 恭介さん的にアリなの……?」
カナが指刺した先には、決してガリガリではなく、全体的にかなりふくよかで丸みのある女性が立っていた。
恭介はその女性をチラッと見ると、包み隠さず本音を答えた。
「全然大丈夫だけど? 愛嬌あって綺麗な人だと思うよ」
「……っ!?」
カナはこれまで、自分のスタイルや体型を維持するために努力を重ねてきた。それは自分のためでもあり恭介のためでもあった。「ぽっちゃりでも全然アリ」という事実を突きつけられたのだ。
いや、カナの脳内では恭介はぽっちゃりが好きと変換されている。脳内で混乱が起きているのが目に見えるようだ。
「私……もう少し太った方がいいの……? それとも……え、どういうこと……!?」
恭介は呆れ半分で声をかけた。
「……そのままでいいんじゃないか?」
「でも! ぽっちゃりした女性が好きなんでしょ!?」
「ぽっちゃりした女性が好きとは言ってないだろ」
「え、じゃあ何……? 恭介さんって、俗に言う『デブ専』っていうこと……!?」
真顔でとんでもない極論をぶち込んできたカナに、恭介は思わずずっこけそうになった。
「いや、違うだろ。なんでそうなるんだよ」
「だって……! ふくよかな人を見て『綺麗な人だ』って言ったじゃない! 私が頑張って体型維持してるのに、本当はもっと肉が付いてる方が好みだったの……? 私、もう少し太ったほうがいいのかな……」
恭介は心の中で(めんどくせぇ……)と呟きつつ、溜息混じりに言い聞かせた。
「いやいや、そのままでいいんだよ」
「本当に……? 気を使わなくていいんだよ……? 体重増やした方がいいのかな……」
健気なんだかズレているんだかわからない発言をしながら、不安そうに恭介を見ていたカナだったが――次の瞬間、何か恐ろしいことに気づいたように「はっ」と目を見開いた。
カナの顔から一気に血の気が引いていく。
「……待って」
「あ?」
「恭介さんがデブ専ってことは……私と付き合ってるってことは……」
カナは震える指先で自分のお腹あたりを触り、絶望に満ちた目で恭介を凝視した。
「恭介さん……私のことデブだと思ってる……!?」
(……はぁ??)
あまりにも突飛すぎる飛躍に、恭介は本気で開いた口がふさがらなくなった。
「なんでそうなるんだよ。どこをどう解釈したら俺がカナのことデブだと思ってる話になるんだよ!」
「だって! デブ専の恭介さんが私と一緒にいるんだよ!? ってことは、私のこの体型を『ぽっちゃり』とか『デブ』だと思って満足してるってことでしょ!? 私、自分ではスタイル維持してるつもりだったのに……実は恭介さんから見たらストライクゾーンのぽっちゃり体型だったってこと……!?」
「ちげーよ! 俺はそもそもデブ専じゃないし、カナはデブどころか細いくらいだろ!」
「嘘だ。ショック……! 影で『俺の彼女、いい感じに太ってて最高』とか思ってたんでしょ!?」
「思ってるわけねぇだろ!!」
恭介は盛大に頭を抱えながら、「お前はスタイルが良い」「デブじゃない」「そもそも俺はデブ専じゃない」という当たり前すぎる事実を、パニック状態の「奥さん」に一から説明する羽目になるのだった。
買い出しを終えて部屋に戻ると、二人で買い込んできた食材やおつまみをテーブルに並べ、片付けを始めた。
「あー楽しかった! 今日はいっぱい買い込んだねぇ」
さっきまで車の中で「デブ専」だの「私ってデブ!?」だのと大パニックを起こしていたのが嘘のように、カナはすっかりご機嫌を取り戻している。本当に忙しい思考回路だ。
恭介はレジ袋からどんどん商品を取り出して冷蔵庫へしまっていく。
買ったばかりのメンズTシャツの袋を手に、寝室のタンスの前へ向かった。カナはリビングで食品の整理をしている。
恭介はタンスの引き出しを一段、掴んで引いた。
スゥッ。
「おっと」
引き出しの中を見て、恭介は思わず声を漏らした。 そこは彼の段ではなく、カナの肌着の段だった。色とりどりの、レースやシルク素材のカナの下着が、それはそれは綺麗に、整然と並べられていた。
グラデーションのように並べられた下着の山を見て、恭介は一瞬、言葉を失った。
下着の趣味が意外に派手で攻めていることへの驚きもあったが、それ以上に、カナがこれほどまでに几帳面かつ綺麗に自分のものを整理整頓しているという事実に、圧倒されたのだ。普段のバグった思考回路からは想像もつかない、彼女の「大人の女性」としての完璧な一面を見た気がした。
「ちょっとぉ! 何してるのよ!!」
リビングから戻ってきたカナが、下着の段を開けている恭介を見つけ、悲鳴のような声を上げた。
ダダダッと駆け寄ってくると、恭介の目の前でバタン! と大きな音を立てて引き出しを閉める。
「なんで見てるのよ!変態!」
カナは顔を真っ赤にし、まるで本物の変質者を見るような蔑みの目を恭介に向けた。
「いや、間違えただけだよ。俺の服の段だと思って……」
「絶対嘘! 私の下着をコソコソ物色してたんでしょ! 変態!」
(……出た、思考回路のバグ)「ごめんごめん、ほんとに間違えただけだよ」
「ねぇ。人の下着をまじまじと鑑賞しておいてそれで済むと思ってるんだ?」
「だから、ちょっと間違えて開けただけだろ?ほんとにごめんな」
「なに? 女性の下着が好きなの? 人の下着を物色するような趣味があったわけ?」
「物色してねぇよ。一瞬見ただけだろ」
「ふーん……『たまたま間違えて見ちゃいました』って? 中学生の言い訳か何か?」
カナはジト目で恭介を睨みつけながら、己の胸を腕で隠すように抱え込み、大袈裟に怯えるポーズを取ってみせた。
「怖い、私何されるかわかんない」
「はー? 大袈裟だな、はいはい」
「おまわりさん呼ぶよ?」
「なんでそうなるんだよ」
カナは呆れた顔をして、これ見よがしに深い溜息をついた。
「はぁ、困ったもんだわ」
「しょーもないな……」
「いや、別に小言を言いたいわけじゃないのよ? そういう癖があるなら、隠さずに最初から言ってくれればいいのにって思ってるだけ。ほら、私って理解のある妻だから」
哀れむような、でもどこか面白がっているような顔で恭介を「変態」と決めつけてくるカナ。
「ま、今度見せてあげるからね」
そう言うと、ニシシと悪戯っぽく口角を上げた。完全にマウントを取った勝ち誇った顔だ。
さっきまで必死に弁明していた恭介は、そのあまりにも鮮やかすぎる手のひら返しと理不尽な着地点に、口を半開きにしたままポカンとして呆気にとられるしかなかった。
ツッコミたいポイントが山ほど多すぎて、もはやどこから言葉を出せばいいのかすら分からない。思考回路が追いつかず、完全に固まってしまった恭介を見て、カナはさらに「ふふん」と鼻を鳴らし、満足気な足取りでリビングへ行ってしまった。
パタンと寝室のドアが閉まる音で、ようやく恭介は正気に戻った。
「……マジで何なんだよ、あいつ……」
ぽつりと呟いた自分の声が、静かな部屋に虚しく響く。
思考回路がバグっているどころか、いつの間にかカナのペースに完全に巻き込まれ、負けたような形にされている。
恭介は頭を掻きむしりながら深く溜息をついたが、リビングから「恭介さーん、お酒冷やしといてよー!」と何事もなかったかのように呼ぶ呑気な声を聞いて、結局ふっと苦笑いを漏らすのだった。
「……はぁ」
どうしても納得がいかない恭介だったが、買い出しで疲れていたこともあり、一言も反論せずにそのまま寝室のベッドで、ドサリと横になった。
(……調子に乗りやがって)
理不尽にマウントを取られ、一方的に「変態」扱いされる構図に嫌気がさしていた。なんとか立場を逆転させられないか……そう考えながら目をつむっていると、リビングから寝室へ近づいてくる足音が聞こえた。
「恭介さん……? ねぇ?」
いつまでも寝室から戻ってこない恭介を不審に思ったのか、カナが扉を少しだけ開けて覗き込んできた。
「どうしたの……?」
その不安そうな顔を見た瞬間、恭介の頭の中に電流が走った。
(……待てよ。これはチャンスだ)
恭介は、わざとらしく深々と溜息をつき、暗い声を作った。
「……いや。俺って変態で最悪だなと思ってさ。……カナの近くにいないほうが、カナも安心できるだろ」
「え、そ、そういうことじゃないじゃない……?」
想像もしなかった恭介の弱気な反応に、カナの顔から一気に余裕が消えた。
「いや、いいんだよ。カナが安心できるなら、俺はそれでいい」
「ちょっ、ちょっと……何言ってるのよ……」
「家の中に変態がいると、嫌だろ?」
語気は静かだが、決定的な拒絶を含んだ恭介の言葉に、カナの目が泳ぎ始めた。あからさまに焦り出している。(言い過ぎたかな……)という後悔が顔に書いてあるようだ。
カナは慌てて恭介を包み込んだ。
「そ、そんなことないよ。 私、変態も嫌いじゃないよ!?」
(何言ってるんだw)
恭介は必死で吹き出しそうになるのを耐え、さらに追い打ちをかけるように顔を伏せた。
「……下着を物色するような男は、普通に考えてヤバいだろ……」
「ううん! 全然ヤバくないよ! 大丈夫よ! 本当に!」
(完全にヤバいだろw)
パニックになったカナは、なんとか恭介を元気づけようと必死になり、ついにはとんでもない提案を口にした。
「あ、そうだ! 今から私の下着コレクション、見せてあげる! ね? だから元気出して!」
(いや、俺が下着好きの変態前提になってるだろ!)
心の中で激しくツッコミを入れつつも、恭介はトドメとばかりに、さらに切なく呟いた。
「……俺は、本当に最低だな」
「そんなことないってばぁ! さっきは私が言い過ぎたの! ごめんね、本当にごめん……!」
必死で抱きついて謝ってくるカナ。
(よし……!)
カナの頭越しに、恭介は心の中で固く、力強いガッツポーズを突き掲げたのだった。
逆転勝利だ!!




