妖艶な小悪魔
明日は祝日。
平日ではあるものの、翌日の仕事を気にせず夜を遅くまで楽しめる特別な夜だ。
仕事帰りにワインショップへ立ち寄った恭介は、カナの顔を思い浮かべながら、少し良い赤ワインと、珍しいチーズの詰め合わせを買った。怪我をしていた時にお見舞いに来てくれた「アンカー」のマスターへのお返しにと、マスターが好きそうな手頃なワインも一本買い足す。
(そういえば、カナってワイン好きだったっけ……?)
二人で飲むときはビールかハイボール、アンカーに行けばカクテルかウイスキー。カナがワインを飲んでいる姿があまり思い出せないまま、恭介は両手に買い出しの袋を抱えてカナの部屋へと戻った。
◇
「ただいま」
「あ、おかえり! ……え、何その袋?」
帰宅するなり袋の中身を見せると、カナの目がパッと輝いた。
「ワインとチーズ。明日は休みだし、たまにはいいかと思って。あ、これはマスターへのお返しね。」
「うわぁ、やったー! ワイン大好きだよ!」
カナは歓喜の声を上げながら、大事そうにボトルのラベルを眺めている。その素直なリアクションに、恭介は首をかしげた。
「カナってワイン好きだったっけ? 俺の前で飲むことあまり見たことないけど」
「だって、アンカーにはそんなにワイン置いてないでしょ? だからだよ」
「へえ。じゃあ、普段は誰と飲んでるんだよ?」
「友達とか」
「ふーん……友達ねぇ」
意地悪く口端を上げて小さな嫌味を飛ばすと、カナは「なにその疑った目! 本当に女子会だよ!」とぷくっと頬を膨らませた。
お風呂に入り、カナが作ってくれた美味しい夕食を食べ終えたところで、恭介が「じゃあ、俺、マスターにお返し渡しに行ってくるわ」と立ち上がると、カナがパッと顔を上げた。
「あ、私も行く! 一緒に行く!」
「行くの? ちょっと渡してすぐ戻ってくるだけだよ?」
「いいの! 私も行くの!」
そう言うやいなや、カナは自分のクローゼットへ突進していった。
ここからが、男にとっては気の遠くなるような時間の始まりだった。「女の準備」は、とにかく長い。
「ねえ恭介さん! こっちのニットと、このブラウス、どっちがいいと思う?」
「……どっちでもいいんじゃないか?」
「『どっちでもいい』じゃないでしょ! どっちが可愛いか聞いてるの!」
「うーん、ブラウスでいいんじゃないか?」
「えー、でも夜はちょっと寒いかな……。じゃあこっちのワンピースは? これ変じゃない?」
「大丈夫。変じゃないよ。……なぁ、そろそろ早くしてくれ」
姿見の前で服を何着も身体に当て、あーでもないこーでもないと悩むカナ。
恭介は、どっちでもいい、好きなほうにすれば?、なんでもいい、と適当な相槌で急かす。
痺れを切らしたカナは、あろうことかパジャマを脱ぎ捨てた上下下着だけの姿のまま、プンプンと怒って玄関へ向かおうとした。
「ねえ、ちゃんと考えてくれてる!? 適当じゃん!もう決まらないからいい! 決まらないならこのままで行くからいいよ!」
投げやりな抗議と、「どうせ止めてくれるでしょ」という甘えが混ざったカナなりのブラフだった。
しかし、恭介も伊達に毎朝ジャブを受け続けていない。
「そうだな」
恭介は淡々と答えると、そのまま玄関のドアノブを掴み、ガチャリと勢いよく外へ向かってドアを開け放った。
「ちょっと……!? 何やってんのよ!!」
寒風と外の空気が一気に玄関へ吹き込み、下着姿のカナは顔を真っ赤にして悲鳴を上げた。
「何って、そのまま行くんだろ? ほら、行くぞ」
「誰かいたらどうするのよ!! 本当に閉めて! すぐ着るから!」
恭介が半笑いでドアを閉めると、カナは「信じられない!誰かに見られてるかも!」と叫びながら一瞬で服を着直し、玄関に戻ってきた。選ばれたのは、最初に恭介が「これでいいんじゃないか?」と言っていた方のブラウスだ。
二人でアンカーのドアを開けると、カウベルの澄んだ音が響いた。
「いらっしゃい。おや、二人揃って。」
カウンター越しに迎えてくれたマスターに、恭介は買ってきたワインを差し出した。
「これ、この前のお見舞いのお返し。珍しいのあったから」
「気を使わなくてもいいのに。ありがとう、恭介くん」
マスターは嬉しそうにボトルを受け取ると、棚の奥から小ぶりなグラスと年代物のボトルを取り出した。
「じゃあ私からも、快気祝いということで。」
カウンターに注がれたのは、芳醇な香りのする珍しいウイスキーだった。恭介とカナは並んでグラスを受け取り、軽く口を付ける。
「しかし、二人は仲が良くていいね」
マスターが目を細めて穏やかに微笑むと、カナは誇らしげに胸を張った。
「そうなんですよー! 仲良しなんです!」
(……マスターは、カナの狂気を知らない)
恭介は心の中で静かにツッコミを入れつつ、世間話をしながらウイスキーを飲み干してグラスを置いた。
「じゃあマスター、また来るよ。ありがとう」
◇
店を出てカナの部屋に戻ると、コートを脱ぎ捨てたカナが「やっと飲める!」と嬉しそうにワイングラスを二つテーブルに並べた。
ソファーに並んで座り、恭介が買ってきた赤ワインのコルクを抜く。グラスに注がれた深紅の液体を軽く揺らしながら、二人は静かにグラスを合わせた。
「んー! 美味しい! このワイン、すっごく美味しいよ」
「そりゃ良かった。珍しいチーズも切るか」
ワインを口に含み、嬉しそうに微笑むカナ。
買ってきた赤ワインのボトルはあっという間に空になり、二人は棚から引っ張り出してきた焼酎やウイスキーをロックで煽っていた。
他愛もない仕事の愚痴や最近の話題、そんなくだらない会話にケラケラと声を上げて笑うカナは、すっかりご機嫌に酔っ払っている。飲み過ぎてるぐらいだ。トロリと潤んだ瞳が明らかな酔いを示していた。
「あ、そうだ……!」
グラスを置いたカナが、ハッと思い出したように顔を上げた。そのままソファーから立ち上がると、足元を少しフラフラさせながらクローゼットへと向かっていく。
「おい、どうした?」
「ふふ、ちょっと待ってて~」
恭介の問いかけに悪戯っぽい笑みを残し、カナは服をゴソゴソと漁り始めた。 しばらくして着替えを終えて出てきたカナの姿を見て、恭介は思わずウイスキーを吹き出しそうになった。
「……おい、どうしたその格好」
出てきたカナは、目のやり場に困るほど露出の激しい服に身を包んでいた。胸元は深く広がり、身丈もやたらと短い。
「この前買ったんだよ~! どう?」
「いや……どう? って、露出多くないか? 激しい動きしたら胸出そうだぞ」
「これだけで着る服じゃないよっ! この上にも下にも羽織るものがあるんだから!」
プウッと頬を膨らませて弁解するものの、酔っているせいか体にまとわりつくような仕草がやけに妖艶だった。普段の可愛らしさに、お酒の熱と大胆さが加わって、直視するのが毒になるレベルの色気が漂っている。
カナはトコトコと恭介のもとへ歩み寄ると、膝の上に倒れ込むようにして乗っかってきた。
「ねぇ……色っぽい?」
耳元で囁かれる、甘く甘えた声。 酔ってうまく着こなせていないせいか、服が変にズレて胸元は今にも溢れそうだし、スカートも豪快に捲れ上がって下着が丸見えになっていた。本人は色っぽく迫っているつもりなのだろうが、着崩れ具合が限界突破している。
「わかった、わかったから……」
恭介が目のやり場に困りながらカナの肩を支え、なんとか服を引っ張って直そうと揉み合っていると――
「ん……」
さっきまであれだけ大胆に迫ってきていたカナの動きが、急速に鈍くなった。
「……カナ?」
返事がない。 膝の上の重みが増し、静かな寝息が聞こえ始めていた。ソファーにぐったりと体重を預けたカナの姿を見ると、案の定、揉み合っている最中に服が完全に肌から滑り落ち、胸が盛大に露出してしまっていた。
それなりの大きさがありながら、重力に負けることなくキュッと上がった整った形の綺麗な胸。こんな風に照明の下でまじまじと観察することも滅多にない。
だが、恭介の心に湧き上がってきたのは、むっとするような性的な興奮ではなかった。
(……綺麗だな)
まるで、洗練された美術館で彫刻か何かのアートを鑑賞しているような、静かな感嘆だった。
カナはスタイルが抜群だ。そしてそれは決して「たまたま」ではないことを恭介は知っている。家事をこなし仕事もしながら、影で体型を維持するための努力を怠っていない。この無駄のない美しいラインは、彼女が日常の中で重ねてきた努力の結晶なのだろう。
すやすやと無邪気な寝息を立てるカナの顔と、あまりにも完璧なその胸元を見比べながら、恭介は小さく首を振った。
「……ったく」
恭介は呆れ混じりの溜息をつくと、はみ出た胸を丁寧に服の中に押し戻し、乱れた衣類を整えてやった。そして熟睡したカナの体をそっと腕の中に抱き上げると、ソファーから立ち上がってベッドへと運んだ。
布団を上までしっかりとかけてやると、カナは「んう……」と気持ちよさそうに身体を丸め、枕に顔をうずめた。
「おやすみ」
カナをベッドへ寝かせた後、恭介は静まり返ったリビングに戻り、ソファーに深く腰掛けた。
テレビをつけ、音量を極限まで下げてぼーっと画面を眺めながら、残ったウイスキーを一人でちびちびと煽る。さっきまでカナが騒いでいたのが嘘のように静かな、祝日前夜の贅沢な時間だった。
それから、小一時間ほど経った頃だろうか。
パタパタと足音がして、目をこすりながら寝室からカナが姿を現した。
「……んー、知らないうちに寝てたみたい」
「あぁ。リビングで寝てたからベッドに運んだよ」
「ありがと……ん?」
カナはふと自分の胸元に目を落とし、首をかしげた。
「……私、この服着てたっけ?」
「あぁ。嬉しそうに着てたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、カナの目がハッと見開かれた。
「あ! もしかして……! 変なことした……!?」
「はぁ? するわけないだろ!」
即答する恭介だったが、カナは両腕で自分の身体を抱きかかえるようにして、疑いの眼差しを向けてくる。
「怪しい……。私が寝てる隙に……うわ、怖いっ!」
(……盛大に胸を出してたくせに)
喉まで出かかった言葉を、恭介はぐっと呑み込んだ。これを今言えば、「なんで見てるのよ!」と確実に別の怒り火がつくだろうと瞬時に察したからだ。
だが、カナの理不尽な追撃は止まらない。
「ねぇ、寝てる時にそういうことするのよくないと思うよ?」
「おいおいおいおい」
「私が気付かないのをいいことに……最低」
勝手に酔っ払って落ち、勝手に被害妄想を膨らませて「最低」呼ばわり。 言われっぱなしの理不尽さに、恭介の胸の中で小さなスイッチが入った。
(……ダメだ、ムカついてきた。やっぱり言おう)
恭介はウイスキーのグラスをテーブルにコトンと置き、カナの目をまっすぐ見つめた。
「あのさ。その服着てソファーで寝てる時、おもいっきり胸が出てたぞ」
一瞬、部屋の中に静寂が訪れた。
カナは数秒固まったあと、顔を真っ赤にして叫んだ。
「はぁ!? そんなわけないでしょ!!」
「いや、ほんとに」
「嘘ばっかり! こっそり見たんでしょ! 最低!」
事実を伝えたところで、素直に認めるようなカナではない。むしろ「見た」という事実だけを切り取って攻撃してくる。
「……はぁ」
恭介は心底呆れたように、深く大きな溜息を吐いた。この泥仕合に付き合うだけ無駄だと悟りつつも、最後に捨て台詞を吐く。
「じゃあ今度、証拠として写真撮っといてやるよ」
「変態! 変態!!」
自分の胸を隠しながら、真っ赤な顔でポカポカと恭介の肩を叩いてくるカナ。
(胸を出してたのはお前だろ……)と心の中で盛大にツッコミを入れながら、恭介は怒りよりも可笑しさが勝ってしまい、思わず苦笑いを漏らすのだった。




