二人の部屋
退院からしばらくが経ち、恭介の両腕を覆っていた白くて重いギプスはついに外れた。
久々に訪れたバー「アンカー」のカウンター席。 マスターが恭介の前にグラスを置き、その手元を交互に見やりながら、静かに声をかけてくる。
「ギプス、取れたんだね。大丈夫だった?」
「ああ、おかげさまで。まだ少しリハビリが必要だけど、普通に動かす分にはもう問題ないよ」
恭介がグラスを持ち上げて見せると、マスターは安堵したように「それは良かった」と微笑んだ。
すると、隣に座っていたカナが、待ってましたと言わんばかりに胸を張って割り込んできた。
「ちょっとマスター、聞いてよ。恭介さんったら手が使えないから、ご飯も私がぜーんぶ食べさせてあげてたんだから!」
「へえ、カナちゃんが?」
「そうだよ! カレーだって『あーん』して食べさせてあげたし、お水だってストローさしてあげなきゃ飲めなかったんだから。」
カナの言葉には、隠しきれない誇らしげな誇張と、自慢気な響きが混ざっていた。
いつもなら恭介の後ろをちょこちょこと追いかけ、余裕な態度に振り回されていたカナが、今はまるで「私がこの人を支えてあげた」と言わんばかりに、堂々と誇らしげな笑みを浮かべている。
恭介の不自由さを一番近くで支え、理性の主導権すら握っていたという自負。それが今のカナに、どこか誇らしげで、魅力的な自信を与えているようだった。
「はいはい、本当に感謝してますよ」
恭介が呆れ半分に肩をすくめると、カナは「でしょー?」と満足そうに口元を緩め、誇らしげに自分のグラスを傾けた。
アンカーを出て、カナの部屋に着いた恭介は、リビングの隅に置かれていた自分のボストンバッグを引き寄せた。
「え? 何してるの?」
きょとんとした顔で恭介の手元を見つめるカナに、恭介はギプスが外れたばかりの少しぎこちない手つきで、Tシャツや洗面所に置いてあった歯ブラシをバッグへ放り込みながら答えた。
「何してるって、片付けだよ。手も治ったし、私物もまとめて持って帰るわ」
「ちょっと待ってよ! 」
恭介は何でもないことのようにソファーのジャケットを小さく畳んでいる。カナはその手からすかさずジャケットをひっぱり奪うと、抱きかかえるようにして胸元で庇った。
「ダメでしょ!持って帰っちゃダメ」
「おい、引っ張るなよ。ギプス取れたばっかなんだから」
「だって、服も歯ブラシも持っていかれたら、明日から恭介さんが来る理由がなくなっちゃうじゃん! 」
ぷくっと頬を膨らませ、上目遣いでジト目を向けてくるカナ。 恭介を困らせて引き止めようとする、計算と甘えが混ざったような小悪魔的な顔だ。
「じゃあさ、明日も来てよ。明日も、明後日も!」
「それじゃあ、ここに住んでるのと変わらないだろ」
恭介の呆れ顔のツッコミに、カナはぽんっと手を打った。
「そうじゃん! だったら、一緒に住めばいいんだ!」
自分のひらめきに満足そうに笑みを浮かべるカナに、恭介は深々とため息をついた。
「いや、それはダメだろ。俺だって自分の生活があるんだぞ」
「そんなの分かってるけどさー。 二人で一緒にご飯食べて、一緒に過ごしたいじゃん!こんなに可愛い女の子を一人にするつもり? もし夜中に泥棒が入ってきたらどうするの? 襲われたら怖いよぉ!恭介さん、責任取れるの?」
「泥棒って……鍵かければ大丈夫だろ。だいたい、俺は警備員じゃないんだから」
カナは抱えていたジャケットをそっとソファに置くと、恐る恐る恭介の服の裾を指先でキュッと掴んだ。
「ねえ、私を置いてかないでよー?」
甘く小悪魔的に迫るカナの熱量に、恭介は一瞬気圧されながらも、困ったように視線を泳がせた。
「考えておくよ」
「絶対だよ? 冗談じゃないからね!」
必死で可愛いカナの手を優しく振り払い、なんとか宥めて部屋を後にした恭介は、その夜、静まり返った自宅へと戻った。
◇
リビングのソファでスマホを眺めている妻に向かって、恭介は淡々と切り出した。
「事故で止まってた仕事の遅れを取り戻したくてさ。復帰したばかりで作業にも倍時間がかかるから、通勤時間を削るために平日は会社の寮に泊まり込もうと思う」
妻は恭介の顔すら見ようとせず、気のない声で短く返した。
「あ、そう。体には気をつけて」
問い詰められることも、理由を深掘りされることもない。 あまりにもあっけなく通ってしまった嘘と、冷め切った夫婦関係の空気に、恭介は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
◇
翌日、恭介は再びカナの部屋を訪れ、ドアを開けるなり告げた。
「……平日はここに泊まることにした」
「本当に!?」
パッと顔を輝かせるカナに、恭介は釘を刺すように言葉を続けた。
「ただし、週末だけは家に帰る。いくら仕事の理由をつけても、週末はさすがに帰るよ」
「全然いい! 週末くらい我慢できる!」
カナは歓喜の声を上げると、弾みをつけて恭介の首に両腕を回してきた。
「やったー! あー、嬉しいなー。」
平日の夜をすべて自分に捧げてくれるという事実。 カナは自分の中の勝利を噛み締めながら、ゾクゾクするような背徳感と誇らしげな優越感に浸り、恭介の胸に強く顔をうずめた。
こうして、カナの部屋での「平日限定」の共同生活が始まった。
同じベッドで眠り、朝は同じアラームの音で目を覚ます。 カナが手早く作ったトーストとコーヒーで簡単な朝食を済ませ、二人並んでドアを開けて「行ってきます」と会社へ向かう。
最初の数日は、夢にまで見た「付き合っているかのような恋人同士の日常」に、カナは胸を躍らせていた。恭介の匂いが残る部屋、夜遅くに「ただいま」と帰ってくる彼を迎える幸福感。奥さんの知らない恭介の顔を、自分だけが知っているという優越感。
だが――数日も経つと、憧れの生活の裏側にある「現実」が少しずつ顔を出し始めた。
「……ちょっと恭介さん、脱いだ靴下はちゃんと洗濯機に入れてって言ったでしょ?」
「あ、悪い。仕事のキリが良くなったら持っていこうと思ってた」
「もう、今やって! 私が洗うんだからさ」
そんな風に、脱ぎ散らかした服の行き先や家事のちょっとした価値観の違いで小言を言うことはあっても、部屋にはどこか微笑ましく甘い空気が漂っていた。
カナが仕事をしながら家事をこなし、恭介も他人行儀な遠慮を残しつつ小さな手伝いをする。完璧じゃないからこそ、二人で「生活」を作っている実感が心地よかった。
だが、一緒に暮らし始めて数日、恭介はカナの「ある意外な一面」に気づくことになる。
変な話になるが、カナの性欲の強さが如実に現れるようになった
たまに会うだけだった頃は、限られた時間だからこそお互いに気分を高め合い、濃密な夜を過ごしていた。
だが、同じ屋根の下で暮らすとなると話は別だ。 何しろ、いつでも触れ合える距離に大好きな人がいる。カナにとっての「スキンシップのハードル」は一気に下がり、甘えたい衝動に対してすごく素直になっていた。
夜、ベッドに入ってしばらくすると、となりの布団からすり寄ってくる滑らかな肌の温もり。カナが恭介の腕に抱きつき、胸元にすりすりと頭を寄せてくる。
恭介は苦笑いを浮かべ、カナの頭を優しく撫でながら静かに押し返した。
「カナ、ごめん。今日はちょっとマジで疲れててさ……明日も仕事早いんだ」
大人しく納得してくれることを期待して向けた「優しい拒否」。 だが、カナは恭介の胸に顔を乗せたまま、きょとんとした顔で恭介を見上げてきた。
「え? 私だって明日早いよ?」
全く悪びれず、むしろ「お互い様でしょ?」と言わんばかりのナチュラルな返し。
「……いや、そういう問題じゃなくて」
「……じゃあ、もういいよ。さっさと寝るね!」
そう吐き捨てると、カナはクルリと恭介に背中を向けて横になった。
大人の女性としてのプライドを見せるように、姿勢を正して「もうあなたには興味ありません」と言わんばかりの態度だ。背中からは「ものすごく不機嫌です」というオーラが隠しきれずに溢れ出ていた。
恭介は申し訳なさと安堵が混ざった溜息を小さくつき、目を閉じて意識をまどろみへと預けようとした。
……それから、三分ほど経った頃だろうか。
静まり返ったベッドの中で、カサ……と小さく布団が擦れる音がした。
背後からそっと温かい気配が近づいてくる。次の瞬間、掛け布団の中で恭介の右手に、カナの小さな手がモゾモゾと滑り込んできた。遠慮がちに、けれど解けないようにぎゅっと指を絡めてくる。
カナは手を繋いだまま、背中に身体を徐々に密着させてきた。 恭介の背中に伝わってきたのは、布地越しではない――なめらかで温かい、カナの「素肌」の感触だった。
いつの間に脱いだのか、カナはパジャマを脱ぎ捨てて恭介の背中にすり寄ってくる。
「ねぇ……寝た?」
耳元で、甘く低く囁く声。
「……寝てないでしょ?」
素肌の体温と柔らかさがダイレクトに背中に押し当てられ、首筋にカナの吐息がかかる。背中を向けて強がっていた癖に、結局我慢できなくなって素肌で誘惑してくるカナのしぶとさと愛おしさ。
正直、カナは文句なしに綺麗で、めちゃくちゃ可愛い。 こんな風に素肌で迫られて興奮しない男などいるはずがない
ここで流されたら、明日どころか体力が持たない。恭介はぐっと理性を保ち、繋がれた手を優しく握り返しながら、ゆっくりと振り返った。
「……カナ。ほんとに今日は寝るから。」
目を見て、真剣に、けれど優しく断る。
その瞬間、カナの顔がカッと赤くなった。プライドを捨てて素肌でアタックしたのに、あっさりと撃沈された恥ずかしさと悔しさが一気に爆発したのだ。
「……っ、最低!! もういい! もう知らない!!」
カナは恭介の胸をポカッと突き飛ばすと、脱ぎ捨てていたパジャマを引っ張り上げて乱暴に身につけ、今度こそ完全に恭介へ背中を向けた。
断っただけで「最低」呼ばわりされる理不尽さに心の中でツッコミを入れつつも、どこか憎めないカナの可愛さに、恭介は苦笑いしながら静かに目を閉じるのだった。
翌朝。アラームの音で目を覚ますと、すでにカナはベッドから抜け出していた。
恭介が洗面所へ向かうと、鏡の前で化粧をしているカナの姿があった。その背中からは、昨夜の不機嫌がそのままスライドしてきたようなトゲトゲしいオーラが漂っている。
「……おはよう、カナ」
恭介が後ろから声をかけると、カナは鏡越しにチラリと恭介を睨みつけ、分かりやすく大きな溜息を吐いた。
「……はぁ。ダメだわ、今日すっごく化粧のノリが悪い」
「そうか?」
「そうだよ。昨日の夜、全然『女性ホルモン』が出なかったからかなぁ……。お肌の調子、最悪」
あからさまな嫌味を飛ばしてくる。昨夜、あっさり断られたことを、まだ根に持っているのだ。
朝から放たれた理不尽な先制攻撃に、恭介は苦笑いを浮かべながら、洗面台の横に並んで立った。ここで下手に触れると火に油を注ぐと察した恭介は、波風を立てないよう、ご機嫌取りの言葉をかける。
「別にノリなんて悪く見えないけどな。いつも通り可愛いよ」
少しでもカナの機嫌が直ればと放った、恭介なりの誠実なフォロー。
だが、カナは手を止めると、鏡越しに恭介へ向かってふんと鼻を鳴らした。
「いつもはもっと可愛いんだけどねっ!」
気まずい空気のままサッと朝食を済ませ、「早く会社に行こう」と靴を履いてドアノブに手をかけ、外へ出ようとドアを開けた、その瞬間。
「ちょっと!」
背後から刺すような声が飛んできた。
「ん?」
恭介が不意を突かれて振り返ると、廊下の先でカナが、腕を組んでこちらを睨みつけていた。
昨夜からの不機嫌も、さっきの洗面所での嫌味もそのまま引きずった、絵に描いたような仏頂面だ。まだ嫌味を言いたいのか?
「『行ってきます』は?」
「……」
(不機嫌でもそれは求めてくるのかよw)
思わず心の中で盛大にツッコミを入れそうになる。
お母さんが子供に言わせるやつだろ。
あれだけ朝からトゲトゲした嫌味を飛ばしておいて、別れ際の「行ってきます」の挨拶だけは省略させないという、カナの謎のこだわりと素直になれない甘え。
めんどくささと可愛さが絶妙に混ざり合ったその態度に、さっきまでの苛立ちは完全に毒気を抜かれて消え去ってしまった。
恭介は呆れ混じりの苦笑いを噛み殺し、ドアノブを握り直した。
「はい、行ってきます」
すると、カナは満足したように言った。
「いってらっしゃい」
意地を張りながらも、ドアが閉まる最後の瞬間まで恭介を見送るカナ。
恭介は小さく肩をすくめながら、どこか可笑しな愛おしさを胸に抱いて、朝の街へと足を踏み出した。




