アクシデント
あの日、「一緒に行くんだよ!」と泣いたカナを受け止めてから数日後。俺は約束通り、彼女と子犬を連れて郊外のカフェやドッグランへと足を運んだ。
ドッグランで子犬と戯れながら、見たこともないような満面の笑みを浮かべるカナ。「一緒に来る」という約束を果たしたことで彼女の機嫌は目に見えて良くなり、あの夜の刺々しさが嘘のように素直で甘い態度を見せるようになった。
そんな淡々とした日常は、あまりにも唐突に遮断された。
仕事中に青信号で渡ろうとした俺の視界に、強引に右折してきた車が飛び込んできた。鈍い衝撃音と共に視界が回転し、俺は叩きつけられるようにアスファルトへ転がった。
命に別条はなかった。頭も打っていないし、普通に喋れる。 ただ、咄嗟に庇うように突いた両手首が見事に砕けていた。
病院に担ぎ込まれ、両腕は肘から手首まで重厚なギプスで固められた。両手が包帯でぐるぐる巻きになった俺は、まるでドラえもんのような姿だ。本人的には「まあ喋れるし、ただめちゃくちゃ不便なだけだな」と楽観視していた。
事故の衝撃でポケットに入れていたスマホの画面がバキバキに割れて壊れ、連絡手段が完全に絶たれてしまっている。
◇
いつもの『アンカー』のドアを開けたカナは、真っ先にいつものカウンター席へと視線を走らせた。
――いない。
いくらLINEを送っても既読すらつかない。
電話をかけてもコール音が虚しく響くだけ。
約束を果たした途端にまた自分を後回しにして、冷めた態度を取り始めたのだと、カナの胸の中では怒りと惨めさが渦巻いていた。
「マスター、ハイボール」
カウンターの端に腰を下ろすなり、カナは低い声で注文を告げた。
そしてグラスが目の前に運ばれてくると、一口もつけないまま、開口一番にマスターへ向かって苛立ちをぶちまけた。
「ほんと意味わかんないんだけど。また無視ですよ? ちょっと優しくしたからって調子乗って急に冷たくなるとか、都合よすぎでしょ。どこで何してるんだか。イライラしちゃうなぁ。ねー、マスター」
マスターは、グラスを拭く手を止めた。
「……え? カナちゃん、知らないの?」
「え? 何を?」
「恭介くん、一昨日の昼間、車にはねられたんだよ。今、田中総合病院に入院してるはずだけど……」
カナの言葉がピタリと止まった。 頭の中が真っ白になり、血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「……事故……? 入院……?」
「うん。命に別条はないって聞いたけど。」
怒りは一瞬で吹き飛び、心臓が激しく鐘を打ち始めた。 カナは出されたばかりのハイボールには目もくれず、カウンターの上に千円札を叩きつけると、バッグを引っ掴んで弾かれたように店を飛び出した。
タクシーを飛ばして病院へ駆けつけ、案内所で病室を聞き出したカナは、息を荒らしながら病室の前にたどり着いた。
開け放たれたドアの隙間から、中の様子をこっそりと覗き込む。
ベッドの上には、両腕を重々しいギプスで固めた恭介が座っていた。彼は壁のテレビに視線を向け、バラエティ番組をぼんやりと眺めている。
そして、その傍らには――ひとりの女性がいた。
恭介の妻だった。
二人の間に会話はない。空気は冷徹なほどに冷めており、夫婦らしい温もりなどどこにもなかった。奥さんはただ淡々と、着替えの整理や手続きの書類といった雑務を無言でこなしている。恭介もまた、妻の存在を意識すらしていないかのように、ただテレビの画面だけを追っていた。
その冷ややかな光景にカナが息を詰まらせて立ち尽くしていると、後ろから足音が近づいてきた。
「あ、カナさん。入らないんすか?」
不意に声をかけられ、カナは肩を跳ねさせた。振り返ると、そこには見舞いの袋を手にした恭介の後輩、タクヤが立っていた。
「え、あ……うん……」
動揺して言葉を詰まらせるカナの様子に、タクヤは不思議そうに病室の中へ視線を向けた。 解答を得たように、ベッドの脇で淡々と作業をこなす奥さんの姿を目に留めると、一瞬で状況を察したように気まずそうな表情を浮かべた。
「……あー、うん。今はダメですね……」
タクヤは声をひそめると、気遣うようにカナに笑いかけた。
「明日の昼なら、奥さんも仕事でいないと思うんで、大丈夫だと思いますよ」
「……うん。ありがと……」
「不倫関係」という現実の刃と、気を使われた惨めさがカナの胸を容赦なくえぐり取った。カナは溢れそうになる涙を必死にこらえ、ペコリと頭を下げると、逃げるようにその場を後にした。
翌日の昼過ぎ。
タクヤの言っていた通り、奥さんが仕事に向かい病室を離れている時間を狙って、カナは再び病院を訪れた。
廊下を歩く足音が、自分でも分かるほど焦りで早くなっている。
病室のドアを叩くことも忘れて滑り込むと、ベッドの上で相変わらずヒマそうにテレビを見ていた恭介が、驚いたように顔を上げた。
「……カナ?」
恭介の口から自分の名前が漏れた瞬間、抑え込んでいた感情が静かに、けれど激しく渦を巻き始めた。
「……大丈夫なの?」
カナの口から漏れたのは、絞り出すような小さな問いかけだけだった。
「あぁ、大丈夫だよ。命に別条はないし元気だからな。数日入院したら帰れるらしい」
恭介は相変わらずヘラヘラとした態度で答える。
もちろん、心配でたまらなかった。事故と聞いたときは心臓が潰れるかと思ったし、生きていてくれて本当に良かったと思っている。
けれど、目の前にいる恭介の姿があまりにも非現実的すぎて、カナの頭は完全に追いついていなかった。
分厚いギプスで固められた両腕。白い病衣。消毒液の匂い。
いつも自分を冷ややかに見下ろし、圧倒的な余裕を崩さなかったはずの男が、ベッドの上で一人では何もできない姿で転がっている。
どこか遠い世界の人を見ているような、まるで恭介ではない誰か別の人間を眺めているような、現実感のなさ。
悲しいとか、愛おしいとか、あるいは昨日の奥さんへの嫉妬とか、そういった感情すらも湧き上がってこない。ただ胸の中がすっぽりと抜け落ちたような「抜け殻」の状態で、カナはそのままベッド脇の椅子に静かに腰を下ろした。
ただじっと、声も出さずに恭介を見つめる。
「……なんだよ? ギプス珍しいか?」
カナの視線に気づいた恭介が、可笑しそうに鼻を鳴らした。
「いや、なんか……すごいね……」
「すごいってなんだよ(笑)」
「……無事で良かった」
ポツリと漏れ出た言葉には、何の感情も乗っていなかった。あまりにも静かで、熱量のないカナの様子に、恭介も少しだけ不思議そうな顔を浮かべる。
「……じゃあ、私、仕事戻るね」
カナは立ち上がると、特に恭介の返事を待つでもなく、どこか足取りも覚束ないまま静かに病室を後にした。
その夜。
自室のベッドに横たわりながら、カナは暗い天井を見つめていた。
昼間、病院で目にした光景が、まるで映画のワンシーンのように頭の中でリフレインする。
両手が塞がれ、一人では何もできない恭介。
ぼんやりとしていた頭の霧が、時間の経過とともにゆっくりと晴れていき、代わりに強い焦燥感が胸を突き上げてきた。
(……私、何やってんだろ)
あんなにショックを受けて、ボーッとして、逃げるように帰ってきて。
(しっかりしなきゃ……)
恭介は今、怪我をして弱っているのだ。 スマホも触れず、自分から連絡することすらできない状態なのだ。
あの事故の光景、そして入れなかった病室の壁。 それらを全て飛び越えて、自分が恭介の「一番近く」に行くために。
カナは暗闇の中でゆっくりと起き上がると、ぎゅっと拳を握りしめた。瞳の奥に、昼間の抜け殻のような空虚さはもうなかった。
カナは途中のスーパーや書店で買った大きなポリ袋を両手に下げて、再び病院の病室を訪れた。
「おう、ありがとな」
ベッドの上で退屈そうにしていた恭介が、カナの姿を見て少し目を細めた。昨日のぼんやりとした雰囲気とは違って、今日のカナはどこか吹っ切れたような明るい表情をしている。
「果物買ってきたよ! 食べよ!」
カナはそう言って微笑むと、買ってきたリンゴやキウイをパイプ椅子の上で手際よく向き始めた。両手が使えず、自分で皮をむくことすらできない恭介のために、迷いのない手つきでナイフを動かしていく。
その横で、恭介はカナが差し入れとして持ってきた雑誌に目を落とした。
だが、両手首がギプスでガチガチに固められているため、本を保持することすら一苦労だ。不器用な手つきでパラパラと苦労しながらページをめくっていく。
ふと、恭介の手が止まった。開かれたページには、溢れんばかりの豊かなバストを強調した巨乳グラビアモデルの写真。
思わず食い入るようにそのページを見つめていると、視線を感じた。 ふと脇に目をやると、リンゴをむく手を止めたカナが、冷ややかな目でこちらを見つめていた。
「……は? キモ」
カナの口から、少し低く呆れたような声が漏れる。 いつもならもっとトゲのある言い方で激怒するところだが、両腕を包帯でぐるぐる巻きにして情けなく雑誌を追っている恭介が相手だからだろうか。その声にはどこか毒気が抜けたような、いつもより柔らかいニュアンスが含まれていた。
「病人なんだから、少しは大人しくしてなよ」
呆れ交じりにそう言いながらも、カナは小さくカットしたリンゴをフォークに刺し、恭介の口元へとそっと差し出した。
「はい、あーんして」
恭介はおとなしく口を開け、差し出されたリンゴを口に含んだ。しゃく、と瑞々しい音が病室に響く。
「……美味しい?」
「おう。うまいよ」
恭介が素直に頷くと、カナの口元にふっと小さな、温かい笑みが浮かんだ。
自分の手でリンゴをむき、一口ずつ恭介の口へと運んであげる。両手が不自由な恭介は、カナが差し出すものを素直に受け取るしかない。
昨日の夕方、廊下の陰から見るしかなかった「妻」の存在や、自分には何もできないという無力感。そんなものが、目の前で素直に自分を頼ってくれる恭介の姿によって、ゆっくりと溶けていく気がした。
照れくさそうにリンゴを噛み締める恭介の横顔を眺めながら、カナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
この不自由で、少し間抜けで、けれど自分だけが彼を甘やかしてあげられるこの時間が、カナにはたまらなく愛おしかった。




