ぶつかる感情
ある夜、俺はいつものアンカーでグラスを傾けながら、隣に座った常連の女の子と何気ない会話を弾ませていた。
そこへ、カランとドアのベルが鳴り、カナが女友達を連れてやってきた。
一瞬、背筋にひやりとしたものが走る。
以前のカナなら、俺が他の女と親しげに話しているのを見た瞬間、目を釣り上げてブチギレていただろう。
激しい嫉妬を隠そうともせず、あからさまに不機嫌な態度をとっていたはずだ。
だが、今のカナは違っていた。
カナは連れの友達を気遣うようにして、俺から一つ席をあけた隣のカウンター席に自然な動作で腰掛けた。
友達と来ているんだから、わざわざ俺のすぐ隣に座ることもないだろう。それは至極当然の配慮であり、大人の振る舞いだった。けれど、そのあまりにも整った距離感が、かつてのドロドロとした熱量が完全に消え失せたことを物語っていた。
グラスを注文したカナが、ふとこちらに視線を向け、悪びれもせずに声をかけてくる。
「新しい彼女?」
からかうような、好奇心を含んだ軽やかな声。
そこには怒りも、焦りも、嫉妬の欠片すら存在しなかった。
「はは、まさか」
俺は肩をすくめ、苦笑いを浮かべて短く返した。
(本当に、お互い変わったよな……)
カナはもう、俺が誰と話していようが本気で気にならないのだ。そして俺もまた、そんなカナの態度に傷つくこともなく、「そういうスタンス」として冷ややかに受け入れている。
お互いに縛り合わない、都合のいい関係。
常連の女の子ともカナたちとも適度な距離を保ちつつ酒を飲み、俺は一足先に一人で店を出ることにした。
「じゃ」
帰り際、カナに短く声をかける。
「うん、またー」
カナも手だけを軽く振り、友達との会話に戻っていく。
そこに気まずさも未練も一切感じられなかった。
(やっぱり、これでいいんだ)
互いに干渉せず、都合のいい時だけ寄り添う。完璧なスタンスだと自分に言い聞かせながら家に帰り、着替えて部屋でひとり、のんびりと寛いでいた。
スマホの画面が震えたのは、それからしばらく経ってからだった。
カナからのLINEだ。友達との飲み会も終わったのだろうか。
『ちょっと、いいかげんにしてくれない?』
一瞬、何のことかわからず、画面を見つめたまま固まる。
『ん?なに?』
『なにじゃないでしょ?ふざけてるの?』
あまりにも唐突な攻撃的なトーンに、俺の胸の中にムッとした熱が溜まっていく。
『なんだよ、急に』
『彼女と仲良さそうでいいね!』
店では「新しい彼女?」なんて軽口を叩いてあっけらかんとしていたはずだ。
それが、友達と別れて一人になった途端、これだ。
『彼女じゃないけどな』
冷めた返答を打ち返す。だが、カナの怒りは収まる気配すら見せなかった。
『考えられないわ』
店での余裕ぶった態度はただのポーズだったのか。それとも、自分が他の男や友達と自由に遊ぶのは良くても、俺が他の女と親しくするのは許せないという身勝手な独占欲なのか。
「一緒にいたい」と言いながら放し飼いにし、他の女の影を見せれば理不尽に噛みついてくる。理不尽すぎる言い分に、俺の指先が荒々しくスマホの画面を叩く。
『カナだって男と遊んでるだろ?』
ドッグランでの新しい出会いだの、職場の集まりだの、自分はいくらでも男の影をちらつかせておいて何を今更言っているのか。
だが、返ってきたのは間髪を入れない拒絶だった。
『遊んでない!バカじゃないの?』
『なんだよ?俺のことが好きなのか?』
ハーフラインを強引に割り込むような、なかば投げやりで挑発的な問いかけ。どうせまた、適当にはぐらかすか嫌味で返してくるだろうと思っていた。
だが、画面に浮かび上がった文字は、拍子抜けするほどストレートだった。
『好きよ』
画面にぽつんと表示されたその三文字を前に、俺は言葉を失った。
自分は自由に動き回り、俺を隙間時間でしか扱わないくせに。他の女の影がちらつけば途端に激昂し、そして平然と「好き」だと宣う。
(……ズルいだろ、それは)
カナの行動と言動の矛盾。その身勝手さに呆れ果てているはずなのに、「好きよ」というたった一言で、冷めかけていたはずの胸の奥が不快な熱を帯びて渦巻き始める。
「一緒にいたい」も「好きよ」も、カナにとっては偽りのない本音なのだろう。けれどそれは、俺を尊重する愛情ではなく、自分の都合のいいように手元に置いておきたいというエゴそのものだ。
このまま曖昧なやり取りを続けても拉致が明かない。 一度、お互いの本音をちゃんと、じっくり話したほうがいいのかもしれない。冷めたフリをして割り切ろうとしていた俺自身のためにも。
『家?』
『そうだよ』
カナからの短い返信を確認すると、俺はソファから立ち上がった。
『いくから待ってて』
そう打ち込んでLINEを閉じると、脱ぎ捨てていた上着を羽織り、カナの部屋へ向かう。
今から顔を合わせて、一体何を話せばいいのだろう。
カナの部屋のドアを開けると、そこには感情的に取り乱す様子もなく、冷たい眼差しで俺を待つカナの姿があった。
「どういうつもり?」
抑え込まれた低い声。静かだからこそ、その怒りの深さが部屋の空気を重く張り詰めさせる。
ため息を押し殺しながら、俺は靴を脱いで部屋に上がった。
「なに?」
「新しい彼女とかありえないんだけど」
視線を逸らさず、静かに俺を射抜くカナ。LINEの熱量そのままに、けれど落ち着き払ったトーンで核心を突いてくる。
「彼女じゃないって」
俺は努めて平静を保ちながら繰り返した。だがカナは表情一つ変えず、冷ややかな口調で言葉を重ねる。
「私、すごく恥ずかしいじゃない。彼氏が他の女といるところにいて。……わからないの?」
声を荒らげることもなく、淡々と、けれど心底蔑むような目で俺を見つめてくる。
その絶対的な自己正当化と静かな威圧感に、俺は思わず息をのんだ。
「カナが後から来たんだろ」
店に先にいたのは俺だ。常連の女の子と話しているところへ、友達を連れて後から入ってきたのはカナの方じゃないか。
正論を口にする俺に対し、カナは眉一つ動かさず、冷たく言い放った。
「ほんとに、いいかげんにしてよ」
その一切の譲歩を拒むような態度に、俺の中でずっと抑え込んでいた不満が限界を迎えた。
ポケットに手を突っ込んだまま、胸の奥にくすぶっていた歪みを包み隠さず口にする。
「カナだって、空いた時間が暇だから俺を誘う感じだろ?」
「は?」
「忙しい時は何も言わず、何も予定がない暇な時だけ俺と会うじゃないか」
「そんなことないよ」
「いや、実際そうだろ」
俺が淡々と事実を突きつけると、カナの冷徹な仮面がガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。
「違うよっ!」
カナの言葉が一気に熱を帯びる。
静かだった声が、徐々に、けれど確実に大きくなっていった。
「じゃあ、恭介さんはいろんなとこに行ってくれるの!? ドッグランとか行ってくれるの!? 行ってくれないでしょ!?」
まくし立てるカナの顔が怒りで赤く染まっていく。
「私はいろんなことを我慢しなきゃいけないの!? 恭介さんこそ私に興味ないでしょ!? 私のすることに、全く興味ないじゃない!」
「じゃあ、俺はカナが遊びに行くのを、笑顔で『いってらっしゃい』って言わなきゃいけないのか?」
俺の口から出たのは、ずっと胸の底で澱のように溜まっていた不満だった。
カナが新しい人間関係を築き、ドッグランへ行き、男も含めた社交の場で自由に楽しそうに過ごしている姿。それに対して何も言えず、平然とした顔を取り繕っていた苛立ちが、抑えきれない皮肉となって言葉に滲み出る。
「カナが外で誰と何をしていようが、俺は『物分りのいい男』のフリをして優しく見送れってことか? 俺に干渉させないくせに、自分が寂しくなった時だけ呼び出して……そんな都合のいい置き物みたいな扱い、納得できるわけないだろ」
皮肉を込めて吐き捨てる俺に対し、カナの表情が歪んだ。
涙をぐっとこらえ、赤くなった目で見つめ返してくる。その瞳には怒りと、それ以上に破裂しそうなほど膨れ上がった感情が渦巻いていた。
まだ泣くまいと、溢れそうになるものを必死に押し殺すように唇を固く噛み締めている。
荒い息を吐きながら、胸を上下させるカナ。
今にも抑えきれなくなった感情が決壊しそうなギリギリの輪郭を保ちながら、俺に言い聞かせるように、言葉の一つひとつを噛みしだくような強い力で強い声で俺にぶつけてきた。
「わからないの!? 一緒に行くの! 一緒に行くんだよっ!!!」
その瞬間、限界まで張られていた糸がぷつりと切れ、カナの目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
涙を流しながら、カナはもう一度、激しい叫びにも似た声で繰り返した。
「一緒に行くんだよっ!」
「いろんなとこに一緒に行くんでしょっ! 2人で行きたいよっ!!」
感情を爆発させ、何度も何度も同じ言葉をぶつけてくるカナ。 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ただひたすらに自分の本音を俺の胸に叩きつけてくる。
やがてその叫びが止むと、狭い部屋の中に、重く息苦しい沈黙が降り立った。
カナの肩が、まだしゃくりあげるように浅く上下している。 ポロポロと落ちる涙の音すら聞こえてきそうなほど静まり返った空気の中で、俺は呆然と立ち尽くしていた。
「都合のいい隙間埋め」「割り切った関係」——そんな格好つけた言葉で自分を守り、カナのまっすぐな熱から逃げていたのは、全部俺だったのだ。
カナは最初から、ずっと俺の手を握りしめようとしてくれていたのに。
俺はゆっくりと息を吐き出し、胸の奥にあった強がりをすべて捨て去った。
「……わかったよ」
掠れた声で、静かに呟く。
「わかったから……泣くなよ」
手を伸ばし、涙で濡れたカナの頬を優しく拭った。
俺はそのままカナの華奢な肩を引き寄せ、強く抱きしめた。
腕の中でまだしゃくりあげているカナの温もりを感じながら、俺たちはようやく、遠回りしすぎたスタートラインに再び立ったのかもしれない。




