遠ざかる温度
あの日、お風呂での仲直りしたが、カナの「自由」はさらに加速していった。
家族という重しが完全に外れ、子犬という最高の相棒を得たカナは、まるで堰が切れたかのように外の世界へと飛び出していった。
職場の同僚との急な飲み会、昔からの女友達とのランチ、そして新しい犬友達との週末のお出かけ。カナのスマートフォンは連日のように通知で震え、スケジュール帳は鮮やかな予定で埋め尽くされていった。
当然のように、俺への連絡は目に見えて減っていった。
以前なら「今夜、アンカー行く?」「仕事終わったよ」と当たり前のように届いていたLINEが、今では二日に一度、三日に一度。届く内容も「今日は職場の集まりだから」「週末はドッグラン行ってくるね」といった、ただの報告ばかりになった。
俺は俺で、ぽっかりと浮いた夜の時間を一人持て余していた。
カナに対抗するように自分も他の誰かと飲みに行ったり、予定を詰め込んだりしてみようかとも考えた。けれど、そんな張り合い方に何の意味もない。空しさが募るだけだ。
カナが遠くへ行ってしまう焦りや、激しい嫉妬は、不思議ともう湧いてこなかった。
熱が冷めていくように、胸の奥がスーッと冷えていく。
「寂しい時だけ俺を呼び出し、満たされたら外で自由に遊び回る」 そんなカナのサイクルを客観的に見つめられるようになった分だけ、俺の中で何かが少しずつ、けれど確実に削り落ちていた。
俺の気持ちが冷めていくのと同時に、カナだってきっと同じなのだろう。
外の世界に居場所が増え、新しい人間関係が広がるにつれて、カナの人生における「俺の占める割合」が目減りしていくのは火を見るより明らかだった。
たまに二人で会っても、カナの口から出るのは「今日ね、職場の人が」「ドッグランで出会った人が」という新しい世界の話題ばかりだ。かつて俺だけに向けられていた甘い依存も、しがみついてくるような情熱も、どこか薄味なものに変わっていた。
お互いに、執着が薄れている。
「二人きりの閉ざされた世界」だからこそ濃密に保たれていたのだ。カナが外の空気を吸って自由になればなるほど、俺たちの関係を繋ぎ止めていた薄気味悪い粘着力は、綺麗に乾いて剥がれ落ちていく。
これが一時のすれ違いやマンネリによるものなのか、それともこのまま徐々に気持ちが全て冷めてしまうのかは、自分でもよくわからない。
冷めていく熱を抱えながら、俺もまた、ぼんやりと外へ目を向けるようになっていた。
(……俺も、誰かいい人いないかな)
ふと、外に目を向けようとしたその瞬間、頭の隅にある顔が浮かんだ。
美里。
……美里の顔が浮かんだ。
ずっと俺の近くにいて、勝手な都合で振り回してしまっていた存在。 カナとの関係に疲れ、外の誰かを求めようとした時、まっ先に思い浮かんだのはやっぱり美里だった。
(……いや、ダメだろ)
俺は心の中で自分を強く制した。美里をこれ以上俺のわがままに付き合わせるわけにもいかないだろう。
カナとの関係が冷めかけたからといって、その穴埋めのように美里を思い出すなんて、あまりにも都合が良すぎるし、最低だ。
ふと、自分の足がアンカーへと向かっている理由に気づき、俺は苦笑いを漏らした。
かつては「カナに会いたいから」「カナと過ごす時間が欲しいから」という一心でこの店のドアを開けていた。 だが今、俺が夜の街へ繰り出す理由はただ一つ。
誰か、いい人いないかな。
そんな不純な理由で飲みに出ていること自体が、もう俺のカナに対する気持ちの現在地を何よりも雄弁に物語っていた。
……いや、俺の考えすぎなのだろうか。
カナはただ、一人になった生活の中で普通に新しい日常を過ごしているだけなのに、俺が勝手に被害妄想を膨らませて勝手に冷めているだけなんじゃないか?
そう考えると、胸の奥から急速に冷たい風が吹き込んできて、ますます寂しくなってしまう。
カナのことは、今でも好きなのだ。
会いたいと強く願えば願うほど、冷ややかなもう一人の俺が胸の奥で問いかけてくる。
「本当に、カナである必要があるのか?」と。
この圧倒的な孤独感を埋めてくれるのなら、俺をこの静寂から救い出してくれるのなら、それは本当にカナじゃなければダメなのだろうか。
カナへの愛しさと、離れていく距離への寂しさ。そして、その穴を誰かで埋めようとしている自分の醜さ。
久しぶりに、カナと会うことになった。
待ち合わせ場所に現れたカナは、どこか晴れやかで、新しい生活の充実に満ちあふれているように見えた。以前のような、俺にすがりつくような切羽詰まった雰囲気はどこにもない。
向かい合って酒を汲み交わしながらも、俺の胸の中には重苦しい違和感が居座り続けていた。
「俺たち……もう終わるんじゃないか?」
耐えきれなくなった俺は、グラスを見つめたまま、ずっと胸の奥に澱んでいた言葉を漏らした。
するとカナは、呆れたように小さく息を吐き、首を振った。
「くだらないこと言わないでよ」
拍子抜けするほどあっ気なく、一蹴された。
カナにとっては、俺との関係が終わるなんて発想すらないのかもしれない。
あるいは、ただ重い話題を避けて、今の居心地のいい状態を維持したいだけなのか。
一蹴されたことで、俺の胸のモヤモヤは晴れるどころか、さらに深く、重くなった。
カナが一体どうしたいのか、本当のところが全く分からない。
旦那も息子もいなくなり、自由に羽ばたき始めたカナの日常。その中で、職場の同僚や友達、犬仲間との予定で埋め尽くされたスケジュールの、ほんの少しの「隙間時間」。
その隙間を埋めるためだけの相手が、今の俺なんだろうか。
愛されているのか、それともただの都合のいいヒマ潰しなのか。
「くだらない」の一言で片付けられてしまった俺の不安は、そのまま行き場を失い、冷めたグラスの底へとしずかに沈んでいった。
「最近、忙しそうだな」
沈黙を埋めるように俺が問いかけると、カナはグラスに視線を落としたまま答えた。
「そうだね。いろいろやることいっぱいで」
昔のように、言葉がポンポンと心地よく弾むような会話が続かない。 どこかお互いに気を遣い合いながら、探り探りで話しているのが分かった。
少なくとも、俺の方は確実にそうだ。言葉を選ぶたびに、見えない壁を一枚挟んでいるようなもどかしさが募る。
「……犬は元気?」
「うん、元気だよ」
それ以上、会話は広がらない。 ポツポツと途切れがちな言葉を交わしながら、俺たちは静かに酒を飲み、そのまま店を出た。
夜の冷たい空気が、火照った顔を撫でる。 二人並んで夜道を歩き出し、やがてカナの家へと続く角、分かれ道へと差し掛かった。
ここでカナと別れ、俺は一人で自分の帰路につくつもりだった。
「じゃあ、またな」
俺がそう言って足を止めると、すれ違いざまに袖を引かれた。
「ちょっと」
振り向くと、カナが少し困ったような、寂しそうな顔をしていた。
カナは当然のように、俺が一緒にこの角を曲がり、自分の家へついてきて一緒に帰るものだと思っていた。
「ん? あぁ、ごめん」
俺は素直にそう口にして、カナと一緒に角を曲がり、彼女の部屋へと向かって歩き出した。
静まり返った部屋に入り、コートを脱ぎ捨てたカナが、不意に真顔になって俺を振り返る。
「恭介さんは、どうしたいの?」
直球の問いかけに、俺は少し言葉を詰まらせた。
「……どうしたいとは?」
「今後よ」
静かなカナの目が、まっすぐに俺を射抜く。
(一緒にいたい)
そのたった一言が、喉のすぐ手前まで出かかっていた。けれど、カナの自由さに振り回され、都合よく扱われているという思いと、男としてのくだらないプライドが邪魔をして、どうしてもその言葉を口にすることができない。
俺はフッと短く息を吐き、視線を逸らした。
「カナがしたいようにすればいいよ」
その投げやりな返答に、カナの眉がピクリと跳ね上がる。
「何? そのやる気のない感じ」
「……最近忙しいんだろ? 無理して俺に会わなくてもいいよ」
嫌味と強がりが混ざり合った言葉が、自分でも驚くほど冷ややかに口から突いて出た。
「別に無理はしてない」
少しムッとしたように即答するカナ。
その様子を見つめながら、俺は胸の奥で渦巻いていた問いを、そのまま彼女に投げ返した。
「……じゃあ、カナはどうしたいんだよ?」
部屋の中に、重苦しい沈黙が落ちる。
「えー、一緒にいたい」
明るい声で、カナは言った。
俺が一人で難しく考え、勝手に築き上げていた複雑な壁やプライドを、カナはその一言であっけなく飛び越えてきた。
だが——その屈託のない笑顔とあまりにも軽い言葉に、俺の胸の奥はすっかり冷え切っていた。
(一緒にいたい……か)
額面通りに受け取ることは、もうできなかった。
カナが言っている「一緒にいたい」は、かつてのようにお互いを最優先にし、深く求め合うような関係を意味しているわけではない。 自分の思い通りに外で自由を謳歌し、友達や犬との予定で充実した日常を過ごした上で、ふとできた「隙間時間」を埋めるための都合のいい存在——それを確保しておきたいだけなんじゃないか。
「何よ、そんな難しい顔して。一緒にいちゃダメなの?」
首をかしげるカナの瞳に、嘘や悪気はないのだろう。
だからこそ、タチが悪い。
彼女にとって俺は、嫌いになったわけでも捨てるわけでもないけれど、かといって人生の真ん中に置く存在でもなくなったのだ。
過剰な期待も、重い情熱も、惨めな嫉妬も、すべて捨て去る。 カナが俺を「都合のいい隙間埋め」として置いているなら、俺もカナを「ただの都合のいい存在」として扱えばいい。
重く深く愛し合う関係から、お互いの寂しさや退屈を埋め合うだけの、ドライで割り切った関係へ。
「わかった。そうしよう」
俺は表面上は穏やかに、けれど冷ややかな諦念を込めて頷いた。




