くだらない嫉妬
「カナさん、ちょっとこれ見てくださいよ!」
少し離れたカウンターの端から、犬好きの男客——確か、近所で大型犬を飼っている男だ——が、自分のスマホを掲げながらカナを呼んだ。
「あ、はーい!」
嬉しそうに応えようとするカナに、ボソッと冷ややかに呟いた。
「……ほら、行ってこいよ」
「え? うん……ちょっと行ってくるね」
カナは俺のトゲのある言い方に少し首を傾げつつも、すぐに笑顔を作って男の元へと歩いて行った。
「これ、この前のドッグランの写真なんですけど、カナさんのところの子も絶対喜ぶと思って」
「えっ、すごい広ーい! うちの子も走らせてあげたいなぁ」
「じゃあ今度一緒に行きましょうよ! 僕が案内しますから」
「本当!? 行く行く! やったぁ、楽しみー!」
二人はスマホの画面を覗き込み、弾んだ声で楽しそうに盛り上がっている。
その光景を、俺は隣の空いた席越しに静かに眺めていた。
旦那のモラハラに怯え、息子の旅立ちに涙を呑み、家を失う不安で震えていたあのカナが、こうして笑顔を取り戻した。
新しい友達を作り、前を向いて生き始めようとしている。
……良かったじゃないか。心からそう思う自分も、確かにいた。
だが、それ以上に胸の奥で渦巻いていたのは、到底抑えきれない黒く濁ったモヤモヤだった。何か、致命的に腑に落ちない。
旦那が出て行って寂しかった時は、俺にしがみついて家に引き入れていたくせに。 いざ犬を飼って、新しい友達ができて前を向き始めたら、俺のことなんてどうでもいいのか?
寂しい時だけ俺の元に擦り寄ってきて、他の男とはあんな風に楽しそうに笑ってる。
……俺はただの都合の良い男なのか?
一通り会話が終わり、カナが満足そうな顔で俺の隣の席に戻ってきた。
マスターや周りの客に聞こえないよう、小さな声で俺の顔を覗き込んでくる。
「この後、うち来るでしょ?」
いつもの当たり前のような誘い。
だが、今の俺にはその言葉すら、都合のいい呼び出しにしか聞こえなかった。
「……いや、いいわ」
俺はグラスを見つめたまま、低く短い声で返した。
「え? なんでよ?」
不意を突かれたように目を見開くカナ。
その顔を見つめ返し、俺は胸の底に溜まっていた毒を吐き捨てるように言った。
「犬好きのアイツでも呼んで、仲良く話してろよ。気が合いそうでいいんじゃないか?」
「……ちょっと、何言ってるのよ」
カナは表情を強張らせ、声のトーンを落とした。周りに聞こえないよう低く、けれど心底解せないといった顔で俺を凝視してくる。
「何がいけないの? 普通に犬の話をしてただけでしょ?」
「何がいけない、じゃねぇよ。……自分が寂しい時だけ俺の元に擦り寄ってきて、一人じゃなくなったら他の男と楽しそうにして……俺のこと、都合の良い男としか思ってないだろ」
ずっと胸にくすぶっていた惨めな問いを、ついに口にしてしまった。
カナは一瞬、呆気にとられたように目を見開いた。
けれどすぐに、深く深いため息を吐くと、呆れ果てたように肩をすくめた。
「だから何なのよ? 恭介さんが勝手に被害妄想膨らませて拗ねてるだけでしょ?」
ただ新しい友達と犬の話で盛りしていただけ。そう言いたげなカナのフラットな態度が、かえって俺の心の狭さと惨めさを際立たせる。
「もういいよ……俺、帰るわ」
「え? ちょ、恭介さん!?」
戸惑うカナの声を背中に受けながら、アンカーの重い扉を押し開けた。
カラリン、と虚しく鳴ったドアベルの音を置き去りにして、夜の冷たい街へと飛び出す。
夜風が頬を刺すが、頭の熱は一向に冷めてくれない。
自由になったカナが、俺の知らない場所で、俺の知らない人間と当たり前に自由を楽しんでいる。
それがたまらなく気に入らない。
アンカーを飛び出して夜道を歩く俺のポケットの中で、スマホが短いバイブレーションを鳴らした。
画面を見ると、カナからのLINEが入っていた。
『どうしたの?気に入らないことがあるならちゃんと言ってよ』
整然と並んだ文字に俺は足を止め、冷え切った息を吐き出しながら親指を動かした。
『仲良い友達ができて良かったんじゃないか?』
皮肉を込めた返信を打ち送ると、一秒も経たないうちに既読がつき、すぐに次のメッセージが飛んできた。
『くだらないこと言わないで。どこにいるの?』
『帰ってる途中だよ』
『すぐ家に帰るから、来てよ。』
素直に頷くのは悔しかった。けれど、カナに何か一言言わないと気が済まない惨めな執着が俺を動かしていた。
『あぁ、わかった』
そう返信すると、俺は足を引き返し、カナの自宅へと向かった。
カナの家の前に着くと、ちょうどタクシーから降りてきたカナと鉢合わせた。 カナは黙ったまま鍵を開け、俺を静かに家の中へと招き入れた。
玄関を上がり、がらんとした静かなリビングに入る。
上着を脱いだカナは俺に向き直ると、腕を組んでまっすぐに見つめてきた。
「どうしたのよ?」
まっすぐで、どこまでも解せないというような瞳。
その顔を見た瞬間、俺の胸の底に溜まっていた暗い毒が、また口から漏れ出していった。
「俺じゃなくてアイツが来たほうが良かったんじゃないか?」
「……はぁ」
部屋の中に、カナの深く重いため息が落とされた。
呆れ果てたような、心底うんざりしたような吐息。
その音が、俺のささやかなプライドをさらに鋭く削っていく。
「ドッグラン行って盛り上がってこいよ」
俺は目線を外し、吐き捨てるように言った。
「どうしてそういうこと言うの?」
カナは怒るでもなく、困ったような、どこか幼い子どもをあやして諭すような柔らかい声で言った。
「事実だろ? 良かったな」
意地を張って視線を合わせようとしない俺の前に、カナがそっと足を進めてくる。 そして、俺の腰に手を回すと、そのまま小さく息を吐きながら膝の上に静かに腰を下ろしてきた。
ふわりと漂う、いつもの香水の匂い。 膝に伝わるカナの体温と確かな重みが、さっきまで尖りきっていた俺の胸のトゲを、少しずつ毒抜きしていく。
「私があの人のことを好きだって言った? 違うでしょ?」
カナは俺の首に腕を回し、至近距離でまっすぐに目を見つめてきた。
その瞳には、さっきアンカーで見せていた冷ややかさも、呆れ顔もない。
ただ俺一人だけを映した、濃密で甘い熱が宿っていた。
「私は恭介さんの彼女なの」
耳元で囁かれたその言葉に、俺は息を呑んだ。 『彼女』という、この関係には不釣り合いで、けれど何よりも欲しかった響き。
「ね? わかるでしょ?」
カナは俺の頬にそっと手を添え、優しく微笑んだ。
「ヤキモチ焼かない。私はいつでもそばにいる」
カナはそう言って、俺の首にまわした腕にぎゅっと力を込めた。
その腕の温もりと、首筋にかかる吐息の温かさが、俺の中に溜まっていた黒くてドロドロした感情を、あっけなく溶かしていく。
カナは急にパッと表情を明るくすると、俺の膝から軽やかに立ち上がった。
「さ、一緒にお風呂入ろ!」
屈託のない笑顔で腕を引っ張られ、俺は苦笑いしながら立ち上がる。
湯気が立ち込める浴室の中、湯船に浸かりながらカナが肩を寄せてきた。 さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように、温かい湯気とシャンプーの甘い香りが二人を包み込む。
「ほんと困った人だわ」
湯面を指で揺らしながら、カナがクスクスと呆れたように呟く。
「なんでだよ」
俺が少し目を逸らしながら返すと、カナは「ふふっ」と笑って俺の肩に小さく頭を預けてきた。
家族が去り、がらんとしたリビング。 部屋の隅に置かれた息子宛てのダンボールと、ソファの足元で丸くなって眠り始めた小さな茶色い子犬。
歪んだ関係のまま、俺たちはまた、二人で静かな夜へ沈んでいく。 自由を手に入れたはずのカナに、やっぱり俺は、どこまでも都合よく引き戻されてしまうのだった。




