旅立ちと出会い
旦那が出て行ったのは、平日の朝だったらしい。
そしてその数日後、高校を卒業した息子も、輝かしい未来と大都会への大きな荷物を抱えて、あっけなくこの家を旅立っていった。
カナはすぐにこの家を出ていくわけではない。離婚の協議が正式に成立し、名義や財産分与のあれこれが決まるまでは、ここに住み続けることになっていた。
家族3人で暮らしていたマンションに、カナはたった一人で取り残された。
その夜、いつものようにバー「アンカー」でカナと飲み、店を出た。
「ちょっと、来ない?」 カナがぽつりと言った。
俺断る理由もなく、二人で夜の住宅街を歩き、カナの自宅へと向かった。
カナの家に行くのは、これが初めてではない。だが、玄関の鍵を開けて足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気の質がまるで違っていた。
玄関に整然と並んでいた男ものの靴はなく、リビングへ続く廊下は不自然なほど静まり返っている。
通されたリビングやキッチンの見た目は、以前と何も変わらない。
けれど、奥にある旦那の部屋や息子の部屋のドアは固く閉ざされていて、その向こうにはもう家具すら残っていない『何もなさ』が漂っているのが、気配だけで伝わってきた。
「はい、缶チューハイでいい?」
「あ、うん。サンキュ」
カナが冷蔵庫から出してきた缶をコップも使わずに空け、二人でソファに並んで腰掛ける。 劇的な悲劇が起きているわけでも、重苦しい空気が漂っているわけでもない。
いつものようにくだらない冗談を言い合い、テレビのバラエティ番組を見て笑った。 けれど、ふとした沈黙が訪れるたびに、家全体の広さが二人を静かに押し潰しそうになる。
リビングの隅には、小さなダンボール箱がいくつか積み上げられていた。 まだテープが貼られていない箱の隙間から、見慣れたレトルト食品や、新しいタオル、日用品が覗いている。
「あれ、息子に送るやつ?」
俺が尋ねると、カナは缶チューハイのプルタブを弄りながら、少し照れくさそうに笑った。
「そう。向こうでちゃんとご飯食べてるか心配でさ。あの子、自炊なんてしたことないから。ついつい買い込んじゃって……」
サバサバと強がって離婚を進めているカナだが、ここには確かに『母親』としての温かい未練と親心が転がっていた。息子への荷物を詰める作業だけが、今のカナと「家族だった時間」をつなぎ止めているようだった。
そんな日が、何日か続いた。
カナは相変わらず強がっていたし、寂しさなんて一言も口にしなかった。けれど、二人で話していても、どこか意識の半分が別の場所にあるような、ぽっかりと空いた穴を二人で持て余しているような、そんなもどかしい日々だった。
その日もいつものように仕事終わりに落ち合い、アンカーのカウンターでグラスを傾けていた時のことだ。 いつもならどこか心ここにあらずといった様子だったカナが、今夜は妙にそわそわとしている。
「ねえ、恭介さん。これ見てよ」
カナがスマートフォンの画面を俺の目の前に突き出してきた。 画面に映っていたのは、片手にすっぽり収まってしまいそうなほど小さな、コロコロとした茶色い子犬の写真だった。
「……犬?」
「そうなの! 知り合いのところで生まれてさ、引き取り手を探してたらしくて。今日、うちにお迎えしたの!」
カナの顔に、ここ最近見たこともないような眩しい笑顔が咲いていた。 離婚の話が持ち上がってからずっと、強がりの裏に隠されていた暗い影が、嘘みたいに吹き飛んでいる。
「引き取ったって、一人で飼うのか?」
「もちろん! もうめちゃくちゃ可愛いのよ。家の中をトコトコ歩き回っちゃってさ。……一人暮らしには、こういう存在が必要だったんだなって、つくづく思うわ」
とても嬉しそうに、愛おしそうにスマホの写真をフリックしていくカナ。 その弾んだ声を聞きながら、俺の胸の奥には、安心感と同時に……どこか歪んだ、説明のつかないモヤモヤが小さく首をもたげていた。
カナの寂しさを埋めてくれたのは、俺の言葉でも、俺の存在でもなく、この小さな命だったのだ。
それからのカナの生活パターンは、劇的に変わった。
以前なら「もう一杯飲もうよ」と俺を引き止めたり、閉店ギリギリまでアンカーで粘ったりしていたカナが、飲み始めて一時間も経たないうちに時計をチラチラと気にし始めるようになった。
「あ、そろそろ帰らなきゃ。お留守番させてるから、早く帰ってあげないと」
「まだ21時だぞ?」
「だめ。寂しがってるから」
バッサリである。 俺は苦笑いしながら残りの酒をあおり、カナの自宅へと一緒に向かうのがお決まりのコースになった。
カナの家の玄関を開けると、「キャンキャン!」と黄色い歓声のような鳴き声が響く。 カナが「ただいまー!」と靴も脱ぎ散らかさんばかりの勢いでリビングへ駆け込むと、小さな茶色い毛玉が、ちぎれんばかりに尻尾を振って飛びついてきた。
「よーしよし、寂しかったねー! 」
赤ちゃん言葉全開で子犬を抱き上げ、頬ずりをするカナ。 息子が旅立ち、旦那が出て行って、がらんとしていたはずのリビングが、一瞬で温かい熱量で満たされていく。
カナはまさに、その子犬を溺愛していた。
「ほら恭介さん、散歩行くよ」
「え、俺も?」
「当たり前でしょ。ほら、リード持って」
結局、二人で夜の住宅街を並んで歩き、子犬の歩調に合わせてゆっくりと進む。 クンクンと路面を嗅ぎ回る子犬の背中を、カナは愛おしそうに見つめている。
「可愛いなぁ……本当に、私のもとに来てくれてよかった」
ぽつりと漏らしたカナの呟きには、心の底からの救いと安らぎが宿っていた。 息子を送り出し、家を失う恐怖と戦っていたカナにとって、この小さな命は、自分の寂しさを埋めてくれる何より大切な「新しい家族」なのだろう。
二人で夜風に当たりながら散歩をし、カナの家の近所で俺は立ち止まる。
「じゃあ、俺はここで」
「うん。ありがとね、散歩付き合ってくれて。ほら、おじちゃんにバイバイは?」
カナが子犬の手をちょこんと上げて見せる。 子犬はつぶらな瞳で俺を見上げ、「くぅん」と可愛らしく鳴いた。
「じゃあね」
カナと子犬が、温かい灯りのともる家の中へと消えていく。
一人取り残された夜道で、俺はポケットに手を突っ込み、ため息をひとつ吐いた。
カナが元気を取り戻したのは、間違いなく良いことだ。一人で泣いているより、ずっといい。 ……だけど。
『恭介さんは、離婚なんてできないでしょ?』
あの夜、カナが冷たく突きつけてきた言葉が頭をよぎる。 結局、俺はカナの寂しさを埋めてやることも、本当の居場所になってやることもできなかった。その役割を横からあっさりと奪っていったのは、あの小さな子犬だった。
あの小さな子犬に、猛烈に嫉妬している自分に気付いて恥ずかしくなった。
「……ははは、しょーもな」
暗い夜道で誰もいないのに毒づきながら、俺は冷え切った自分の家へとトボトボと歩き出した。 カナの「新しい日常」は走り出し、俺だけが取り残されたような、変な寂しさが足元にまとわりついていた。
子犬がカナの家にやってきてからというもの、バー「アンカー」での夜の風景も、少しずつ、けれど決定的に変わり始めていた。
「見て見て、うちの子、昨日初めてドッグラン行ったの!」
「うわ、可愛い! うちのやつなんて、他の犬見るとすぐビビっちゃってさぁ」
いつものカウンター席。 気づけばカナの周りには、新しい「飲み友達」ができていた。
アンカーに通う常連客の中に、同じように犬を飼っている女性や男性が何人かいる。 これまでは挨拶を交わす程度だった客同士が、「犬を飼い始めた」というたった一つの共通点だけで、驚くほどのスピードで距離を縮めていた。
「カナちゃんところの子、もう予防接種終わった?」
「うん、先週行ってきた! 病院で暴れるかと思ったけど、案外おとなしくてさ」
「へえ、えらいなぁ。うちなんて獣医さん噛もうとしたからね」
楽しそうに盛り上がる飼い主同士の、たわいもない会話。
スマートフォンの画面を覗き合い、愛犬の写真や動画を見せ合っては、「可愛いー!」「この顔たまらないよね」と笑い合っている。
そこには、以前の「モラハラ旦那への愚痴」や「家庭の重苦しい空気」なんて微塵もなかった。 カナはご機嫌でグラスを傾け、生き生きとした表情を見せている。
……そして俺はといえば、その輪のすぐ隣で、どこか完全に仲間外れのようになっていた。
カウンターに肘をつき、静かに水割りをあおる。 別に誰も俺を排除しようとしているわけではない。
マスターも気を利かせて俺に話を振ってくれたりするのだが、どうにも会話の波に乗れないのだ。
「恭介さん、ほら見てよこれ! 昨日散歩の途中で撮ったんだけど、超面白くない?」
カナが弾んだ声で、スマートフォンの画面を俺の顔の前に突き出してきた。 画面の中で、あの茶色い子犬が公園の落ち葉に顔を突っ込んで、尻尾をブンブンと振っている。
「……あぁ、うん。可愛いな」
俺はグラスを置かずに、生返事を返した。
正直なところ、俺はそこまで犬に興味がない。
「可愛い」と思わないわけではないし、カナの寂しさを埋めてくれたことには感謝している。けれど、犬の日常の一コマ一コマに狂喜乱舞できるほど、俺の心はピュアでもなければ犬好きでもなかった。
「ちょっと、何よその生返事。全然見てないでしょ」
カナが不満そうに眉をひそめる。
「見てるよ。落ち葉に突っ込んでんだろ」
「感情がこもってないのよ、感情が。……まあいいわ、ほら、野村さんのところのワンちゃんも見せてもらいなよ」
カナはあっさりと俺から興味を失うと、また隣の男客と犬談義に花を咲かせ始めた。
今のカナは、闇からさっさと這い出し、犬という健全な共通言語を使って、光のある場所で新しい人間関係を築き始めている。
旦那から解放され、息子を送り出し、家を失う途方もない不安の中で、カナは自分だけの「新しい世界」を着々と作り上げていた。
そして俺は、相変わらず会話のない冷めきった家に帰り、何も変えられず、ただ昔と同じ場所で酒を飲んでいる。
「……マスター、おかわり」
俺が掠れた声でグラスを差し出すと、マスターは何も言わずに静かに新しい氷を落とした。
弾むカナの笑い声と、楽しげな犬好きたちの会話。 その賑やかな輪の外側で、俺は自分がどんどん「過去の遺物」になっていくような、滑稽で冷ややかな焦燥感にじっと耐えていた。




