揺らぐ天秤
バー「アンカー」のいつものカウンター席。
薄暗い店内に低く流れるジャズと、グラスの中で氷がかすかに鳴る音。
いつもなら真っ先に俺のうかつな発言や、服についた他の女の気配なんかに鋭く噛みついてくるはずのカナが、今夜は違っていた。
どこか遠くを見るような虚ろな目で、カクテルグラスの縁を指先で静かに、意味もなく弄り続けている。
「……なぁに? 人の顔、珍しそうに見ちゃって」
俺の視線に気づいたカナが、少しだけ警戒するような目つきでこちらを睨み返してきた。
「いや、今夜は妙に大人しいからさ。嵐の前の静けさかと思って」
「失礼ね。私だって静かに飲みたい夜くらいあるわよ」
その言葉にはいつもの刺すようなトゲがない。どこか張り詰めた糸が今にも切れかけているような、不気味なほどの静けさが漂っていた。
カナがため息混じりにぽつりとこぼした一言が、大きな渦を作り始める。
「……旦那、都会のほうに単身赴任が決まったの」
「え? 旦那さんが?」
「うん。来月から」
「へえ……」
俺は思わず、間の抜けた声を出してしまった。 単身赴任。つまり、カナと旦那が離れて暮らすことになる。 呑気な笑みを浮かべかけた俺だが、カナの顔が、ちっとも嬉しそうではなかったからだ。
「……でね。高校を卒業する息子も、『俺も都会に行ってみたい!』って、旦那について行くって言い出したの」
「えっ、息子さんも?」
「そう。あの子、小さい頃からずっと大都会に憧れてたでしょ? 父親が都会に行くって聞いた瞬間、目を輝かせて『一緒に行く!』って。もうノリノリで引っ越しの準備始めてるわよ」
カナは苦笑いを浮かべていたが、その瞳の奥には冷たい諦めのようなものが深く滲んでいた。
「……止めなかったのか?」
「止める理由がないじゃない。旦那は私にはモラハラで最悪だけど、息子には昔から甘いし、給料もいいの。都会で旦那と一緒に暮らすなら、息子の進路にとっても、経済的にも何の不自由もないわ。あの子の純粋な都会への憧れを、私の都合で邪魔するわけにいかないでしょ」
カナは言葉を一度切り、冷えたグラスの表面についた結露を、細い指先でそっと拭った。
「だからね……このタイミングで離婚しようって、旦那と話し合ったの」
ドクン、と胸の奥で重い心臓の音が跳ねた。
「……離婚?」
「そう。あの人のモラハラから解放されるのは、そりゃあ清々するし嬉しいことだけどね。……旦那も離婚には納得してるんだけど、お金のこととか家財のこととか、色んないろんな問題があってすぐには進まない。でもね、お互いその方向で話を進めてる」
強気な口調。けれど、グラスを握るカナは寂しそうだ。
「いろんな手続きもあるし、時間はかかるだろうけど……私、あの家を出ることになると思う」
「……」
「息子がいなくなって、離婚して……長年住んだあの家も、なくなる」
カナの口から漏れたのは、自分を誇示する強がりではなく、生々しく剥き出しになった巨大な孤独だった。
旦那のモラハラからの解放。それはカナにとって、長年耐え忍んできた苦痛からの脱出であり、切望していたはずの自由だった。 だが、その代償としてカナの手元に残るのは、あまりにも巨大な『からっぽ』の空間だった。
手塩にかけて育ててきた息子は、輝かしい未来と都会への憧れを胸に、躊躇なく旅立っていく。 カナはたった一人でそこに取り残されるのだ。
「……あの人のモラハラから解放されるのはいいけど、息子もいなくなるとね……」
カナはポツリと言い足すと、自嘲気味に小さく笑った。
「……家がなくなったら、どうするんだよ」
俺が掠れた声で尋ねると、カナはふっと視線を落とし、消え入りそうな声で呟いた。
「さぁね。アパートでも借りて、一人で生きていくんじゃない? ……急に一人になると、ちょっと……ううん、かなり、怖いけどね」
その瞬間、俺たちの間にあった『W不倫』という対等で安全なバランスが、音を立てて崩れ去った。
今までの俺たちは、互いに既婚者という「罪」と「制約」を分け合う対等なパートナーだった。だからこそ、割り切った遊びのフリもできたし、子供じみたヤキモチや喧嘩も「可愛いもの」として処理できていた。 だが、これからは違う。
カナは、重苦しい家庭を捨て、自由になり、居場所を失い、たった一人で荒野へ踏み出そうとしている。 そして俺は——相変わらず、会話もない冷めきった家へ帰り続ける、狡くてずるい男のままだ。
俺の家には、情熱も、温かい会話も残っていない。 妻との間には、必要最低限の事務連絡以外に言葉を交わすこともなく、ただ「子供のため」という冷めた理由だけで、破綻した仮面夫婦を演じ続けている。修羅場すら起きない、冷え切った凪のような日常。 俺自身、子供の将来を考えれば離婚なんて選択肢は微塵もないし、そんなリスクを冒す気力もない。ぬるま湯のような不毛な家庭に、ダラダラと身を置き続けているだけだ。
「恭介さん……」
カナがゆっくりと顔を上げ、グラスの縁を弄りながら、すべてを見透かしたような目で俺を見つめてきた。
「私、本当に一人になっちゃうんだよ」
「寂しい」とも「助けて」とも言わない。けれど、その瞳が放つ無言の問いかけは、鋭利な刃物のように俺の胸の最も深い場所へと痛いほど突き刺さっていた。
俺はその問いから逃げるように、手元のグラスを一気に煽った。アルコールの熱さが喉を焼くが、胸の奥に広がった冷たい焦燥感は消えてくれない。
「……大丈夫だよ」
俺の口から出たのは、驚くほど軽くて、空疎な気休めの言葉だった。
「カナなら一人でもちゃんとやっていけるさ。それに……俺だって、いるんだし」
「……『いる』って、何よ」
カナの目がすっと細くなった。さっきまでの弱々しい表情が消え、いつもの冷ややかなトゲが戻ってくる。
「恭介さんは、離婚なんてできないでしょ?」
まっすぐな一言だった。 感情を荒げるでもなく、淡々と、残酷な事実として突きつけられる。
「……それは」
「分かってるよ。子供のこと思ったら、今さら家庭壊せるわけないもんね。家に帰っても奥さんと会話なんてないって言ってたけど……それでも、恭介さんには『帰る場所』がある。私には、何も無くなろうとしてる」
言い返せなかった。カナの言う通りだったからだ。 どんなに格好をつけて見せても、どんなに「味方だ」と口で言っても、俺がカナの「本当の居場所」になってやる覚悟も権利もないのだ。
「別に恭介さんに『奥さんと別れて私を選んで』なんて言うつもりはないよ。そんなの最初から期待してないし、重い女になるつもりもない。……でもね、急に一人にされると、私だってどうしていいか分からなくなりそうなの」
「カナ……」
「……もう帰る」
カナはバッサリと会話を打ち切ると、カナは店を出ていく。
「……送るよ」
俺が言うと、カナは足を止めずに首を振った。
「いい。タクシー拾って帰るから。恭介さんも、早く帰りなさいよ。怪しまれるでしょ」
皮肉めいた言い方。だが、その声には怒りではなく、どこか哀愁に満ちた諦めが混ざっていた。
タクシーを止め、カナはすっと後部座席に乗り込んだ。
「じゃあね」
カナが窓越しに小さく手を振る。タクシーは夜の街の雑踏の中へと消えていき、赤く光るテールランプだけが遠ざかっていく。
俺は再び「アンカー」の扉を開けた。カラリン、とドアベルが鳴り、俺はさっきまでカナと座っていたカウンターの同じ席に腰を下ろした。
「……マスター、聞こえてた?」
カウンターの奥でグラスを丁寧に磨いていたマスターが、手を止めずにフッと視線を向けた。
「うん」
短い返事。静かな店内に、マスターの声だけが淡々と響く。
「……どうなるのかな?」
俺は自分でも驚くほど頼りない声で呟いていた。 マスターは磨き終えたグラスを光にかざして確認してから、それを棚へと静かに戻した。
「どうなるんだろうね。そういう経験がないから、何も言えないな。……いろいろ事情もあるだろうしね」
冷たいわけではない。ただ、一線を画したマスターらしい客観的な言葉だった。 俺は苦笑いしながら、手元の空のグラスを見つめた。
「そうなんだけどさ。少なからず関わってるから、いろいろ考えてしまう」
俺が胸の奥のモヤモヤを吐き出すように言うと、マスターは新しい氷をグラスに落とし、手際よくボトルから液体を注いだ。カランと涼やかな音が立つ。
「まぁ、カナちゃんなら、大丈夫でしょう」
マスターは完成したグラスを俺の前に静かに置いた。 その言葉には、妙な説得力と、カナという女の強さを知っている者特有の温かさがあった。
俺はグラスを受け取り、ゆっくりと口をつけた。
カナは一人になり、家を失い、新しい人生へと足を踏み出そうとしている。 そして俺は、何も捨てられず、会話のない冷めきった家庭へと帰っていくだけの、情けない男のままここにいる。
カナちゃんなら、大丈夫、か。そうだな、カナなら大丈夫だ。そんな柔な女じゃない。負けず嫌いの強い女なんだ。俺はもう一度自分に言い聞かせるように呟き、静かなバーの片隅で、一人静かにグラスを傾け続けた。




