決別
今日は早い時間にスナックへ顔を出し、ママと軽く二杯ほど飲んでから店を出た。
最近は、店を出る間際の「ハグ」はすっかり定番になっていた。最初は動揺して逃げ帰っていた俺も、今ではそれを受け止め、どこかその甘い毒を求めて店に通うようになってしまっていた。
俺は次の店——いつもの行きつけの『アンカー』へと向かう。
重い扉を開けると、カウンターの奥でカナがこちらに気づいて顔を上げた。
「おつかれ、恭介さん」
「おう、おつかれ」
いつものように隣の席に腰を下ろし、マスターにウイスキーを注文する。カナとの他愛もない会話を始めようとした、その時だった。
ふいに、カナが鼻をピクッと動かした。そのまま俺の方へスーッと顔を近づけてくると、首元あたりをクックッと匂い込み始める。
「……な、なに?」
「なんか、香水臭いね。」
カナはゆっくりと体を元に戻すと、腕を組んで、じっと俺の目を覗き込んできた。その瞳には、あきらかに怪しむ色が宿っている。
「うん、やっぱ香水の匂いがするね。女の人の香水」
鋭利な「女の勘」を剥き出しにした目が、俺の逃げ道を塞いでいく。
「あぁ……電車に乗ったからかな。満員電車」
俺は脳みそをフル回転させて、咄嗟に言葉をひねり出した。
「は? そんなので匂いとかつく?」
カナは鼻で笑うように吐き捨てると、眉間にしわを寄せた。一筋縄ではいかない目が俺を射抜いている。
「つくよ! 女性の香水って匂いがきついんだよ。混んでて身体が触れ合ったりしたら、一発で移るって」
必死に冷静さを装いながら説得にかかるが、カナの疑念はちっとも晴れない。どころか、口元に冷ややかな笑みさえ浮かべ始めた。
「はいはい。浮気決定だね。この人、絶対浮気してるわ」
「そんなわけないだろ!」
心臓が嫌な汗をかいている。確かに浮気はしていないが半分当たっているだけに、余計に声が上ずってしまう。
その時、タイミング良くマスターが注文したグラスを持ってやってきた。
俺は藁にもすがる思いで、マスターに向かってほぼ懇願するような顔を向けた。目線で『頼む、合わせてくれ!』と必死のサインを送る。
「マスター! 電車とか人混みで、香水の匂いがつくことってあるよね!?」
突然振られたマスターは、俺の悲壮感漂う顔と、隣で腕を組んで冷ややかな視線を送るカナの姿を交互に見やった。
そして、すべてを察したように静かにグラスをカウンターに置くと、完璧なポーカーフェイスで頷いてくれた。
「あぁ……あるね。あれは困るねぇ」
神様、仏様、マスター様だった。俺はこれみよがしに胸を張り、カナに向き直る。
「ほらな! あるんだって!」
「そうなの? うーん……」
マスターの援護射撃のおかげで、カナは少しだけ口を尖らせ、不満そうに腕を組んだまま考え込み始めた。
「ねぇ、もし浮気するんだったら私と別れた後にしてよね」
「うん、そうするよ」
「は? は? は?」
カナの顔から一瞬で不機嫌さが消え、代わりに信じられないものを見るような、目が点になった表情へと変わった。雰囲気がガラリと一変する。狂気が全速力で向かってきた。
「え、なに? 今なんて言ったの?」
「え? いや、『浮気するなら別れた後にしろ』って言われたから、そうするよって……」
「『そうするよ』って何!? じゃあ何、『別れて他の女に乗り換える』っていう選択肢が今リアルにあるってこと!? 浮気相手候補がいるから、その免罪符として受け取ったわけ!?」
「ち、違う! そういう意味じゃなくて——」
怒りのボイラーに火がついてしまったのだ。カナからすれば、「浮気なんかしないでね」というヤキモチ混じりの牽制だったのに、俺の適当な「うん、そうするよ」のせいで、【気になる女がいるから、お前と別れてそっちに行く宣言】へと恐ろしい変換をされてしまったらしい。
「はー……ウケる。いや、マジで引くわ。香水の匂いさせてきた挙句にそれ? 隠す気すらないわけ?」
「待って待って、変な意味じゃないから! 『浮気なんて絶対にしないから安心して』って言いたかったんだよ! 慌てて変な返事になっちゃっただけで、『別れてから〜』とかじゃなくて、そもそも浮気自体があり得ないって意味!」
俺は身を乗り出して必死に弁明した。
チラッと横を見ると、マスターが氷をグラスに入れながら、何とも言えない苦笑いを浮かべて明後日の方向を向いていた。絶対心の中で『恭介くん、そりゃアカンわ』と思っている顔だ。
「『そうするよ』って言ったよね? 」
「だからそれは言葉のあやで——」
「言い訳はいいから」
俺の言葉を遮るカナの速さと、微動だにしない表情。俺の喉元にぴったりと突きつけられているような感覚だ。
「私ね、恭介さんが最近ちょっと変だなーって思ってたの。仕事が忙しいのかなって思ってた。でも、甘い香水の匂いさせてきて、私の前で『別れてから浮気する』って答えた。……それが恭介さんの本音なんだね?」
「違う! 本当に違うんだって!」
「何が違うの? どこが違うの? じゃあ、その香水は誰の? 電車でついた? ふーん、じゃあ今からその電車、一緒に乗ってみる? どのくらい匂いがつくか試してみようよ」
淡々と、狂気を孕んだロジックで俺をじわじわと追い詰めてくる。逃げ場を完全に塞がれた俺の額から、だらりと冷や汗が垂れた。
「ねえ、聞いてる? 」
カナがすっと手を伸ばし、俺の胸元——さっきママの香水が染み付いたジャケットの生地を、細い指先で強く掴んだ。
「私と別れた後なら、何してもいいんだもんね? じゃあさ、今ここで別れたら、恭介さんは今すぐその香水の女のところに行くの?」
逃げ場のない圧迫感の中で、俺の頭のどこかが冷えていくのが分かった。
……辟易していた。
最初は焦っていたし、申し訳なさもあった。だが、ただの失言や言葉のあやにここまで固執され、理詰めで追い詰められると、もう弁明する気力すら失われていく。
ただの揚げ足取りだ。 いつもの我がままならまだしも、この底意地の悪い追及に付き合うのは、もう限界だった。
「……わかったよ。わかったから」
俺は深いため息を吐きながら、胸元を掴んでいたカナの細い手を、そっと、しかし拒絶の意志を込めて払いのけた。
表情から完全に熱が引いた俺の態度に、カナがぴくりと眉を動かす。
「ちょっと、なに……!?」
俺はカナの言葉を遮るように立ち上がると、カウンターの上に手頃な札を何枚か置いた。
「マスター、ごちそうさま。残りは取っといて」
「待ってよ恭介さん。話、まだ終わってないんだけど?」
声を荒げることすら、自分のプライドが許さないのだろう。静かで、けれど氷のように冷たいトゲを含んだ声が、背中に突き刺さる。
だが俺は立ち止まらなかった。振り向くこともせず、そのまま『アンカー』の重い扉を押し開けた。
カチャン、と扉が閉まり、静寂が訪れる。
夜風が、火照った顔と苛立った頭を冷やしていく。 叫び合って言い争うよりもタチの悪い、冷え切った空気。自分の中で、カナに対する何かが切れた音がした。
ただの喧嘩じゃない。ちょっとした決別だった。
ポケットに手を突っ込み、あてもなく夜の街を歩き出す。ジャケットの襟元からは、まだあのスナックのママの、甘く熟した香水の匂いが漂っていた。
(……はぁ)
重いため息が漏れる。理不尽な追及、無駄なエネルギーの消費、そして後味の悪さ。男としての疲弊が、ズシリと肩にのしかかる。
気づけば俺の足は、先ほど出たばかりの雑居ビルへと向かっていた。
扉の前に立つ。 カナとの関係も投げ出し、結局俺が向かったのは、あの甘い毒で翻弄してくるママの元だった。
深呼吸を一つして、ドアノブに手をかける。
カギはまだ、開いていた。
店内に入ると、ママが驚いたように顔を上げた。
「あら……? 恭介さん?」
落とされた照明の下、急な再訪に目を丸くするママ。 俺は力なく苦笑いを浮かべながら、カウンターの席へと歩み寄った。
「……ママ。すみません、また来ちゃいました」
「ふふ、いいのよ。ドアが開いてる間は。でもなんだか、さっき出て行った時と違って疲れ果てたっていうか、魂を抜かれたみたいな顔」
ママは理由を一切追及しようとせず、手際よくアイスペールから氷を拾い上げると、カランと綺麗な音を立ててグラスに落とした。琥珀色のウイスキーが注がれ、ゆっくりと指先でグラスが滑らされて俺の目の前へと差し出される。
「……彼女と、喧嘩してきちゃって」
俺がぽつりと溢すと、ママは「あらま」と少し意外そうに首をかしげ、それから愛おしそうにクスクスと小さく笑った。その笑い声には、若い恋人同士の小競り合いを遠くから見守るような、大人の余裕がたっぷりとしみ込んでいた。
「本当に、なんてことない言葉のあやだったのに、それを完全に揚げ足取りされて。ああでもないこうでもないと徹底的に詰め寄られて……。これ以上付き合ってられないと思って、店を出てきちゃいました」
勝手に最悪のストーリーを作り上げて俺を罪人扱いしてきたあの横暴さ。 そして、逃げ場をなくして追い詰めてきたあの無機質な空気感。
ママは静かにウイスキーのグラスを軽く回し、カラリと氷を鳴らすと、ふっと愛おしそうな、どこかわやらかい笑みを浮かべた。
「彼女ね、あなたのことが好きで好きでたまらないのよ」
唐突に投げかけられた言葉に、俺は思わず眉をひそめた。グラスを弄る手が止まる。
「いやいや、ママ、見てないからですよ。あれは好きとかそういう可愛いもんじゃありませんよ。ただ俺をコントロールしたくて、優位に立ちたかっただけです」
「ふふふ。男の人って、どうしてそう表面の言葉と態度しか見ないのかしらね」
ママはクスクスと可笑しそうに笑うと、グラスを置いて、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「あのね、恭介さん。女の子がね、そんな風に男の人を追い詰めたり、トゲのある言い方をして攻め立ててくるときってね……本当は、理由なんてなんだっていいのよ」
「……どういうことですか?」
「そうね、『あなたの気持ちが自分から離れてるんじゃないか』って、不安で不安でたまらないだけなのよ」
「不安……?」
「そう。自分でも気づかないうちに、恭介さんの心がどこか遠くに行っちゃいそうに見えたんじゃないかしら。あるいは、あなたが何か隠し事をしてるような気がして、胸がざわざわして耐えられなくなったの。女の子はね、そういう直感にすごく敏鋭なのよ」
ママはそう言って、どこか懐かしむような目で遠くを見た。
「素直に『寂しい』とか『私だけを見て』なんて言えなくなっちゃうのよ。プライドもあるし、傷つくのが怖いから。だから、トゲをいっぱい立てて、相手を責め立てることでしか自分の感情を表現できなくなっちゃうのよ。」
俺が適当な生返事をして、自分の気持ちを軽んじたように感じたからこそ、必死で立ち上がらせた不器用すぎる防衛本能だったのか。
「若い女の子のそういう不器用さってね、素直じゃなくて、尖ってて、男の人からしたら本当に面倒くさく見えるでしょう? でもね……それだけ恭介さんに夢中なのよ。自分の感情をコントロールできなくなるくらい、あなたのことが大好きなのよ。おばさんの私から見たらね、羨ましいくらい可愛らしい姿よ」
「……」
「男の人がね、そうやって『面倒くさい』って黙って逃げ出しちゃうと、女の子はもっと不安になるでしょう?『あぁ、やっぱり私のことなんてどうでもいいんだ』って思って、さらにトゲを強くして、どんどん孤独になっていっちゃう。あなたが大人になって、ちゃんと受け止めてあげなきゃ駄目でしょ?」
ママの言葉は、決して俺を責めるトゲを持っていなかった。けれど、逃げ出してきた俺の男としてのプライドを、これ以上ないくらい優しく、そして痛いほど正確に突いていた。
揚げ足取りだと決めつけ、辟易して、自分だけ被害者ぶって店を飛び出してきた。不安でトゲを立てていたカナを放置して、自分だけが安全なこの場所に逃げ込んできていたのだ。
「……なんか、わかったような気がします」
俺が自嘲気味にそう呟くと、ママは満足そうに微笑んだ。
「気づけたなら、それで十分!」
ママはそう言うと、俺が半分も飲んでいないウイスキーのグラスを、スーッと手元へ引き寄せた。
「え?」
「ふふ、今日の恭介さんのお相手は、ここまで。もう帰りなさい。こんなところで私とお酒飲んでる場合じゃないでしょ?」
ママはクスッと笑いながらカウンターを出る。
「ほら、立ち上がって。彼女が待ってるわよ」
引き留められることもなく、甘やかされすぎることもなく、ただ正しい場所へと背中を押してくれる。
「またおいで。でも次は、彼女とちゃんと仲直りした報告を聞かせてね」
店を出てポケットからスマホを取り出す。 ロック画面にカナからのLINE通知が1通だけ表示されていた。
『どこ行ったのバカ。お腹すいた』
怒りマークのスタンプと共に送られてきた、たった一行のメッセージ。
素直に「寂しい」とも「戻ってきて」とも言えない、カナなりの、必死で不器用な『助けて』のサイン。
『アンカー』の重い扉を押し開けると、店内のカウチ席には人影がなく、静まり返っていた。
カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターが、俺の顔を見るなり、ほっとしたように、けれど「やれやれ」と言いたげな顔で目配せをした。
その視線の先——カウンターの端の席に、背中を丸めて座っている小さな人影があった。
カナだった。
俺が店を出て行った時の姿勢のまま、手元に置かれたカクテルグラスのアイスをストローでカツカツと突いている。その背中からは、声をかけづらいほどの孤立感が漂っていた。
俺がゆっくりと近づくと、ストローを突く手がピタリと止まった。
ゆっくりと振り向いたカナの顔は、強がりと、不安と、傷ついたプライドが入り混じっていた。
「……なに? 戻ってきたの」
小さく、掠れた声。さっきの氷のような鋭さはどこにもなかった。
俺はカナの隣の席に腰を下ろした。カナはぷいっと横を向き、俺と目を合わせようとしない。
「あぁ」
「……別に。恭介さんがどこに行こうと、私の知ったことじゃないし」
「知ったことじゃないなら、『お腹すいた』なんてLINE送ってこないだろ」
そう言うと、カナの肩が跳ねた。顔を真っ赤にして、バッと俺を睨みつけてくる。
「な、なに真に受けてんの!? あれはマスターに気まずい思いさせないために、適当に送っただけだし! 勘違いしないでよ!」
強気な言葉で武装して俺を突っぱねてくる。折れたら負けだと言わんばかりのその態度に、俺も一瞬イラッとしかけたが——ふと、さっきママに言われた言葉が頭をよぎった。
(……トゲを立てて、強がってるだけなんだよ)
強気な言葉の裏にある、不器用すぎる不安。そう思うと、言い返す気がスッと失せていった。
俺が急に黙り込むと、カナは勝ち誇るでもなく、不審そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……何よ。急に黙って」
お互いに素直になれない不器用な空気が、一瞬で店内を包み込む。
少しの間。
カチ、とマスターが氷を弄る音だけが静かに響いた。
カナはふっと視線を落とすと、小さくて寂しそうな顔になった。不器用な強がりの鎧が剥がれ落ちた、ただの素の表情。
「……ねぇ」
ぽつりと、掠れた声が漏れる。
「……本当に、浮気してない?」
指先でグラスを弄りながら、消え入りそうな声で俺に尋ねてくるカナ。その横顔には、ただ俺の言葉を信じたいという切実な不安だけが浮かんでいた。
俺は深く息を吐くと、カナの頭にポンと手を置いた。
「するわけないだろ」
乱暴に髪を撫でまわすと、カナは「ちょっと、ボサボサになる!」と抗議しながらも、どこか安心したように俺の手を振り払わなかった。
「ほら、何か食べに行こう。お腹すいたんだろ?」
「奢ってよ。高級なやつ」
「マスター、すいません。騒がしくして」
マスターの顔には「まったく、世話の焼けるカップルだ」と苦笑いが浮かんでいた。
「いいですよ。いってらっしゃい」
俺が苦笑いして立ち上がると、カナも少しだけ得意気な、いつもの強気な笑顔を取り戻して席を立った。
胸元からは、まだあのママの店の甘い香水の匂いがかすかに漂っていたが、カナはもうそれを追及することなく、当然のように俺の腕にギュッと腕を絡めてきたのだった。




