熟れた果実
「おい恭介、もう一軒付き合え。いい店があるんだよ」
金曜の夜、すでに二軒ハシゴしていい加減帰りたかった俺は、上司の強引な誘いを断りきれず、繁華街の少し外れた雑居ビルの階段を下りていた。
看板には達筆な文字で店名が書かれている。若手が集まるような騒がしい居酒屋やキャバクラではなく、どこか昔ながらの匂いが漂うスナックだった。
「ここ、俺の行きつけでさ。落ち着くんだよ」
上司が思い扉を押すと、カウベルの乾いた音が響いた。店内は落ち着いた照明で満たされており、ほのかなアロマと薄いタバコの匂いが混ざり合った独特の空気が漂っている。客はパラパラと数人いる程度で、カラオケの重低音が静かに響いていた。
「あら、いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ」
カウンターの奥から聞こえてきたのは、少し低めで品のある、落ち着いた女性の声だった。
俺より10歳ほど年上だろうか。40代後半くらいに見えるその女性は、いかにもスナックのママといった風情の、少し胸元の開いた艶やかな衣装を身にまとっていた。
上品な言葉遣いとは裏腹に、胸元や肩から覗く肌の張り、そして全身から溢れ出る大人のフェロモンが、狭い店内に満ちている。
「ママ、連れてきたよ。うちの優秀なやつ」
「まあ、恭介さんとおっしゃるのね。初めまして」
ママは丁寧な敬語で微笑み、俺の目をじっと見つめながら頭を下げた。その立ち振る舞い一つひとつに隙がなく、けれど嫌みな堅苦しさはない。
上司は席に着くやいなや「ママ、いつものね!」と機嫌よくボトルを出させ、すぐに隣の常連客とカラオケの選曲で盛り上がり始めた。
残された俺の目の前に、ママが静かにグラスを置く。
「恭介さん、お酒は強い方ですか?」
「あ、はい。まあ、人並みには……」
「ふふ、そんなに緊張なさらないでくださいね。取って食べたりしませんから」
グラスにウイスキーを注ぎながら、ママはふっと目を細めた。
「なんだか……少し疲れてます?」
少し肌を見せた艶やかな装いと、上品で丁寧な敬語のギャップ。その裏にある、人生の酸いも甘いも噛み分けた大人の包容力。この店が醸し出す空気に呑み込まれようとしていた。
翌週の平日の昼下がり。
俺は仕事の用先へ向かう途中、自宅近くの商店街を歩いていた。
日差しを遮るように日傘を差し、品のある膝下丈のワンピースをまとった女性に声をかけられた。
「あら、恭介さん?」
少し低めで、鈴が鳴るような心地よい声に名前を呼ばれ、俺は足を止めた。振り返ると、日傘を少し上げて微笑む女性と目が合う。
「あ……えっと……」
頭の中で必死に記憶をたどるが、一致する人物が出てこない。俺の呆けたような反応を見た彼女は、ふっとおかしそうに目元を緩めた。
「ふふ、気づいていただけないかしら。先日はお店にお越しいただいて、ありがとうございました」
「あ……! ママ……さん!?」
思わず声が出た。
目の前にいるのは、あの夜、胸元の開いた艶やかな衣装と濃密なフェロモンで俺を圧倒した、あのスナックのママだった。
お店の時の妖艶な空気とは打って変わり、今日の彼女は品のあるナチュラルな装い。化粧も薄く、まるで良家の上品な奥様といった雰囲気だ。
「申し訳ありません、雰囲気があまりにも違っていたので……」
「いいんですよ。お店の時は少し派手に作ってますから……ふふ、気づかなくて当然ですよ」
ママはクスリと笑うと、小さく日傘を傾けた。
「恭介さん、この辺りにお住まいなんですか?」
「ええ、目と鼻の先なんです」
「まあ、そうなのね。実は私も、目と鼻の先なんです。こんなに近くにお住まいだったなんて、奇遇ですね」
そう言って、ママは少し小首を傾げた。普段着の清楚な装いだからこそ、会話のふとした合間に見せるしなやかな仕草や大人の色気が、かえって生々しく際立って見える。
「またいつでも、お気軽にお店にいらしてくださいね。一人でいらしても、大歓迎ですから」
丁寧な敬語と、どこか思わせぶりな微笑み。
「はい、また寄らせてもらいます」
「ええ、お待ちしてますね」
日傘をすっと差し直し、歩き去っていくママの後姿を、俺はしばらく見送っていた。
数日後の夜。
俺は吸い寄せられるように、あの雑居ビルの階段を下りていた。
上司の付き合いでも何でもない。ただ一人、あの扉を押し開ける。
カウベルが軽やかな音を立てると、カウンターの奥から「いらっしゃいませ」と声がした。
「あら、恭介さん」
俺の顔を見るなり、ママの表情がパッと華やぐ。
今夜のママは、胸元が品よく開いたトップスに、膝上丈の短いミニスカート。先日近所で見た清楚な雰囲気とは一転して、店内の灯りの中で圧倒的な大人のフェロモンを放っていた。
「本当に来てくださったのね。おひとり?」
「ええ、今日は一人で……。迷惑じゃなかったですか」
「そんなわけないでしょう。すごく嬉しいわ」
カウンター越しに向かい合い、ママが手際よくウイスキーのグラスを作ってくれる。品のある丁寧な敬語で世間話を交わしながらも、ふとした瞬間に上目遣いで視線を合わせてくるその仕草に、俺の胸は少しずつ高鳴っていた。
時間が経つにつれ、店内いた他の客が一人、また一人と会計を済ませて出ていく。気づけば、店内に残っている客は俺だけになっていた。
時計の針はすでに閉店時間を回っている。
「もう誰も来ないでしょうし、閉めちゃいましょうか」
ママは入り口へ歩いていくと、カチャンと静かな音を立てて鍵を閉め、表の看板の灯りを落とした。店内の照明がぐっと落ち、急に濃密な静寂が二人を包み込む。
「恭介さんは、まだまだゆっくり飲んでいってくださいね」
そう言って、ママはカウンターの奥へ戻るのではなく、くるりと回り込んで俺のすぐ隣の席にスッと腰を下ろした。
甘く熟した香水の匂いが、一気に鼻腔をくすぐる。
隣に座ったことで、ミニスカートから伸びるストッキングに包まれた肉付きの良い太ももが、俺の目線のすぐ脇に滑り込んできた。薄いストッキング越しに透ける張りのある肌と艶脚が、落ちた照明の中で生々しい色気を放っている。
意識しないように必死で前を向こうとするが、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。
「……恭介さん?」
ふいに名前を呼ばれ、ハッと顔を上げると、ママはグラスを傾けながら上目遣いで俺を見ていた。その薄い唇の端が、妖しくニヤリと持ち上がる。
「気になります? 太い足ですけどね、ふふふ」
完璧に見抜かれていた。俺は慌てて喉を鳴らし、取り繕うように言葉を返す。
「い、いや……そんなことないです。すごく……お綺麗ですよ」
「まあ。恭介さんみたいな若い人にそんなこと言っていただけるなんて、嬉しいですよ。若い方は楽しそうでいいですね……彼女はいらっしゃるの?」
上品な敬語で、さらりとプライベートを踏み込んでくる。
「まあ、一応……」
俺が言葉を濁すと、ママは満足そうに目を細め、どこか思わせぶりな溜息をついた。
「素敵ですね。私も若い彼氏がいればいいんですけどね。恭介さんは私みたいなおばさんには興味ないでしょう?」
「そんなことないですよ」
自虐を装った誘惑に、俺は生真面目に答えてしまう。
喋りながらも、俺の視線は無意識に、ストッキングに包まれた肉付きの良い太ももへといってしまう。バレないように一瞬だけ視線を落としているつもりだったが、ママの余裕のある笑みを見れば、完全に察せられているのは明白だった。男の浅はかな視線さえも、ママは手のひらの上でもてあそんでいる。
上品な言葉遣いと、そこから漂う甘い毒。
この空気は危険すぎる。頭の中で理性が警告を鳴らし、俺はグラスを置いた。
「……ママ、今夜は……そろそろ帰ります」
俺が立ち上がると、ママは引き留めるでもなく、すべてを受け止めるような微笑みを浮かべた。
「あら。残念ね」
ママは入り口まで見送り、カチャンと鍵を開けてくれた。
「引き止めてごめんなさいね。……また、すぐに来てくださいね? 待ってますから」
そう言ってそっと添えられたママの手の温もりが、店を出たあともずっと、俺の肌に残っていた。
それからというもの、俺は週に一度のペースで、そのスナックの扉を叩くようになっていた。
普段の俺は酒を飲んでもあまり崩れない方だが、この店でママと二人きりになると、不思議と口が滑らかになった。
「……でさ、クライアントが直前になって仕様変更したいとか言い出してさ。こっちは最初からスケジュール組んでるのに、本当に参るよ」
カナの我儘や仕事のストレス、日常のちょっとした愚痴。カウンター越しに、あるいは客が引いた後の店内で、俺は最近起こった出来事を一生懸命に喋っていた。
ママはグラスを傾けながら、
「うん、うん」「まあ……それは大変でしたね」
と、絶妙なタイミングで心地よい相槌を打ってくれる。ただ肯定してくれるだけでなく、包み込むような温かい眼差しで話を聞いてくれるその空間が、あまりにも居心地が良かった。
ウイスキーの酔いが心地よく頭を痺れさせ、俺はさらに熱を込めて語っていた。
「ほんとそうなんだよ。だから俺もさ、次はちゃんと釘を刺しておこうと思って……でさ、母さん——」
言った瞬間、自分の口から出た言葉に固まった。
(……は?)
小学生が学校で、女の先生に向かってうっかり「お母さん」と言い間違えてしまう、あの現象。
完全にそれだった。居心地の良さと酔いのせいで警戒心がゼロになり、あろうことか、10歳以上年上であろうママさんに向かって「母さん」と呼んでしまったのだ。
ママも一瞬、「あら」というように丸く目を小さく見開いた。
俺の顔が一気に火照っていくのが自分でも分かった。猛烈な恥ずかしさが押し寄せてきて、酔いが一瞬で吹き飛ぶ。
「あ……す、すみません! 間違えました、違くて……その、居心地が良すぎて……!」
慌てて取り繕おうとする俺を見て、ママは一瞬ポカンとした後、ふっと目元を和ませた。
「うふふ……」
上品に口元に手を当て、クスクスと嬉しそうに喉を鳴らして笑う。
「全然いいですよ。どうぞ、『お母さん』って呼んでください」
「もっとお母さんに話を聞かせてください」
ママはカウンター越しにそっと身を乗り出し、悪戯っぽく上目遣いで微笑んでくる。その熟した胸元と上品な色気が視界に飛び込んできて、俺の顔はさらに熱くなった。
「いや、ママ、勘弁してくださいよ……!」
閉店後のサシ飲みも、もうすっかり日常の延長のようになっていた。
カチャンとカギを閉める音。表の看板の灯りが消え、少し落とされた照明の中で、ママがくるりとカウンターを回って俺の隣に腰を下ろす。
いつものように、ストッキングに包まれた肉付きの良い太ももが、俺の目線のすぐ脇に滑り込んでくる。
「……でね、昔付き合ってた人がちょっと破天荒な人でね。大変だったのよ?」
ママはグラスを傾けながら、若い頃の苦労話やちょっとした恋愛の失敗談を、ふふっと笑いながら話してくれる。
「水商売なんて長くやってるとね、色んな男の人を見てきたけれど……恭介さんみたいに素直に話を聞いてくれる人は、ほんと貴重だわ」
「そうですか? 俺はただ、ママの話が面白いから聞いてるだけですよ」
そんな他愛もない会話を交わしながらも、俺の視線は無意識のうちにチラチラと動いてしまう。
グラスを口元に運ぶたびにわずかに覗く胸元の丸みや、脚を組み替える瞬間にキュッと張るストッキング越しの太もも。男として、本能的に目が吸い寄せられてしまうのは仕方のないことだった。
若い女の子のようなピチピチとした瑞々しさがあるわけじゃない。正直なところ、「今すぐこの人を抱きたい」とか、そういう直情的な欲望を抱いているわけでもなかった。
抱きたいわけじゃない。でも、男としてどうしても見てしまう。
ママがふっと笑みを浮かべ、スカートの上に両手を置き、その艶やかな太ももを隠すようにしたのだ。
(……あ、気づかれてる!)
俺は心臓が跳ね上がり、慌てて視線をグラスに戻す。しかしママは、怒るでもなく、困るでもなく、ただ楽しそうにクスクスと喉を鳴らした。
「ふふふ……恭介さん、いつも見てるわね」
「あ、いや……その……!」
「興味、あるの?」
上品な敬語が外れ、少しだけ素のトーンになる。そのギャップが、妙に生々しかった。
「いや、すいません……なんていうか……はは……」
苦笑いして誤魔化そうとする俺の顔を、ママは覗き込むように見つめてきた。
「ううん、いいのよ。男の人だもんね。そういう目で見てくれるのは、おばさんとしても嬉しいわ」
「そんな、おばさんだなんて……」
「私も、恭介さんに興味あるわよ」
グラスを持った手が止まる。ママは悪戯っぽく微笑み、上半身を少しだけこちらへ寄せてきた。
「いやいや、からかわないでくださいよ……!」
完全に圧倒されていた。男として意識してしまっているところを見透かされた上に、さらに踏み込んでこられた。大人の余裕に振り回され、俺の頭はすっかりパニックだった。
(まずい、これ以上ここにいたら本当にヤバい)
「……俺、ちょっと飲みすぎたみたいなので……今日は帰ります!」
俺は逃げるように立ち上がった。
「あら、そう? ふふふ、はーい。今日もありがとう」
ママは引き留めることなく、余裕たっぷりの笑みで立ち上がり、入り口まで見送ってくれた。
ドアの鍵を開け、俺が「おやすみなさい」と逃げるように店を出ようとした、その瞬間。
「あ、待って」
背後から腕を引かれた。
「ハグしましょ」
豊かな胸の膨らみが、俺の胸板に押し当てられる。服越しでも分かる、熟した女の柔らかい肉感。ママの腕が俺の背中に回り、ぎゅっと密着してきた。
戸惑いながらも、俺はママの背中を軽く抱きしめ返す。
その瞬間、ママの唇が俺の耳元にスッと近づく。
「また来てね。わかった?」
吐息混じりの、熱を帯びた囁き。完全に俺を逃がさないための、呪いのような一言だった。
「は、はい……!」
ドアを押し開けて逃げるように階段を駆け上がった。




