女心と秋の空
市街地を抜け、緑が濃い山道をいくつか越えると、フロントガラスの向こうに一気に視界が開けた。
窓を少し開けると、生ぬるい風と共に、徐々に潮の香りが強く鼻をくすぐる。
「あ、海見えてきた!」
助手席のカナが嬉しそうに声を上げる。
だが、ナビの到着予定時刻を見て俺は少し苦笑した。
渋滞を見越して早めに出発したのが災いしたか、目的地には、いくら何でも早く着きすぎてしまった。
車を停めて周りを見渡してみるが、ここは下調べしてきた通りの静かな港町だ。
これといった観光地でもないので、時間を潰せそうな場所は特に見当たらない。
「早すぎちゃったね。どうする?」
「そうだな、ちょっとその辺流してみるか」
車をゆっくりと走らせていると、住宅や古い倉庫が並ぶ通りの一角に、少し目を引く建物が見つかった。古民家を改装したような、いかにも田舎のこだわりが詰まっていそうな佇まいのベーグル屋だ。
こんな場所に、と言っては失礼だが、お洒落な看板がひっそりと掲げられている。
「あそこ、ベーグル屋さんだって。ちょっと寄ってみない?」
カナが身を乗り出す。お昼の前に小腹を満たすにはちょうどいいかもしれない。
俺はウィンカーを出し、その店の駐車場へと車を滑り込ませた。
店内に入ると、外観のイメージ通り、白壁と木の温もりを活かしたお洒落な内装が広がっていた。カウンターに置かれたメニューには、地元の素材にこだわった素朴なプレーンや、全粒粉を使った体に優しそうなベーグルがいくつか並んでいる。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた店員のお姉さんの声に、俺は思わず息を呑んだ。
俺の目は、一瞬で釘付けになった。
カナを超える美人だ。都会の洗練された雰囲気とは違う、どこか凛とした透明感がある。こんな綺麗な人が、失礼ながらこんな静かな田舎の店にいるなんて。
注文を済ませると、お姉さんは物静かな所作で奥へと引き返していった。どうしても気になってしまい、作業する彼女の姿をチラチラと盗み見てしまう。
だが、その視線はすぐにカナに気づかれた。
「綺麗な人だね」
低く、トゲのある声。あからさまな嫌味だった。
「……そうかな?」
俺は平静を装ってとぼけてみせる。
それからカナと適当な世間話を合わせるものの、意識はどうしても奥のお姉さんに向いてしまう。
会話の合間に、無意識のうちにまたチラチラと目で追ってしまった。
「ちょっと、見過ぎだよ!」
カナが声を潜めながらも、明らかに怒り気味に睨みつけてきた。
「そんなに気になるなら、私が代わりに声かけてラインでも聞いてあげようか?」
完全に怒っている。あの面倒なスイッチがまた入りかけていた。
ベーグルが運ばれてくると、カナは「さっさと食べて出よう」と言わんばかりの勢いで、味わう間もなく口に運んでいく。
「行こ」
食べ終えるやいなや、カナはそっけなく言い残して席を立ち、店を出ていってしまった。
車に乗り込むと同時、カナの口から一気に愚痴が溢れ出す。
「ねえ、おかしいよね? せっかくのデートなのに」
「……ちょっと見ただけだろ?」
「ちょっとじゃないよね? 穴が開くほど見てたじゃん」
車内の空気が一気に重くなる。ここで引きずるのは得策じゃない。俺はハンドルを握りながら、少し呆れたような素振りで言った。
「いや……俺の好みから言ったら、カナのほうが全然綺麗だけどな」
「当たり前でしょ」
間髪入れずに返ってきた言葉。迷いも躊躇も一切ない。
カナのその圧倒的な負けず嫌いと、根拠のない無邪気な自信に、俺は思わず毒気を抜かれてしまった。
「あんまり他の人をジロジロ見ないでよ」
「ああ」
ふいっと窓の外を向きながらも、声のトゲはすっかり消えている。どこまでも単純で、どこまでも強気なやつだ。
俺は苦笑いしながらアクセルを踏み込んだ。冷や汗をかかされたが、これでなんとか機嫌も持ち直したようだ。
目的地の港町に着く頃には、ちょうどいい時間になっていた。今回の目当ては、海のすぐそばにある浜焼きの有名店だ。
プレハブ風のオープンな店内には、潮の香りと香ばしい醤油の匂いが充満している。テーブルの中央に据えられたガスコンロの網の上に、サザエやホタテ、大きなハマグリを並べて火をつけた。
ジュウジュウと音を立てて貝汁が溢れ出し、香ばしい匂いが一気に舞い上がる。
「んー! 美味しい! やっぱり採れたては違うね」
熱々のホタテをハフハフと頬張りながら、カナが顔をほころばせる。さっきまでのトゲトゲした空気は完全に消え、穏やかな時間が流れていた。
熱々の貝を突っつきながら、仕事のことや最近観たドラマのことなど、他愛もない世間話を交わす。そんな会話の合間に、カナがふとトングを止め、網の上の火を見つめながら口を開いた。
「ねえ……私達付き合って何年になるんだっけ?」
「ん?……もう結構長いよな」
「そうだよね。もう長いね」
ぽつりとつぶやいたカナは、少しだけ遠い目をして、それから俺の顔を覗き込んできた。
「このまま、ずっと続くのかなぁ?」
「さあな、どうだろね」
俺が言葉を濁すと、カナは自嘲気味にクスッと笑った。
「そうだよね。奥さんがいるから、結婚はできないもんね」
「そうだね」
重い事実が、香ばしい煙の中に溶けていく。不倫という関係の期限。
俺が何も言えずにいると、カナは真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
「ねえ。ずっと私と一緒にいる覚悟、ある?」
試すような、けれどどこか真剣な響きを孕んだ問いかけ。俺は少し視線を泳がせながら、問いで返した。
「カナはどうなんだよ?」
「んー……どうかなぁ?」
カナは含みのある不敵な笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。その笑みに一瞬だけゾクッとしたものを感じたが、彼女はすぐにいつもの表情に戻ると、箸で小さく切り分けたホタテを挟み上げた。
「ほら、はい、あーん」
「やめろよ、人前で」
俺はあからさまに嫌そうな顔をして、体を少し引いた。周りを見渡せば、家族連れや地元の漁師っぽい客が普通にメシを食っている。
こんな大衆食堂の浜焼き屋で、男に「あーん」なんてやめてほしい。
だが、カナは箸を引こうとしなかった。それどころか、身を乗り出すようにしてホタテを俺の口元へ近づけてくる。
「なんでよ、いいじゃない。誰も見てないって」
「見てるだろ、普通に。頼むからそういうのは車の中とか、部屋だけにしろって」
「えー、冷たいなぁ。恭介さんって、外だとすぐそうやって気取るよね。」
カナは唇を尖らせながらも、どこか楽しそうだ。俺が「人目の目立つ場所でのベタベタ」を極端に嫌がるのを知っていて、わざと煽っている節がある。
「気取ってねぇよ。マナーの問題だろ、マナーの」
「はいはい、マナーね。じゃあマナーとして、私が焼いてあげたホタテを食べてよ」
逃げ場を塞ぐように、グイッと箸が突き出される。
周りの視線を勝手に意識してしまう。ここで押し問答を続けて目立つ方が余計に地獄だ。俺は観念して、小さく溜息をつくと、素早く口を開けてホタテを噛み取った。
熱々のバター醤油の味が口いっぱいに広がったが、俺はわざと苦い顔をして、グラスの冷えたお茶を流し込んだ。カナはそれを見て、満足そうにクスクスと笑っている。
風向きが変わったのか、網から上がるモクモクとした煙が、容赦なくカナの方へと流れ始めていた。
「うわ、煙い! ちょっと恭介さん、煙が全部こっち来るんだけど!そっち座ってもいい?」
カナが立ち上がり、俺たちはテーブルの同じ側に並んで座る形になった。距離が一段と近くなる。肩が触れ合うほどの近さで、カナの甘い匂いと磯の香りが混ざり合う。
その時、俺の中でさっきの「あーん」の嫌がらせに対する、小さなイタズラ心が疼き出した。さっきの仕返しだ。
「カナ」
「ん?」
俺はカナの耳元に顔を近づけ、低い声で囁いた。
「キスしてもいい?」
「は? 人前でしょ? 何言ってるのよ」
カナは目を丸くして、本気で焦った声を上げた。
さっきまで俺をからかっていた余裕は一瞬で消え去っている。俺はニヤニヤしながら、さっきカナが俺に言った言葉をそのまま返してやった。
「いいじゃん、仲良しカップルみたいで。外だとすぐそうやって気取るよな?」
「はーーー?」
カナは慌てて周りをキョロキョロと見回した。向かいのテーブルの客や、忙しそうに動き回る店員の視線を気にしているのが丸わかりだ。
「ダメだって。それこそマナーの問題でしょ! 」
パニックになりかけているカナのテーブルの上の手に、俺はそっと自分の手を重ねた。指を絡めるようにして、じわじわと体温を伝えていく。
「え、ちょっと……」
カナの顔が、一気に耳まで真っ赤に染まった。照れくさそうに視線を泳がせ、手を振り払おうとする力もどこか弱い。俺がこうして強引に距離を詰めてくること自体は、嬉しそうだ。照れと、嬉しさと、わずかに残った理性がカナの中で激しく葛藤している。
「ははは」
「もぅ、やめてよ……!」
真っ赤になって照れるカナの反応に、俺は大満足で声を上げて笑った。
お腹も心も満たされ、店を出た俺たちは駐車場に停めてあった車へと戻った。
ドアを閉め、車内が静かな個室へと変わった瞬間、隣の助手席から衣擦れの音がした。
「ほら、さっきの続きは?」
見ると、カナが俺の方へ体を乗り出し、おねだりするように少し唇を突き出して、ギュッと目を瞑っていた。照れくささを隠すような、けれどどこか本気の混ざった可愛いおねだり。
人前であれだけ照れていたくせに、二人きりになった途端にこれだ。本当に調子が良いというか、分かりやすい奴だ。
俺は相手にせず、
「よし、行くか!」
とエンジンをかける。
「もうっ」
膨れるカナを笑い飛ばしながら、車を走らせた。
車窓の向こうには、キラキラと太陽の光を反射する午後の海が広がっていた。次は、カナが楽しみにしている温泉だ。潮風を切る車内で、俺たちはまた穏やかなドライブを再開した。
日帰り温泉の看板が見え、俺は駐車場に車を滑り込ませた。
和風の落ち着いた館内に入り、フロントで受付けを済ませようとすると、年配の女性スタッフが穏やかな笑顔で案内してくれた。
「ただいまの時間は、ご夫婦でしたら貸切の家族風呂もすぐにご用意できますよ」
『《《ご夫婦》》』——その一言が響いた瞬間、隣でカナの雰囲気がガラリと変わった。
カナの「幸せスイッチ」が、カチリと押されたのが分かった。外では人目を気にするくせに、こういう「公にパートナーとして認められたような響き」には滅法弱い。
「はい! お願いします!」
俺が口を開くより早く、カナは満面の笑みで即答していた。
案内されたのは、庭が見渡せるこじんまりとした木造りの家族風呂だった。利用時間は30分。
日中の光が差し込む明るい浴室に、カナは少しだけ照れくさそうな素振りを見せながらも、一緒に湯船に浸かった。
「はぁ〜……気持ちいい……」
肩まで湯に浸かり、心地よい熱さに二人で深く息を吐き出す。海風で少し冷えた体に、温かい湯がじわじわと染み渡っていく。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
湯煙の向こうで、カナの瞳に妖しい光が灯る。
さっきまでの無邪気な照れは消え去り、大人の色気を孕んだ「攻めのモード」へと切り替わっていた。
カナはたまに、こうして欲望に素直な雰囲気を出して迫ってくることがある。俺にとって、彼女が今どのモードにいるのかを瞬時に察するのは極めて重要だ。
波を立てながら、カナが湯船の中でしなやかに動き、俺の膝の上に跨がってきた。
しっとりと濡れた肌が密着し、湯気混じりの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ねぇ……」
濡れた髪を耳にかけながら、カナが低く耳元で囁く。
「ちょっと待てよ。今じゃないだろ……」
「いいじゃない」
カナの指先が俺の首筋を撫で上げる。俺は苦笑いしながら、彼女の目を見つめた。
「さっきので興奮したのか?」
「うん。ダメ?」
首を少し傾げ、上目遣いで挑発するように微笑むカナ。素直すぎる反応に毒気を抜かれそうになるが、ここは30分限定の家族風呂だ。
「今はダメだろ。落ち着こう」
俺はカナの腰に手を回し、優しく、けれどしっかりと体を引き離して湯船の縁へと戻した。
その瞬間、カナの表情から一気に甘さが消えた。
男の都合なんて知ったこっちゃない。自分がその気になって誘ったのに、あっさり断られた女の不機嫌さというのは、まあ実に分かりやすい。
(私がせっかくその気になって誘ってあげてんのに、なによ……!)
顔にそう書いてある。プライドもあれば、単純に欲求を突っぱねられた不満もあるのだろう。湯船の端で膝を抱え、プイと明後日の方向を向いたカナの背中からは、隠しきれない怒りのオーラが立ち上っていた。
だが、これで諦めるようなカナではない。
「ねぇー」
数秒の沈黙の後、カナは不機嫌な顔のまま、再び湯の中でじわりと距離を詰めてきた。
不満げな表情とは裏腹に、しなやかな腕が俺の首に巻きつく。湯中で濡れた太ももが俺の腰を挟み込むようにすり寄せられ、豊かな胸の感触がダイレクトに胸元へ押し付けられた。
あからさまにベタベタと身体を密着させ、俺の体温や反応を探るように指先が肌を滑る。意地でも俺をその気にさせて、自分のペースに引きずり込もうという魂胆だ。
正直、目の前にこんな美女がいて、湯船の中で全身を密着させられれば男としてグラつくのは当たり前だ。
(……いや、ダメだ)
ここは貸切とはいえ、他の利用客もいるのだ。俺は理性を必死にかき集めると、首に回されたカナの手首を掴み、心を鬼にして強引にその体を押し返した。
「だから、ダメだって。時間もないし、ここじゃ落ち着かないだろ」
きっぱりと撥ね退け、俺は立ち上がって湯船から上がった。
カナの望みを完全に断ち切り、振り切った瞬間だった。
湯船に取り残されたカナの顔が、怒りと恥ずかしさで一瞬で真っ赤に染まった。さっきまでの不機嫌モードを遥かに超える、本格的な「激怒モード」への突入だ。
「……もういい!」
バシャッと派手に湯を上げて俺に背を向け、カナは湯船の端で本格的に固まってしまった。せっかくの家族風呂の温もりも虚しく、浴室には冷ややかな沈黙と重苦しい空気が満ち始めていた。
湯から上がり、着替えを済ませて車に戻っても、車内の空気は凍りついたままだった。
カナは助手席に深く腰掛け、腕を組んで明後日の方向を睨みつけている。ドアを閉める音すら、心なしかいつもより乱暴だ。
だが、かといってカナの口から「せっかく私が誘ったのに断るなんてどういうことよ!」なんて直接的な文句が出てくるはずもない。
そんなことを言えば、自分がただの「はしたない女」になってしまうというプライドがあるからだ。
大人の女としての矜持が、直接的な愚痴を突っ張ねている。
だからこそ、言葉にできない分だけ余計に態度に出てしまうのだろう。
俺は苦笑いを噛み殺しながらエンジンをかけ、チラリと横目で見やった。
「なんで怒ってるんだよ?」
「別に。」
低く、温度のない返答。絶対に「別に」じゃない顔をしている。
「いや、どう見ても不機嫌だろ」
「いつもこんな感じだけど?」
ふいっと完全に窓の方を向き、頑なにこちらと目を合わせようとしない。
自分で仕掛けておいて、断られたらプライドを傷つけられて拗ねる。大人の色気を振りかざしたかと思えば、次の瞬間には子供のように分かりやすく不機嫌になる。
(たく……本当にめんどくさい奴)
けれど、その不器用なプライドと素直になれない強がりが、俺にはなんだかおかしく、可愛く思えた。
「ふふ、カナは可愛いやつだな」
「……は? 意味わかんない」
ボソッと言い捨てたカナの耳たぶが、夕日に照らされたからではなく、少しだけ赤くなっているのを俺は見逃さなかった。俺はニヤリと笑いながら、ゆっくりと車を滑り出させた。




