タイトロープ
いつもの店のいつものカウンター。
グラスの氷を指先で弄びながら、カナはいつになく刺々しい口調で吐き出していた。
「本当に男って最低。きりがないわ」
職場の友達が彼氏に浮気されたらしく、スマホの偽装アプリだの、通知を隠す手口だの、生々しい修羅場の話を一通り聞かされた。
俺は「へえ、今のやつらはそんなこと考えてんのか」と、ウイスキーを口に含みながら他人事として聞いていたのだが——突如、カナがグラスを置く音が静かに響いた。
横を向くと、冷ややかな視線が真っ直ぐ俺を射抜いている。
「ねえ。恭介さんも他の女の人と遊んでる? 誰かと連絡してる?」
「は? やるわけないだろ。そんな器用なことできるかよ」
吐き捨てたその瞬間、カウンターに置いた俺のスマホの画面が、場の空気を切り裂くように不意に白く光った。
まずいぞ。今じゃないだろ——!
背中に嫌な汗が一気に噴き出す。だが、俺は顔に出さず、あえて画面を無視してウイスキーのグラスに手を伸ばした。
「通知、きてるよ?」
カナの視線がスマホへと注がれる。
「ん? うん。大丈夫」
「大丈夫って? 見ないの? 見ればいいじゃない」
さっきまでの浮気話の流れもあり、カナの目は完全に俺を疑っている。
その声には明確な険が含まれていた。
「いや、大丈夫だから」
「え? なんで? 私がいるから見られないの?」
カナの目がすっと細くなる。これは賭けだ。もしここでLINEだったりすれば、それこそ「誰から?」と執拗に追及される流れになる。
もう、逃げられない。
俺は腹を括り、努めて平然とした動作でスマホを手に取ってロックを解除した。
画面に表示されていたのは、何の変哲もないチェーンメールだった。
心臓の激しい鼓動を必死に抑え込みながら、画面をカナの方へと軽く向ける。
「ほらな。チェーンメールだろ? 見なくていいよ」
「……あ、本当だ。なんだ」
カナは拍子抜けしたように息を吐き、視線を戻した。ギリギリの綱渡り。もしこれが美里からのメッセージだったら、その場で全てが終わっていた。
「怪しい。ちょっとスマホ見せて?」
「なんでだよ」
「え? 見せられないの? 嘘でしょ?」
大袈裟に煽ってくるカナ。
だが、俺は内心で鼻で笑っていた。大丈夫だ。俺は狡猾でクレバーな男だ。
美里とのやり取りは、終わったあとに毎回すべて削除している。証拠なんて残るわけがない。
俺は何もないと分かっていながら、渋々といった体でスマホを差し出した。
「ほらな? 何もないだろ」
カナは俺の画面を覗き込み、本当になにもないことを確認した——が、それで引き下がるような今日のカナではなかった。
むしろ、画面に何も残っていないことが、彼女の疑心暗鬼をさらに燃え上がらせたようだった。
「じゃあさ、友達リスト見せて?」
「は? なんでだよ」
「いいじゃん、何もやましいことないなら」
カナは俺の手からスマホを半ば奪い取るようにして、LINEの友達リストを開いた。そして、画面をスクロールしながら、登録されている女性の名前を一人一人、容赦なく指でなぞり始めた。
「これ誰?」
「……それ? 前の職場の、仕事関係の人」
「ふーん。じゃあ、この人は?」
「大学時代の同級生。もう何年も連絡とってないよ」
「ふーん……。じゃあ、この『メイ』って子は? かわいい名前だね」
「それもただの仕事の取引先だって。プロジェクトの連絡用にグループじゃなくて個人のラインで繋がっただけ」
「ふーん……。じゃあ、この『美里』って人は?」
スクロールするカナの指が、その名前の上でピタリと止まった。ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。だが、ここでコンマ一秒でも動揺を見せれば、すべてが崩壊する。
「ああ、それも仕事関係の人だよ。新しい案件のやり取りで、どうしても個人のラインが必要になってさ」
俺は極めて平然とした、ビジネスライクな声を意識して返した。
「ふーん……仕事関係の人ね。」
カナは画面を見つめたまま、値踏みするような視線を名前の文字列に注いでいる。疑い始めるとキリがない。ただの仕事相手という俺の言葉を、今のカナは額面通りには受け取らない。すべてを浮気の証拠に結びつけようとするその瞳の奥には、薄暗い、軽い狂気のようなものが確かに顔を覗かせていた。
「じゃあ、昨日何してたの?」
「昨日? 普通に仕事して、家で寝てたよ」
「じゃあ一昨日は? 夕方、返信がすごく遅かったよね。何してたの?」
「一昨日って……そんなの、トイレに入ってたか何かだろ」
「嘘。前もそうやって、ちょっとしたタイミングで連絡つかなくなることあった。あの時も怪しかった。
男って、そうやって証拠だけは綺麗に消して、何もないフリするのが得意なんだから。絶対に浮気してる。怪しいよね? 絶対そうだよ」
疑い始めるとキリがない。
何より、目の前のカナがひどく面倒だった。その瞳は、冗談や拗ねているのとは明らかに違っていた。自分の推測を完全に真実だと信じ込んでいる。
矢継ぎ早に飛んでくる容赦のない追及に、俺はだんだんと、本気でめんどくさくなってきた。何が悲しくて、別の男の浮気話のトバッチリでここまで異常な犯人扱いされなきゃいけないんだ。
言われっぱなしなのも癪だから、少し皮肉を混ぜてそう言い返してみた。
「カナだって何してるか分からないだろ? 俺の知らないところでさ」
何気ないカウンターのつもりだった。だが、その瞬間、カナの表情が一変した。
「はぁ? そんなわけないでしょ? 本気で言ってるの?」
少し怒り出したカナの声は、さっきまでの粘着質なトーンから一転して、低く尖ったものに変わる。自分が疑われる側になった途端、絵に描いたような逆ギレだった。
「変な言いがかりつけないでよ」
本当にめんどくさい。
他人のことは重箱の隅をつつくように些細なことまで疑って狂気を覗かせるくせに、自分が同じ土俵に立たされるとプライドが許さないらしい。
俺はスマホを回収しながら、うんざりした息を隠さずに言い返す。
「じゃあ、カナは見せられるのかよ?」
「見せられるよー、どうぞ!」
ついさっきの怒りはどこへやら、今度は悪びれもせず、軽い調子で自分のスマホを差し出してくる。その豹変ぶりもまた、どこか不気味だった。
その瞬間、俺の脳裏に最悪な記憶が蘇った。——あの時だ。昔、カナのスマホの画面で、生々しい浮気の証拠を見てしまった、あの最悪の夜の記憶。あの時に味わった血の気が引くような感覚が、一気に胸の奥を駆け上がる。
差し出されたスマホを前に、俺の手が止まる。
「いや、まぁ、いいわ」
「えー、なんでよ。見なよ。私は何も隠してないもん」
カナは自分の提案に何もおかしなところはないと言わんばかりの顔をしている。
俺は黙ってそれを受け流し、ウイスキーに口をつけた。カナはそんな俺の態度すらも、逃げているように見えたのだろう。
「じゃあさ、お互いの位置がわかるアプリ入れようよ。どこにいるかわかるし安心だよね」
心臓が跳ねる。メッセージは消せても、リアルタイムの位置情報は誤魔化せない。それを入れられたら、美里と一緒にいる時間や場所がすべてカナに筒抜けになる。これは完全に詰みだ——。
一瞬の、ほんのわずかな沈黙。カウンターの距離の近さだ、カナはその隙を見逃さなかった。椅子をごとりと鳴らし、さらに詰め寄ってくる。
「何、その間。なんか困ることでもあるわけ?」
俺はカナを少し睨む。じっと、言葉を挟まずに、ただ不気味さを滲ませた視線を真っ直ぐにぶつけた。
「なに? 逆ギレ? なんでそんなに怒るの?」
カナが少し気圧されたように、けれど反発するように声を上げてくる。俺はそこから、さらにトーンを落とし、本気で傷ついたような、呆れたような声を重ねた。
「信用されてないことが嫌なんだよ」
「え?」
「もう長く付き合ってるよな? それなのに信用されてないって、どういうことだよ? じゃあ、俺もカナのこと今からもう信用しないからな」
子供っぽい屁理屈のような、けれど決定的な拒絶のカード。
まさかそんなふうに返されるとは思っていなかったのだろう。俺の子供っぽい屁理屈にまんまと言いくるめられて、何が正解なのかよく分からないまま、なんとなく納得させられているような、そんな複雑な顔をした。
「信用してるよ、ごめんね……」
消え入りそうな声でそう呟くと、カナはすっかり小さくなって、それ以上追及してこなくなった。
「でも、女って彼氏が浮気したら匂いでわかるんだから」
突然、とんでもない理論をぶちかましてきた。
「そうなの?」
「わかるよ! 他に女がいるな、とか、なんとなくわかるもんだよ! 女の勘は鋭いんだから!」
本気で、一点の曇りもない顔で言い切るカナを見て、俺は思わず悲しくなった。
お前の言うその鋭い「女の勘」とやらは、まるで機能していない。
(カナ、ごめんな)
心の中でそっと呟く。俺が今まさに美里との関係を隠し通し、終わるたびにメッセージを完璧に消去して、位置情報アプリの罠すら跳ね除けたという事実を、彼女の自慢の「勘」はこれっぽっちも捉えられていない。
一点の疑いもなく俺を信じようとしているその真っ直ぐな姿が、自分のついている嘘の深さを際立たせ、酷く胸に刺さった。
「今度の休み、日帰りでどっか行こうか。」
グラスに残ったウイスキーを見つめながら、俺はふと、そんな提案を口にしていた。
「え?」
カナが、驚いたように顔を上げる。
「ほら、最近ずっと忙しくてどこも行ってないだろ。美味いもんでも食いに行こう。カナの行きたいところでいいからさ」
それは、ただのその場しのぎの言葉ではなかった。
目の前で自分の「女の勘」を信じ込み、俺の嘘にまんまと言いくるめられて安心しているカナを見ていると、どうしようもない申し訳なさが胸の奥を突いたのだ。自分の狡猾さが嫌になり、これはせめてもの贖罪のつもりでもあった。
自分のついている嘘を帳消しにできるわけではないけれど、今の俺にできる精一杯の、彼女への向き合い方だった。
「ほんと?行こう! 」
さっきまでのトゲトゲしさは完全に消え去り、カナの顔にパッと明るい笑みが咲く。
「あ、あそこがいい! 前にテレビか雑誌で見た浜焼き屋さん。海沿いの街の、安くて美味しいって話題になってたところ!」
カナは思い出したように声を弾ませ、「前にも話したじゃん?」と言わんばかりの笑顔を向けてくる。
「近くに温泉もあるみたいだし、帰りにそこも寄る。決定ね!」
もうすっかり行く気満々で、スマホを操作しながら無邪気にこれからの予定を話し始めている。その楽しそうな横顔を見つめながら、俺は少しだけ、救われたような気持ちになっていた。
「ああ、あの店か。分かった、行こう。じゃあ、詳しいルートと温泉、調べといてよ」
「うん! 任せて!」
解けない嘘を抱えたまま、俺たちはまた、いつもの二人へと戻っていく。バーの静かなBGMが、予定を語るカナのはしゃいだ声を、優しく包み込んでいた。




