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あなたは帰る場所を知らない  作者: KYSK


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33/108

すっぴんでの生還

あのすれ違いの日から、数日後のことだ。


普通の、なんてことのない平日の深夜。時計の針は午前0時を回ろうとしていた。そろそろ寝ようかと思っていた矢先、手元のスマホが短く震えた。画面を見ると、カナからだった。


『今から少しだけ会えない?』


スタンプも絵文字もない、素っ気ないほど短い文面。けれど、こんな時間に連絡をしてくること自体が、彼女にしてはひどく珍しかった。俺は深く理由を尋ねることなく、『いいよ』とだけ返し、スウェットの上に軽く上着を羽織って車のキーを掴んだ。


静まり返った深夜の街を走り、指定された少し暗い通りの脇に車を止めてハザードを焚く。数分もしないうちに、暗闇からすっと人影が現れ、助手席のドアが開いた。


滑り込んできたカナは、パッと見はいつも通りに見えた。けれど、街灯の薄明かりに照らされた横顔はすっぴんで、心なしか目元が少し腫れているように見える。


「ごめんね、こんな時間に」


「いや、大丈夫だけど」


カチャリとドアが閉まり、車内が静寂に包まれる。カナはシートに深く身体を預けたまま、しばらく何も言わずに窓の外の暗闇をじっと眺めていた。俺もあえて何も聞かず、ダッシュボードの時計が刻む数字をただ見つめていた。


静けさの中で、カナがぽつり、ぽつりと話し始めた。


「……また言われちゃった」


その声は驚くほど平坦で、乾いていた。


「あの人、自分勝手な理屈をずーっと淡々と押し付けてくる。お前がどれだけ間違っているか、どれだけ家族に迷惑をかけているかっていう、あの人だけの基準、さも私が全部悪いみたいに攻め立ててくる……」


カナは自嘲気味に、小さく息を吐き出す。


「向こうの勝手な意見なのに、逃げ道のないように言葉を詰められる。ただ黙って、私が悪いのかなって思いながら聞いてるしかなくて……」


声を荒らげるわけでもなく、暴力を振るうわけでもない。ただ、冷徹で身勝手な論理ですべてを支配しようとする、典型的なモラハラだった。密室で何時間もそれを浴びせられ続ける。それは外からは決して見えない、けれど確実に心を削り殺していく。


「ほんとに……もう嫌だ」


泣き叫ぶわけでもなく、ただ疲れ切ったようにカナは呟いた。その一言の重みが、狭い車内にずっしりと沈み込んでいく。


「……そっか」


俺はそれだけ言って、ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。白く濁った煙がフロントガラスにぶつかり、じわじわと車内に広がっていく。


ボロボロになって目の前にいるカナの肩を抱き寄せ、今すぐその苦しみから救い出してやりたい。そんな衝動が胸の奥で燻っているのは確かだった。だが、それと同時に、冷徹なまでの現実感が俺の思考にブレーキをかける。


他人の俺が、そこまで口を出していいものなのか。


どんなに冷え切っていようが、どれだけ歪んでいようが、独自の『家庭』という名の閉ざされた城だ。外側からは窺い知れない、夫婦にしか分からない歴史や、それぞれ家庭内のルールというものがあるだろう。俺はどこまでいっても、しょせん部外者なのだ。


「別れてしまえよ」と、口で言うのは簡単だろう。


もしこれがドラマや小説なら、男らしく「そんな家、今すぐ出てこい」と言い放つのが正解なのかもしれない。だが、現実はそんなに簡単なものではないのだ。


離婚という選択をすれば、それに関わる全ての人に影響が出る。何より、あの多感な中学生の息子の人生を大きく変えてしまうことになる。転校や名字の変化、親の離婚という事実が、あの生意気盛りで繊細な年齢の少年にどれだけの重荷になるか。それを、何の責任も取れない他人がどうこう言うことではないだろう。


カナ自身だって、そんなことは百も承知のはずだ。だからこそ、どれだけ自分勝手な理屈を押し付けられても、あの家を踏み止まり、母親としての日常を必死に繋ぎ止めている。そう考えると、安易なアドバイスはただの無責任な綺麗事でしかないように思えた。


「カナはどうしたいの?」


俺は静かに、けれど真っ直ぐに問いかけた。


「……わからない」


カナは窓の外を見つめたまま、小さく首を振った。その声には何の抑揚もなく、ただ深い疲労感だけが滲んでいる。どうしたいかも、どうすべきかも、もう考える気力すら残っていないのだろう。


「俺にできることはある?」


今の俺に、彼女の家庭の問題を根本から解決する力はない。それでも、部外者なりに何か差し伸べられる手があるなら、と思っての言葉だった。


「ちょっとだけ一緒にいて」


カナはゆっくりとこちらに顔を向けると、消え入りそうな声でそう言った。


「わかった」


俺が短く答えると、カナは安心したように小さく息を吐き、再びシートに身体を預けた。


街灯の薄明かりに照らされたその姿を見つめながら、俺は彼女の、今まで見たこともないような『弱い部分』を目の当たりにしていた。


いつもなら、思い通りにいかないと少し拗ねてみせたり、天然な発言でこちらを調子狂わせたりする、あの生命力に溢れたカナ。けれど今の彼女には、いつもの覇気がまるでない。心にかかった重圧のせいで、その華奢な身体がいつもよりさらに少し小さく、脆いものに見えた。


家では必死に母親としての役割をこなし、あの生意気盛りの息子の前で平静を装っている分、ここではもう、自分を支えるだけの力も残っていないのだろう。


会話が途切れ、ふたたび車内に静寂が戻る。ただ時間だけが静かに流れていった。


どれくらいそうしていただろうか。カナが、胸の奥に溜まった澱をすべて吐き出すように、深く、長い息を吐き出した。


「……こんなこと言ってても仕方ないよね! ごめんね、恭介さん!」


突然、カナがパンッと自分の両手を叩いて、弾けたような声をあげた。驚いて隣を見ると、彼女は無理やり口角を上げて、いつもの笑顔を作ろうとしている。腫れた目のままで、必死に自分に元気を注ぎ込もうとするその姿が、痛々しいほど健気だった。


「やっぱり楽しい方がいいよね! うん、もう終わり! この話はこれでおしまい!」


そう言って、カナはわざとらしく自分の頭を左右に振って見せた。心の中のドロドロした感情を、強引に笑顔の奥へ押し込もうとしているのが痛いほど伝わってくる。俺にこれ以上心配をかけまいとする、彼女なりの、精一杯の優しさだった。


そんなカナの健気な強がりを見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられる。今の彼女に、まともな慰めや同情を注いでも、きっとあの重い現実を反芻させるだけだ。彼女をあの冷え切った家庭の呪縛から一瞬でも引き剥がすには、くだらない日常の空気に引きずり戻すしかないんじゃないか。


俺の頭の中に、いつものちょっとした悪戯心が芽生えていた。


俺は黙ってシフトレバーをドライブに入れ、静かにアクセルを踏み込んだ。行き先を告げぬまま、俺たちがいつも飲んでいる、あの賑やかな繁華街の真ん中へと車を滑り込ませる。


「どこ行くの……?」


歓楽街は相変わらずギラギラとしたネオンに彩られ、独特の熱気を孕んでいた。客を待つタクシーや歩行者で溢れ返っており、車はなかなか前へ進まない。


最徐行でゆっくりと進んでいると、前方の歩道に、見知った顔が男二人で歩いているのが見えた。


シートに深く背を預け、まだぼんやりと外を眺めていたカナが、ハッと気づいてこちらを向く。その瞬間、歩道の男の一人がこちらの車に気づき、「おっ!」という顔をして手を挙げた。


「え、ちょっと待って! 待って!!」


カナは血相を変え、咄嗟に両手で顔を覆い隠した。そう、今のカナはすっぴんなのだ。普段、完璧にメイクをして凛と佇んでいる彼女にとって、知り合いのいる街ですっぴんを晒されるのは、何よりも耐え難いことに違いない。旦那への恐怖で頭がいっぱいだったはずの彼女の意識が、一瞬で「女のプライド」へと引っ繰り返ったのが分かった。


俺はわざと運転席の窓を少し開け、ゆっくりと車を進める。


「いいじゃん。いつもと変わらないよ、可愛いって」


「お世辞はいいから! 早く行って!」


「そう言われてもさ、渋滞してるから仕方ないだろ?」


「もうっ!」


カナは小さく身を縮め、両手でしっかりと顔を隠したまま逆方向を向き固まっている。窓の外から「恭介、お疲れー」と声が聞こえ、俺は「うっす」とだけ短く手を振り返した。すれ違いざま、仲間の一人が助手席で必死に顔を隠している女の存在に気づき、不思議そうに首を傾げているのが見えた。


ひどい。自分でもひどい男だと思う。


だが、今のカナは、車に乗ってきたばかりの時の彼女とは明らかに違っていた。本気で怒るわけでもなく、苦笑いで恥ずかしがりながら怒っている。


「ほんとに無理だって! 速く! 速く!」


「すっぴんでもほとんど変わらないよ。俺が言うんだから間違いないよ」


「何言ってるの、私、今すごいブスになってるでしょ!」


いつもは「私、綺麗でしょ?」とでも言いたげに自信に溢れているカナが、先ほどとは全く違った意味で小さくなっている。モラハラに怯えて縮こまっていたあの痛々しい姿ではなく、乙女心の恥ずかしさから身をすくめている、そんな小ささだ。


耳まで少し赤くしながら縮こまっている。その人間らしい体温が、車内の空気を少しずつ、いつもの色に塗り替えていくようだった。


ようやく繁華街のネオンを抜け、車は静かな夜道へと戻った。


「ひどいじゃないの!」


それまで必死に顔を隠していたカナが、ようやく両手を下ろして、ぷんぷんと怒ったように俺を睨みつけてきた。


「どうして? いつものカナと変わらないよ?」


「そういうのはいいから!」


本気で嫌がっているというよりは、すっかり恥ずかしさでパニックになっていた、というような調子だ。


「必死に顔を隠してたな。ウケる。またやろうな」


俺がわざと面白がってそう言うと、カナは眉をひそめて、今度こそ強く釘を刺してきた。


「もう二度とやらないで!」


そう憤慨するカナの頬は、まだほんのりと赤みが差したままだ。深夜に車へ乗り込んできたときの、あの消え入りそうで壊れてしまいそうだった面影はもうどこにもない。いつもの、俺のよく知るカナがそこにちゃんと戻っていた。


「わかった、わかった。もうやらないよ」


俺はハンドルを握り直しながら、ふと思いついた言葉を口にする。


「でも、俺にはすっぴん見せてるじゃん?」


カナはまだ納得がいかない様子で、ふいっとそっぽを向いた。


「恭介さんはいいの。もう何度も見てるでしょ」


「そうだね。ま、それ以外も全部見てるけどな」


わざとからかうようにトーンを落として言うと、カナはハッとしたように、自分の胸のあたりを両手で隠すようにして俺を睨みつけてきた。


「おじさん、最低」


感情の消えたような、ひどく冷たい声。けれど、その引き締まった視線の奥には、いつものカナの強さが完全に宿っていた。


「ははは」


俺が声を上げて笑うと、カナはそれ以上追及するでもなく、呆れたように息を吐いた。


「はぁ、はいはい」


そう呟きながらシートに深く背中を預ける彼女の横顔には、もう先ほどまでの張り詰めた空気はなかった。


また一つ、高い山を二人で越えた。そんな気がした。


山を越えるたびに、二人だけのルールが一つ増える。そうやって形のない決め事や、二人だけの秘密が増えていくたびに、俺たちの関係はより深く、誰も触れられない特別なものへと育っていくのだろう。


車内には、先ほどまでの重苦しい沈黙とは違う、どこか穏やかで少し間の抜けた、心地のいい静けさが戻っていた。

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