魅力
目が覚めると、時計の針はもう昼を回っていた。遅い朝食兼昼食を二人で穏やかに食べ、俺は美里の部屋を後にした。
しばらく車を走らせ、見覚えのあるいつもの通りへと差し掛かった、その時だった。
前方の歩道を、こちらに向かって走ってくる一台の自転車が目に入った。見間違うはずない
――カナだ
ブレーキを踏む足がわずかに強くなる。すれ違う、まさにその瞬間。フロントガラス越しに、カナがふっとこちらに視線を向けた。
あ。
お互いの目が、完全に合った。カナは自転車のペダルを漕ぐ足を止め、驚いたように目を見開いている。俺もまた、ハンドルを握ったまま、一瞬だけ息をすることすら忘れて硬直してしまった。バックミラーに目をやると、カナは制服姿のまま自転車を止め、サドルの上に跨ったまま、じっと去り行く俺の車の方を振り返って見つめていた。
直後にカナから『今すれ違ったよね?何してるの?』とLINEが飛んできた。
俺は赤信号で車を止めると、まるで息を吐くように嘘のメッセージを打ち込んだ。『子供を送った帰りだよ』少しの沈黙の後、画面に表示されたのは『そっか、お疲れ様』という短い返信。仕事中のカナの凛とした美しさにハッとさせられながらも、ひとまず言い訳が通ったことに俺は小さく胸を撫で下ろした。
――だが、奇跡というか、奇妙な偶然はそれで終わりではなかった。
その数時間後、俺が会社の近くの歩道を歩いていた時のことだ。向こうから歩いてくる二人組の姿に、俺は思わず足を止めた。
カナだ。すでに仕事を終えたのか私服に着替えている。
彼女のすぐ側を歩いているのは、カナよりも少しだけ背の低い、中学生くらいの男の子だった。男の子は気怠そうにスマホを見ながら、隣で話しかけているカナに対して、「あー」「別に」と、いかにもめんどくさそうな態度で生返事を返している。
あ。
本日二度目の、至近距離での遭遇。カナも俺に気づき、ハッとしたように目を見開いた。
思春期の息子を連れて買い物か何かをしている、本物の母親としてのカナがいる。
息子の方は、母親の知り合いらしき俺の存在にすら気づかず、鬱陶しそうに歩調を早めている。どこの家庭でも、この年頃の男の子なんてみんな同じだ。親と一緒に歩くこと自体が気恥ずかしくて、つっけんどんになってしまうんだろう。そんな息子の背中を、どこか小言を言いたげに追いかけるカナの姿があった。
ここで声をかければ、お互いの領域に深く踏み込みすぎてしまう。察した俺たちは、瞬時に無言の「大人のルール」を発動させた。
足を止めることもなく、驚きの表情をすっと日常の仮面で覆い隠す。そしてすれ違い様、他人のフリをするわけでもなく、ただ小さく、互いに目礼を交わした。その絶妙な距離感が、なんだか妙に生々しかった。
その日の夜。俺はカナと合流し、いつもの店でグラスを傾けていた。お酒が入ってすっかりプライベートの顔に戻ったカナは、どこか高揚した様子で身を乗り出してきた。
「ねえ、今日、二回もすれ違うって凄くない!? あんなにたくさん人がいるのに、偶然すれ違うって本当に奇跡だよね!」
目をキラキラ輝かせながら、純粋に運命を感じたかのように嬉しそうに語るカナ。その無邪気な笑顔を見つめながら、俺はグラスの縁に視線を落とした。
(その偶然が、時に地獄への入り口になることもあるだろう……)
俺は平然を装いながら、「まあ、確かにそうかもな」と彼女の世間話に付き合っていた。
すると突然、カナがグラスを置き、じっと俺の目を覗き込んできた。
「ねえ、恭介さん。私の嫌なとこってある?」
唐突な質問だった。
(あの狂気だよ)と喉元まで出かかった言葉を、俺は慌ててお酒と一緒に胃の奥へ押し戻した。そんな本音をぶちまけたら、それこそこの場所が本当の地獄に変わってしまう。
「んー、特にないかな」
波風を立てないよう、穏やかに笑って返した。だが、カナは納得いかないというように眉をひそめる。
「嘘。どこかあるでしょ? 小さなことでもいいから教えてよ」
引き下がらないカナの視線が痛い。早くこの空気をはぐらかしたくて、俺はつい、冗談混じりの言葉を口にしてしまった。
「んー……ゴリラに似てるとこかな」
言った瞬間、カナの動きがピタリと止まった。さっきまでの楽しそうな温度が一瞬で消え去り、すっと据わった冷めた目が俺を射抜く。
「本気で聞いてるんだけど」
声のトーンが一段低くなる。笑えない冗談で取り繕おうとしたのが裏目に出た。何か、それらしい真っ当な理由を言わなければいけない。
俺は少し真面目な顔を作り、彼女の目を真っ直ぐ見つめ直した。
「たまに、飲みすぎるとこかな」
「そうかな? 私そんなに飲んでるかなぁ?」
カナは不満げに口を尖らせながら、手元のグラスを軽く揺らした。その手つき自体が、すでに十分お酒に親しんでいる証拠なのだが、本人は自覚がないらしい。
「他には?」
まだ納得がいかないようで、重ねて聞いてくる。これ以上地雷を踏まないように慎重に言葉を選びながら、俺は次の理由を探した。
「なんだろう……たまにわがままなとこかな」
少しだけマイルドに、可愛げのある欠点として差し出してみた。しかし、カナは即座に眉をひそめる。
「そんなことないでしょ」
バッサリだった。全く受け入れる気配がない。俺は内心で苦笑しながら、さらに絞り出す。
「他には?」
「ムキになるとことか?」
「ムキにはなってないでしょ?」
間髪入れずに返ってきたその反論こそが、まさに「ムキになっている」そのものだった。
自分が差し出してきた問いに対して、こちらが挙げた欠点を一つ残らず、完璧なまでのスピードで全て否定していくカナ。その矛盾した頑なさと、絶対に折れない様子があまりにも綺麗に決まりすぎていて、俺の胸の奥からおかしさがじわじわと込み上げてきた。危うく吹き出しそうになるのを、俺は慌ててグラスを口に運ぶことで誤魔化した。
「……嫌なとこ、いっぱいあるんだね」
それまで完璧なスピードで全否定を繰り返していたカナが、突然、すとんとトーンを落とした。さっきまでの頑なさはどこへやら、今度はグラスを見つめたまま、目に見えて分かりやすく肩を落としてしょげている。
(……聞いといてなんだよ)
あまりの理不尽な急転直下に、俺は心の中で盛大に突っ込みを入れた。自分で「小さなことでもいいから教えて」と執拗に食い下がっておきながら、いざいくつか挙げられたら、全否定した挙句にこれである。この身勝手なまでの感情の起伏の激しさこそ、まさに彼女の面倒くささであり、同時にどこか憎めない部分でもあった。
「じゃあ、俺の嫌いなとこは?」
この理不尽な空気をひっくり返したくて、俺は仕返し気味に問いかけてみた。
「えー、ないよ!」
カナは顔を上げると、迷いもせず即答した。
(ずるいぞ!)
心の中で叫んだ。自分は俺に散々言わせておいて、自分側は「ない」で綺麗にシャットアウトする。そのあまりにも不公平なラリーに呆れつつも、俺はさらに食い下がった。
「何かあるだろ?」
「んー……他の女の人に愛想よくしてるとこかな」
カナは上目遣いに俺を見つめながら、ぽつりと呟いた。察した。あ、これはヤバい流れだ。これ以上この話題を掘り下げたらいけない。俺の脳内の危険察知アラートが鳴り響いていた。一刻も早く、この会話のレールを全く違う方向へ切り替えなければならない。
「飲みすぎるとことかあるだろ?」
俺は必死に頭を回転させ、カナの追及を遮るように自分自身の欠点を先回りして投げつけた。
「あ、そうだね! それは嫌なとこだな」
カナの表情がパッと明るくなった。ターゲットが「他の女」から「俺の酒癖」に移ったことで、危険な空気が一気に霧散していく。俺はすかさず、もう一矢を放つ。
「タバコとか」
「あー、うんうん。それもだ! すぐ吸うもんね」
カナは何度も深く頷きながら、我が意を得たりとばかりに嬉しそうに同意している。
……待てよ。自分で自分の嫌なところを必死に挙げて、それを目の前の女に「そうだね!」と満面の笑みで納得させているこの状況。
なんかおかしいな。
自分で自分の首を絞めておいて、何ホッとしてるんだ俺は。
理不尽なカナの追及から逃れるためとはいえ、あまりにも間抜けすぎる自爆スタイルに、俺は心の中で激しくセルフツッコミを入れていた。しかし、当のカナはすっかり機嫌を直したようで、また楽しそうにグラスを傾け始めている。
「でもさ、恭介さんが自分でそうやって分かってるならいいよ」
上から目線で満足げに微笑むカナを見て、俺は呆れ半分、安堵半分で、残ったお酒をぐっと飲み干した。地獄への入り口は、ひとまず力技で閉じることに成功したらしい。
カナにはたまに、こういう計算のない天然で抜けたところがある。
だからこそ憎めないのだ。普段は感情の起伏が激しくて手を焼くこともあるが、根は驚くほど純粋で、真っ直ぐな奴なのだ。昼間に見かけたあの姿もそうだ。普段は俺の前で甘えたり我儘を言ったりするけれど、その裏では、一人の母親として必死に日常を背負い、子供を守りながら戦っている。そんなカナのひたむきで優しい一面を知っているからこそ、俺の自爆トークに嬉しそうに頷く彼女の姿が、余計に愛らしく思えてくるのだ。
この理不尽さに振り回され、冷や汗をかかされながらも、このどこか抜けた可愛らしさと彼女の持つ温かい人間味に免じて、すべてを許してしまいたくなる。それこそが、カナという女性が持つ抗えない魅力であり、俺の首に掛けられた見えない首輪が、今も外れない理由なのだろう。




