暖かいワガママ
あの息の詰まるようなホテルの出来事から数日。
カナは日常に戻れば、腕にすり寄ってくる可愛い彼女だ。カナのことは好きだが、いつあの予測不能な狂気のスイッチが入るか分からないという恐怖がある
スマートフォンが短く震える。画面に表示されたのは、美里の名前だった。
『お疲れ様。一緒に飲もうよ』
美里はいつも、俺が行き詰まっている時、まるで見透かしているかのような抜群のタイミングで連絡をくれる。
カナに対する罪悪感が脳裏をよぎる。しかし、今の俺の心は完全に干からびていた。俺は吸い寄せられるように、美里のマンションへと向かった。
「いらっしゃい。お疲れ様」
靴を脱いで上がった瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。カナの前にいる時の、一言でも間違えたら深淵に叩き落とされるようなあの極限の緊張感は、この部屋には一切ない。ここにあるのは、ただ俺という人間を丸ごと受け入れてくれる、見返りを求めない無償の愛だけだった。
俺は言葉にならない感情のまま、美里の華奢な身体を強く抱きしめていた。
「なになに? どうしたの?」
突然のことに驚きながらも、美里は拒むことなく、ふんわりと俺の背中に手を回してくれた。その声には一切の責め立てるニュアンスがなく、ただただ俺を包み込むような深い包容力に満ちている。優しく背中をさすってくれる美里の温もりに触れながら、俺の心は確実に癒やされていく。
ふと、俺の心に贅沢な疑問が浮かんだ。この人は、俺が何をしても受け入れてくれるのだろうか。
「美里って……怒ることないの?」
俺の腕の中で、美里は小さく首をかしげた。
「ん? 気付かない? 今も怒ってるけど?」
美里は、いつもと変わらないニコニコとした笑顔のまま、さらりと言った。その一点の曇りもない笑顔に、俺の心臓がドサリと嫌な音を立てて跳ね上がる。胸の奥が冷たくなるような、奇妙なドキリとする感覚だった。
「え……俺、何かした?」
慌てて身体を離し、美里の顔を覗き込む。美里の表情は相変わらず穏やかで、怒っているようには見えない。
「どうして連絡してこないの?」
美里はニコニコとした笑みを崩さないまま、しかし逃げ場を塞ぐように、優しく、静かに詰め寄ってきた。
「あ……いや、ちょっと最近、仕事とか、色々忙しくて……」
俺はとりあえずの言い訳を口ごもった。美里が掴めない。本当にニコニコしているが、これは怒っているのだろうか。それとも冗談なのだろうか。
「恭介くんは、私は寂しくないと思ってる?」
「え……寂しいの?」
思わずそんな鈍い問い返しをしてしまった俺に、美里の口元から、一瞬だけ温度が消えた。
「そういうのがわからないなら、もう来なくていいよ?」
美里は、やっぱりニコニコと微笑みながら、しかし声の芯だけを極限まで冷たくして、突き放すように言い放った。
「寂しい思いさせてごめん」
俺は自分の身勝手さを恥じ、今度こそ美里を安心させるように、もう一度その身体を強く抱きしめようと腕を伸ばした。
「そういうのはいいから。飲も!」
しかし、美里は俺の胸をそっと押し返し、弾んだ声で軽やかに拒絶した。そこにトゲや恨みがましいニュアンスは一切ない。俺に余計な気まずさや罪悪感を抱かせまいとする、美里なりのあまりにも優しい配慮だった。
「美里の元旦那って、どんな人だったの?」
お酒が回って少し軽くなった口で、俺はふと、今まであえて触れずにいた領域に足を踏み入れていた。美里はグラスを傾けたまま、一瞬だけピクリと手の動きを止めた。いつもどんな質問にもニコニコと答えてくれる彼女の顔から、ほんの数秒だけ、すっと温度が消える。
「んー、どうだったかな。もう忘れちゃったな」
美里はすぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、おどけるように言った。昔のことは、しゃべりたくないのだ。傷ついた過去があるからこその今の優しさなのだと、彼女の横顔が雄弁に物語っていた。俺はそれ以上聞くのをやめ、お酒を煽った。
ふと見ると、部屋の片隅に段ボールが数個、積み上がっているのが目に入った。
「あれ、なに?」
「ああ、あれ? 昔の服を捨てるの。もう着ないし、整理しようと思って」
聞けば、若い頃の服をまとめて捨てるらしい。どんなものを着ていたのか、急に興味が湧いてきた。
「見せてよ」
「えー、恥ずかしいな。……まあ、いいよ。ちょっとだけね?」
美里は苦笑しながら段ボールを開け、中身を見せてくれた。取り出されたのは、鮮やかなミニスカートや、ラメの入ったキラキラした派手な服ばかりだった。今の落ち着いた美里からは想像もつかないラインナップだ。
「美里って、昔ギャルだったの?」
「えへへ」
少し照れくさそうに笑う美里の表情が、一気に少女のようになる。俺はその中から、とりわけ派手なシャツと、見るからに丈の短そうなスカートを引っ張り出した。
「これ、着てみてよ」
「ちょっと、本気で言ってるの?」
美里は本気で戸惑ったように目を丸くした。
「うん、見てみたいな。絶対似合うよ」
「えー……もう。まだ着れるかなぁ……」
文句を言いながらも、俺の「見てみたい」という我が儘を無下にしないのが美里だ。彼女は服を抱え、困ったように笑いながら奥の部屋へと消えていった。
しばらくして、ドアが開く。
「……どう? 変じゃない?」
現れた美里は、少し恥づかしそうに両手を広げ、その場でくるっと回ってみせた。今の美里の大人びた顔立ちや雰囲気と、そのギャップがあまりにも凄くて、俺は思わず吹き出しそうになった。いや、若い頃は絶対に似合っていたはずだ。ただ、今の彼女が着ると、なんとも言えないアンバランスな破壊力がある。
「うん、まだまだいけるよ」
「そんなわけないでしょ! もう!」
美里は照れながら怒っている。そんな彼女を見ていたら悪戯心が疼き、俺はさらに言葉を重ねた。
「じゃあさ、そのままコンビニ行こうよ」
「無理無理! 無理だよ!」
美里は本気で焦ったように声を上げ、顔を真っ赤にした。俺がその手を取って冗談半分で玄関の方へ向かおうとすると、
「ちょっと、待ってってば!ほんとに無理だって!」
と、恥ずかしそうに身を縮めて全力で困っている。いつもなら大人の余裕で俺を包み込んでくれる美里が、腰を引かせて必死に抵抗している姿がなんとも言えず可愛かった。結局、コンビニ行きは諦めたものの、美里は着替えるのが面倒になったのか、その派手なシャツとミニスカートの格好のままで、また俺の正面に座ってお酒を飲み始めた。
手際よくお酒を準備すると、何事もなかったかのように、最近あった楽しかったことや、俺がリラックスして聞けるようなたわいもない世間話を再開する。彼女の声を聞いているだけで、張り詰めていた頭の芯がじんわりとほぐれていく。何を言っても笑って受け止めてくれる、男をダメにするほどの無償の愛。この圧倒的な優しさと温かい空間が、今の俺には涙が出るほどありがたかった。
お酒が進み、心地よい酔いが回ってきた頃、心からの安心感に包まれたせいか、猛烈な眠気が襲ってきた。俺はギャル服のまま笑っている美里を見つめながらソファに身体を預け、そのままうとうとと意識を沈めていった。
「――風邪ひくよ」
耳元で、かすかな衣擦れの音と一緒に、羽毛のように柔らかい声が聞こえた。ハッと微かに目を開けると、美里の身体が、俺の上へとゆっくり覆い被さってくるのが見えた。俺を起こさないようにそっと毛布をかけ、そのまま俺の胸に愛おしそうに顔を埋める。
どれだけ寂しくても、俺の前ではいつも笑顔で、最高の癒やしをくれようとしていた彼女。その圧倒的な優しさの隙間に、隠しきれないほどの巨大な寂しさが横たわっていることに、俺は今、初めて気づかされた。
「今日は……朝までいてよ」
美里は俺の胸に顔を埋めたまま、きつく、折れそうなほど強く抱きしめてきた。それは、美里が初めて俺にぶつけてきた、剥き出しのわがままだった。
しかし、その腕の力がふっと緩んだ。
「――なーんて、冗談! 恭介くんは帰らないとね!」
次の瞬間、美里は勢いよく顔を上げ、弾けたような空元気の声で言った。その顔には、いつものニコニコとした、俺を安心させるための優しい笑顔が貼り付けられている。あふれ出そうになった本音を、必死に、そして健気に見え透いた嘘で隠そうとしているのが痛いほど伝わってきた。どこまでいっても、彼女は俺を気遣う優しさで満ちている。
俺はソファから身体を起こすと、一人で部屋の奥のベッドへと移動した。シーツの上に横たわり、自分の隣に少しだけ隙間をあける。そして、ソファにポツンと残されたまま、寂しさを隠して佇む彼女の姿をじっと見つめた。
「おいで」
俺がそう言って静かに声をかけると、美里は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それから、少女のようにはにかみながらソファを立ち、嬉しそうに歩み寄って俺の横へと寝た。
ふわりとシーツの中に滑り込んできた美里は、じっと俺の顔を見つめ、それからそっと俺の手のひらに自分の手を合わせ――そのまま、吸い付くように深く指を絡めてきた。
その指先から伝わってくるのは、柔らかくて温かい、確かな彼女の体温。言葉ではいつも俺を優先して優しく微笑んでくれる美里が、本当はどれほど俺のそばにいたかったのか。その優しさに甘えきっていた俺を責めることもなく、ただ愛おしそうに指を絡めてくる健気な寂しさが、じわりと温かく俺の胸に染み渡っていった。
こんなにも俺を大切に想ってくれる、愛おしい女の子。
俺は絡み合う指の心地よい温もりを感じながら、美里の圧倒的な優しさに包まれるようにして、ゆっくりと目を閉じた。今夜はただこうして、二人で静かに穏やかな眠りへと落ちていくのだった。




