境界線の向こう側
日常というものは、一度パターンが決まってしまうと、驚くほど滑らかにその形を維持しようとする。
あの薄暗いレストランのカウンターで、俺がいつものようにグラスを傾けていると、ドアが開いてカナが滑り込んでくる。ユカの姿はない。それがもう、お互いにとって奇をてらうことのない、ごく普通の夜の風景になっていた。相変わらず奥のテーブル席は賑やかだし、カウンターの向こうでは知り合いたちが適当に立ち働いている。
その雑音の中で、俺の隣にはいつもカナがいた。
しかし、いくら頻繁に顔を合わせるようになったとはいえ、彼女は自由気ままに夜の街を出歩ける身分ではない。旦那がいて、うちと同じくらいの年齢の子供がいる。当然、夜に家を空けて飲みに出るというのは、彼女にとってかなりのハードルを越える行為だった。
「今日はどうにか理由をつけて出てきたんだ」
隣に座るなり、カナは少しホッとしたような、それでいてどこか疲れたような笑顔を見せることが増えた。
そうやって何度も夜を重ね、酔い覚ましに歩く帰り道の途中で、彼女の口から少しずつ、プライベートな、そして重い家庭の内情がこぼれ落ちるようになっていった。
「実はね……旦那が、ちょっと感情の起伏が激しい人なんだ」
街灯の下を並んで歩いているとき、カナは不意に視線を足元に落としてそんなことを呟いた。
街灯の冷たい光が、彼女の形の良い横顔を照らし出している。
詳しく聞いていくと、それは単なる夫婦の不仲というレベルの話ではなかった。いわゆるDVだ。
身体的な暴力だけでなく、言葉による精神的な追い詰めも酷いらしい。
「家にいるときは、いつもビクビクしてなきゃいけなくて。旦那が部屋に入ってきたり、近くに寄ってきたりするだけで、体が勝手に震えちゃうことがあるんだよね。だから、本当に家にいたくないの」
普段、店のカウンターであれほど抜群の愛嬌を振りまき、俺のくだらない話に目を輝かせて笑っている彼女が、家のドアを一枚隔てた向こう側では、恐怖に震えながら息を潜めている。そのギャップは、俺の胸の奥に奇妙な余韻を残した。
「そこまで怖いなら、離れた方がいいんじゃないの?」
俺が至極まっとうな疑問を口にすると、カナは力なく首を振った。
「子供がいるから。子供のことを考えると、いま私の一存で離婚に踏み切るのは、どうしても難しいんだよね……」
冷え切った家庭を抱え、仕事一筋の妻と関心を持たずに割り切って暮らしている俺と、恐怖に支配された家庭から逃れるために夜の街に息を抜きに来ているカナ。
お互いに「子供のために家庭を維持している」という共通点がありながらも、彼女の抱えている闇は、俺のそれよりも遥かに生々しく、切迫していた。
興味のない健康志向の話には適当に相槌を打っていた俺だったが、彼女のそんな一面を知るうちに、少しずつ心境に変化が訪れていた。
相変わらず「いつも適当に飲んでるチャラい奴」というスタンスは崩さないようにしていたが、気がつけば、店に入る前に「今日はカナが来るだろうか」と、無意識に彼女の存在を気にかけるようになっている自分に気づき始めていた。
綺麗な人妻、から、少し守ってやりたくなるような、放っておけない存在へ。
ただ、そんな神妙な気分も長続きはしない。30を過ぎて親になり、社会的にはまともな顔をして生きているはずなのに、俺の中身は20代の頃からたいして成長していないのだ。
他人の深刻な家庭の事情を聞いても、どこか「大変だな」と他人事で、結局は目の前の綺麗な女と過ごす楽しい時間に引っ張られてしまう。
そんな自分のチャラさやガキっぽさを、俺はどこか冷めた目で自覚してもいた。
そんなある日の夕方、カナからいつもと違うタイミングでLINEが入った。
『今日、旦那も子供もみんな出かけてて、私一人なんだ。よかったら一緒に夕食食べに行かない?』
いつもなら夜遅くに店で合流するのがパターンだったから、夕食から2人で会うというのは新鮮だった。俺は二つ返事で了解し、指定された時間に街へ向かった。
「私が普段、よく行くお店があるの。連れていってもいい?」
合流したカナは、心なしかいつもより足取りが軽そうだった。家に誰もいないという解放感が、彼女を包んでいるようだった。
連れていかれたのは、彼女が馴染みにしているという、気取らない雰囲気の小さな飲食店だった。俺がいつもいる薄暗いレストランとはまた違う、家庭的で落ち着いた空気が流れている。
「ここ、何食べても美味しいんだよ」
カナはメニューを開きながら、本当に嬉しそうに微笑んだ。
改めて明るい店内でじっくりと対面すると、彼女のパーツの整った顔立ちや、スタイルの良さがよく分かった。華奢に見えて、女性らしい柔らかさを持った体つき。言葉遣いや身のこなしにも、どこか人を惹きつける自然なスマートさがある。
俺は彼女の勧める料理をいくつか注文し、酒を頼んだ。カナは自分が慣れ親しんだ場所に俺を招待できたことが新鮮なようで、いつも以上に饒舌だった。仕事の話、日常の些細な出来事、相変わらずちょっと抜けたリアクションで俺の話を面白がってくれる。俺も、彼女がリラックスして笑っている姿を見るのが、純粋に心地よかった。
ただの飲み友達としてではなく、一人の男と女として、食事を囲んでいるという実感が、じわじわと身体に染み渡っていくのを感じていた。
食事を終えた俺たちは、当然の流れのように、いつものあの薄暗いレストラン「アンカー」へ移動した。
「おかえり、恭介くん。カナちゃんも」
カウンターの向こうからマスターがニヤニヤしながら声をかけてくる。そのトーンには、もう俺たち2人がセットで動いていることを完全に周知し、見守っているような空気感があった。
カナもこの頃にはだいぶ店に馴染んできていて、「マスター、ただいま!」なんて自然に応えている。
いつもの定位置に2人で並んで座り、今度は少し落ち着いたトーンで酒を飲む。奥の席では相変わらず誰かが盛り上がっているが、俺たちの周りだけは、夕食からの地続きの、少し濃密な空気が残ったままだった。
時間が経つのは早かった。店の時計が、そろそろお開きの時間を指し示している。
いつも通りなら、ここで店を出て、酔い覚ましに歩きながら彼女のマンションまで送り届けて「じゃあな」と別れる、それがいつものルーティンだった。
店を出て、夜の少し冷たい空気に触れながら、俺たちはいつものように並んで歩き出した。
隣を歩くカナの横顔を何気なく見つめながら、俺はいつも通りの軽いトーンで声をかけた。
「帰っても誰もいないんだろ? だったら、次の店でも行く?」
いつものルーティンの延長で、ただ「もう一軒、どこかで軽く飲むか」というくらいの、本当に何気ないお誘いのつもりだった。しかし、帰っても家族が誰もいないという解放感でいっぱいのカナの口から飛び出してきたのは、俺の予想を遥かに超えた、とんでもない言葉だった。
「ねえ、ホテルに行こう」
カナは、いつものあの弾けるような、少し悪戯っぽい笑顔を浮かべたまま、真っ直ぐに俺の目を見てそう言った。まだまだ次行く?というような、あまりにも軽い、日常会話の延長のようなテンションだった。
「……は?」
俺は一瞬、自分の耳を疑った。頭の中の思考が一瞬でフリーズし、頭の中の何かが歪んだ。俺は彼女の言葉の真意を確かめるために、思わず言葉を重ねた。
「ちょ、ちょっと待って。今ホテルって言った? そこに行ったら、やることなんて1つしかないじゃん?ほんとに? 」
まくし立てるような俺の確認に対し、カナは怯むどころか、さらにノリノリになって笑顔を輝かせた。その大きな瞳には、なんの迷いも影もなかった。
「うん、行こう! 行きたい!」
冗談を言っている目ではなかった。
その瞬間、俺の胸の奥を一瞬だけ「恐怖」が過った。
旦那に見つかったらどうしようとか、そういう外側のリスクに対する怖さじゃない。旦那が怖くて震えるだの、家に居場所がないだの、そんな深刻な話をしていたはずの女が、いま目の前で、何の後ろめたい影もなさそうな笑顔で、まるで「もう一軒飲みに行こう」くらいのテンションで「ホテルに行こう」と平然と言ってのけている。
そのギャップ。この女は、一体何を考えているんだ?という、カナという女そのものの「掴めなさ」に対する、ゾッとするような薄寒い怖さだった。
大人として、ここで一度冷静に考えるべきなのかもしれない。
だが、そんな俺の脳内のブレーキは、彼女の弾けるような笑顔と、真っ直ぐな誘いの前には全く役に立たなかった。綺麗な女からこんなノリノリで誘われて、シリアスに考え込んで引き下がるなんて、男としてつまらない。
結局のところ、俺もただのチャラいガキだった。
怖さを一瞬で思考の隅に追いやると、俺は彼女の突き抜けたテンションをそのまま拾い上げるように、いつもの軽いノリで笑ってみせた。
「よし! 行こっか!」
カナのノリに完全に自分のテンションを合わせると、もう迷いはなかった。
カナは「やったー!」とでも言いそうに嬉しそうに笑い、俺たちは歩き出した。いつものマンションへ続く帰り道とは違う方向へ、2人の足跡が重なっていく。
俺たちの関係が、ただの飲み友達という安全な境界線を完全に踏み越えた夜だった。




