境界線の測り方
カナという人間は、底が知れない。
普段は理性的で、大人の余裕を崩さない完璧な女。
けれど、時折その完璧な仮面の隙間から、得体の知れない「狂気」が顔を覗かせる。
先日のパーティーでの、あの剥き出しの独占欲と大人げない張り合い方がその良い例だ。
一体、彼女の優しさと狂気の境界線はどこにあるのだろうか。
ある日のデートの最中、俺はふと思いついて、ごく軽い口調を装って質問を投げかけてみた。
本当に、ただの他愛のない世間話のトーンで。
「どこからが『浮気』になると思う?」
カップルたちの間では、それこそ手垢がつくほど繰り返されてきた、よくある定番の質問だ。
カナは極度の負けず嫌いだ。
そして何より、俺の前で「嫉妬深い重い女」だと思われるのを病的に嫌う傾向がある。
自分はいつだって冷静で、男を束縛なんかしない、大人の余裕に満ちたイイ女。
そういうポジションにいたいというプライドが、彼女の根底には確実にあった。
カナはフッと鼻で笑うような仕草をして、余裕たっぷりの笑みを俺に向けた。
「なにそれ、急に。……そうねぇ、恭介さんはどこからだと思う?」
「いや、俺じゃなくてカナの基準を聞きたいんだよ。例えばさ、女の人と二人きりで食事に行くのは?」
俺がそう具体例を出すと、カナはわざとらしく小首を傾げ、ふんわりとした優しい笑顔を作ってみせた。
「そんなの、全然なんとも思わないよ? だって仕事の付き合いとか、そういう時だってあるでしょ? 私、そういうのでいちいち騒ぐような女じゃないよ?」
さらりと言ってのけるカナ。
だが、その言葉を聞いた瞬間、俺は内心で猛烈に突っ込んでいた。
(嘘つけっ!)
ついこの間、パーティーで俺が新婦の友人とただ世間話をしていただけで、笑顔の裏でバチバチにマウンティングを仕掛けてきたのは一体どこの誰だ。
一緒に住んでいないからこそ、自分の見えないところでの行動には人一倍敏感なはずなのに、完全に無理をしている。
「ふーん。まぁ、俺もカナが男と二人きりで食事に行っても、何も言わないけどな。特に嫉妬もしないし」
「……はぁ?」
その瞬間、カナの表情から作ったような笑顔が消えた。声のトーンが一気に低くなる。
「なんでよ?」
「なんでって、別に何もないんだろ? ただ食事するだけだろ。仕事の付き合いとかさ」
カナが先ほど口にした理屈をそのまま返してやると、彼女は明らかに不満げに唇を尖らせ、ジロリと俺を睨んできた。
「そうだけど。……でも、その後に何かあるかもしれないじゃない?」
「何かって?」
「それは……その……」
言葉を詰まらせるカナ。自分で「食事はセーフ」と言ってしまった手前、それ以上のシチュエーションを具体的に口にするのは、自分の負けを認めるようなものだ。
俺はわざとらしく首を傾げ、意地悪く笑いながら核心を突いた。
「なに? もしかして、俺に嫉妬してほしいの?」
「はぁーーー? 全然違うよ!」
カナは慌てて否定したものの、その瞳は明らかに泳いでいた。
「嫉妬しない大人の女」のポジションを取りたかったはずなのに、いざ俺から「嫉妬しない」と言われると、今度は自分への執着が薄いように感じられて面白くないらしい。
俺の態度に一人で勝手にヤキモキしている。
俺は心の中で苦笑しながら、さらに一歩、その境界線の奥へと踏み込んでみることにした。カナの「余裕の仮面」がどこまで耐えられるか、少しだけ意地悪く試してみたくなったのだ。
「へぇ、食事はセーフか。じゃあさ、手を繋ぐのは?」
常識的に考えれば、友達同士で手は繋かない。一気にハードルを上げた質問に、カナの綺麗な眉が、ほんの微かに、けれど確実にピクリと動いた。
「手を繋ぐの?」
カナはオウム返しに呟き、テーブルの下へと視線を泳がせる。
けれど、ここで「それはアウト」と言えば、自分の器の小ささを認めることになるとでも思ったのだろう。
彼女は引きつりそうな口元を必死に持ち上げて、なおも大人の笑みを張り付かせた。
「うーん……まぁ、海外の挨拶みたいなノリとか、お酒が入った勢いのノリとかだったら、そういうのもあるかもしれないね。うん、別にそれくらいなら……」
必死になって「嫉妬しない物分かりの良い彼女」を演じ、無理をして大人の余裕を見せようとしているカナ。
その健気というか、意固地な姿が、俺には可笑しくてたまらなかった。
よし、じゃあこれはどうだ。俺はさらに追い打ちをかける。
「じゃあさ、2人で食事に行って、その帰りに手を繋ぐのは?」
「う、うーん。ただ食事して、その後にただ手を繋ぐだけでしょ? ……うん、それも、まだ浮気じゃないかなぁ」
カナは引きつりそうになる笑顔を必死にキープしながら、絞り出すようにそう言った。
(いや、嘘つけ! 完全に無理をしてるだろ!)
内心で盛大に突っ込みを入れる。
もう誰が見ても限界のラインを超えている。
脳内で最悪のシチュエーションでも想像してしまっているのか、彼女の瞳の奥が心なしか据わってきているのが分かった。
いよいよ面白くなってきた。俺は意地悪な笑みを噛み殺しながら、トドメの一撃を放つ。
「じゃあさ――キスは?」
もう、限界だった。
それまで必死に「大人の余裕」を演じていたカナだったが、その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、間髪入れずに即答した。
「それは浮気でしょ!」
食い気味に放たれた声は、店内に少し響くくらいの鋭さを持っていた。
さっきまでの白々しい笑顔はどこへやら、カナはカッと目を見開き、俺を親の仇か何かのようにキッと睨みつけている。
ついに化けの皮が剥がれた。
俺はあふれ出そうになる笑いを堪えるのに、必死に唇を噛み締めなければならなかった。
だが、ここまで来たらもう一歩だけ。
「でもさ、海外とかだと挨拶でキスとかあるじゃん? ほっぺにチュッとしたりするだろ?」
俺がわざとらしく首を傾げて正論っぽく返すと、カナはもう完全に決壊した。
大人の余裕の仮面なんて粉々に砕け散り、感情が剥き出しになっている。
「それは海外だからでしょ! ここは日本! だいたいね、2人で食事に行く時点からそもそもおかしいんだよね!」
怒涛の勢いで捲し立てるカナ。
そのあまりの豹変ぶりに、俺は思わず心の中で爆笑しながら猛烈にツッコミを入れていた。
(おいおいおい、さっきと話が違うじゃねーか!)
食事は仕事の付き合いもあるから何も思わない、なんて澄ました顔で言っていたのは一体どこのどなただろうか。
手を繋ぐどころか、最初のステップである「食事」の時点で大減点、いや一発アウトのレッドカードに変わっている。
カナはフンと荒い鼻息を漏らしながら、ジリジリと身を乗り出してきた。
「なに? 恭介さん、もしかしてこれから誰かとそういう予定でもあるわけ?」
声のトーンが一段階低くなり、完全に『尋問』のそれに変わる。
一緒に住んでいないからこそ、俺のプライベートへの猜疑心が瞬間湯沸かし器のように沸点に達してしまったらしい。完全に藪蛇だった。
「いやいや、ないって。ただ、どこからが浮気なのかなって基準を聞いてるだけなんだけど」
俺が宥めるように言うと、カナはまだ疑わしそうな目を向けていたが、やがて小さくため息をついて、背もたれに体を預けた。その顔はまだ少し赤く、ツンとへそを曲げたままだ。
結局のところ、彼女の中にある本当の『境界線』は、手を繋ぐことでも、キスをすることでもなかった。
他の女と二人きりで食事をすること――その始まりの瞬間から、彼女にとってはすでに、自分の男を侵食される許しがたい行為なのだ。
底が知れないと思っていたカナの狂気は、決して奥深くに眠っているわけじゃない。
引き金さえあれば、いつだって一瞬で飛び出せる準備が万端に整っている。それがよく分かった。
俺は少し困ったように頭を掻きながら、話を続けた。
「じゃあさ、もし、本当に仕事の付き合いとかで、どうしてもそういう食事の席に行かなきゃいけない場合はどうすればいいんだよ? カナだって、これから先そういう仕事の付き合いがあるかもしれないだろ?」
「そういう時は、事前にちゃんと報告して」
カナは腕を組んだまま、毅然とした態度で言い放った。
「どこの、誰と、どこで食事をするのか。大人のマナーとして、ほうれんそうは当然でしょ?」
「……ほうれんそう?」
「そう、報告・連絡・相談。ほうれんそう、でしょ!」
胸を張ってドヤ顔で言い切るカナが何とも彼女らしくて可笑しい。
俺は吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、話を合わせた。
「なるほど、ほうれんそうか。じゃあ、そのほうれんそうをするだけで、二人きりの食事に行っても文句は言わないんだな?」
「うん。事前にちゃんと聞いて納得できれば、行ってもいいよ」
カナはふんぞり返るようにして、満足げに頷いた。
なんだ、意外と物分かりが良いところもあるじゃないか――そう思ったのも束の間、カナは不敵な笑みを浮かべて、とんでもない補足を付け足した。
「ま、私もそのお店に、偶然行くかもしれないけどね」
偶然を装って、隣の席か死角から俺たちの様子をじっと監視する。
あるいは、会話の途中で「あら恭介さん、奇遇ね?」とあの完璧な営業スマイルで乱入してくるカナの姿が、あまりにも容易に脳裏に再生された。
(怖い……!)
ほうれんそうを求めたのは、ただ状況を把握するためじゃない。
自分が現地へ奇襲をかけるための「座標」を提出させるためだ。
こうして見ると、ただのヤキモチ焼きな子供っぽさが隠しきれていないだけなのかもしれない。
「わかったよ。もしそんな機会があったら、細かくほうれんそうするよ」
俺が観念してそう言うと、カナはぷいっとそっぽを向いたまま、けれど嬉しさを隠しきれないように、その唇の端を小さく綻ばせるのだった。
大人の余裕を気取ってカッコつけたいくせに、結局は俺の行動が気になって仕方がない。その必死な様子を見ていると、俺の意地悪な心に、さらにもう一度火がついてしまった。
「なぁ、カナ」
「なによ」
まだ少し尖った声を出すカナの顔を、俺は覗き込むようにしてニヤリと笑った。
「要するに、俺のことが好きだから、気になって仕方ないんだろ?」
直球すぎるツッコミ。
そこまで嫉妬するんだから答えは100%そうなのだが、カナにとって「好きだから嫉妬しちゃう」と素直に白状することは、己のプライドが絶対に許さない最大級の禁忌らしかった。
案の定、カナは弾かれたように俺を睨みつけてきた。その顔が、さっきの怒りとはまた違う、明らかな動揺で一気に耳の根元まで真っ赤に染まっていく。
「は、はあ!? なんでそうなるのよ! 自意識過剰じゃないの?」
声が完全に裏返っている。
普段の洗練された彼女はどこへやら、図星を突かれて激しく狼狽する姿は、誰が見ても分かりやすすぎた。
「じゃあなんでそんなに怒るんだよ」
「それは、その……大人のパートナーシップとして、不誠実な行為は容認できないっていう、一般論としてのモラルの話! 私自身の感情がどうとか、そういう次元の話じゃないから!」
必死になってそれっぽい専門用語を並べ立て、煙に巻こうとするカナ。
「好きだから」という、シンプルな理由を隠すためだけに、彼女の脳細胞は今、フル回転で言い訳をひねり出している。その必死な抵抗が健気というか、頑なすぎて、俺の目には可愛げの塊にしか見えなかった。
「ふーん。モラルの話ねぇ……」
「そうよ! 勘違いしないでよね!」
カナはフンッと息を巻いて、今度こそ完全にそっぽを向いてコーヒーをあおった。
どれだけボロを出して、どれだけ独占欲の狂気を飛び出させようとも、最後の最後、「あなたに惚れてる」という本心だけは、絶対に俺に悟らせたくないらしい。
その頑なな態度を見ているうちに、俺の頭の中にふっと、ちょっとした悪巧みが浮かんだ。
力技で認めさせようとしても、この強情な女はさらに殻に閉じこもるだけだ。なら、方向性を変えて攻めてみよう。
俺はわざとらしく、深いため息をひとつついた。そして、あえてトーンを落とし、落ち込んだような声を作ってみせる。
「……そっか。残念だな。俺はカナのことが好きなのに、カナは俺のこと好きじゃないのか」
一気に神妙な空気を作って視線を落とすと、カナの気配がハッと強張るのが分かった。
まさか俺からそんなストレートな言葉が出るとは思っていなかったのだろう。
「そ、そういう話じゃないでしょ……?」
カナの声に、さっきまでの勢いはなく、明らかな困惑が混ざり始める。
「いや、だってモラルの話なんだろ? 感情の話じゃないって言うし。……はぁ、なんか一方通行みたいでつらいなー」
頭を抱えるようにして、さらに大袈裟に落ち込んでみせる。
さっきまで意固地になっていた彼女の瞳に、あからさまな動揺と「どうしよう」という困ったような色が浮かび、視線が泳ぎ始める。
しばらくの沈黙のあと、カナは視線をテーブルの端に落としたまま、蚊の鳴くような声でポツリと呟いた。
「……好きだけど」
「ん? なに?」
聞こえていたが、俺はわざと聞き返す。
「……好きですけど」
今度ははっきりと、けれど消え入りそうなほど恥ずかしそうに、カナは言葉を紡いだ。
頬がほんのりと朱に染まっているのは、赤面というよりは、完全に言わされたことへの羞恥と悔しさの表れだ。
「勘違いしないでよね」なんて強がりはもうどこにもない。
プライドをへし折られて悔しくてたまらないのに、「好き」と言わされてしまったその表情が、たまらなく愛おしかった。
大人の余裕を気取りたくて、子供みたいなヤキモチを焼いて、最後は睨みつけながら白状する。
「そっか。聞けて良かったよ」
テーブルの下で、コツンと軽い衝撃が走った。
カナが履いているヒールの先で、俺の足の甲をグサリと、踏みつけてきたのだ。
口では勝てないからって、足元で実力行使に出るあたりが、なんとも彼女らしくて可笑しい。
「はいはい、悪かったよ」
俺が降伏するように苦笑しながら言うと、カナは満足したようにヒールを引っ込めた
足元の軽い痛みに苦笑しつつ、ようやくカナの機嫌も落ち着いたようで、店内に流れる緩やかなBGMが再び耳に届くようになった。




