捕食者の距離感
これは、どこにでもいる「不倫カップル」の、不器用な日常の記録である。ドラマのようなドロドロした愛憎劇でもなければ、スマートな大人の割り切った遊びでもない。 割り切った関係のはずなのに、ちっとも割り切れない。素直になれない女と、凝りない男。
そんな二人が繰り広げる、呆れるほど面倒臭い話。
週末の夜、少し冷え込んできた街並みを、俺は足早に歩いていた。
顔見知りの常連のひとりが結婚した――そんなおめでたい理由で、今夜はいつもの『アンカー』でカジュアルな結婚祝いのパーティーが開かれることになっている。
約束の時間の5分前、俺は店から少し離れた交差点の角に到着した。
今夜はカナも一緒に行くことになっており、ここで待ち合わせをしていた。少し遠くからでも、彼女がいつもと違う特別な雰囲気を纏っているのが一目で分かった。
「お待たせ、恭介さん」
声をかけてきたカナの姿に、俺は内心で息を呑んだ。
落ち着いたネイビーのノースリーブワンピースは、タイトすぎない絶妙なシルエットでありながら、彼女のしなやかな身体のラインを優雅に引き立てている。鎖骨が綺麗に見える広めに開いたネックラインには、細いゴールドのネックレスが一本、繊細な輝きを放っていた。
露出を抑えつつもどこか色香を感じさせる。いつもよりずっと大人びたその装いは、正直に言って、想像以上に綺麗だった。
だが、ここでまともに見惚れた顔をすればカナの思うツボだ。
俺はあえて視線をすっと逸らし、何でもないような顔をして平静を装った。
「……どうしたの? じっと見て」
俺の視線を敏感に察したカナが、少しだけ首を傾げて覗き込んできた。
「いや、別に。いつもと雰囲気違うなと思ってさ。……行こうか」
素っ気なく言って歩き出す俺の後ろを、カナは少し不満げに、けれど俺の反応を楽しんでいるような気配を漂わせながらついてくる。
駅前へと続く大通りを二人で並んで歩いていると、すれ違う男たちの視線が、カナに注がれていくのが分かった。
すれ違いざまに首を巡らせて、上から下まで執拗に彼女の身体を値踏みするように見つめていく男もいる。
少しだけ歪んだ優越感が静かに湧き上がってくるのを止められなかった。
店内は普段のいつもの落ち着いた雰囲気とは一変し、色とりどりのクラッカーの紙屑が舞い、眩しい照明が空間を照らしていた。
馴染みの常連たちの顔ぶれが半分、解せない身内だけのノリで盛り上がる知らない顔が半分といった具合だ。
グラスが触れ合う高い音、弾けるような笑い声、そしてお祝いの主役たちを冷やかす大声が、心地よいノイズとなって店内に充満していた。
カナは最初こそ俺の傍にいたものの、すぐに常連たちの輪へと溶け込んでいった。
楽しそうに喋り、盛り上がっている彼女の姿を、俺はカウンターの片隅で一杯目のグラスを傾けながら、少し離れた場所から眺めていた。
ひとりで酒を飲みながら騒ぎを眺めていると、俺のすぐ隣に、見慣れない小柄な女性がポツンとひとりで立っているのが目に入った。
少し退屈そうにグラスを揺らしている彼女に、俺は何気なく声をかけた。
「ひとりなの?」
「はい。新婦の友達なんですけど、ちょっと圧倒されちゃって」
聞けば、新婦の古い友人で、この結婚式に出席するためにわざわざ海外から戻ってきたばかりなのだという。
俺はこの店の常連だし、せっかくのお祝いの席だ。
アウェイな空気のなかでぽつんといる彼女を少しでも楽しませてあげようと、俺は積極的に会話を弾ませた。
海外のどこに住んでいるのか、いつまで日本にいるのか。
そんな世間話で、場は妙に盛り上がっていた。
――その時だった。
不意に、俺の右腕に、ぐっと柔らかな、けれど強い力が絡みついてきた。
驚いて視線を落とすと、俺の腕に、自分の腕をこれ以上ないほどぴったりと密着させて、胸を押し当てるようにして割り込んできた影があった。
「お友達?」
鈴を転がすような、可愛い声。
カナだった。
向こうのほうで他の奴らと大笑いしていたはずなのに、一体いつの間にここまで近づいていたのか。
カナは新婦の友人である彼女に向けて、満面の、これ以上ないほど愛らしい「ニコニコとした笑顔」を浮かべている。
「奥さんの友達だよ。新婦のね。海外に住んでるんだってさ」
「へぇー! そうなんですか!」
俺にはよく分かる。
それは彼女が接客などの「仕事の時」に見せる、完璧に作り込まれた営業用の笑顔だ。
「わー、すごいですね! 羨ましいな!」
あからさまにいつも以上に距離を詰めて、俺に身体を押し付けながら話すカナ。
その目は、目の前の女性を上から下まで執拗に「値踏み」している。
「可愛いですね。ショートカットが、すごくよく似合ってる」
カナは笑顔のまま、その女性の髪型を褒めた。
心臓の奥が冷たく脈打つ。それは女性への純粋な称賛などでは断じてなかった。
以前、俺が「ショートカットの女性が好きだ」と言ったから髪を切ったカナ。
これは目の前の女性への牽制であると同時に、俺に対する強烈な「あてつけ」だった。
「ね? 」
カナは俺の腕にさらにぎゅっと体重をかけながら、同意を求めるように見上げてきた。
「そうだね」
俺は波風を立てないよう、短くそう答えて、チラっとカナの顔を盗み見た。
その瞬間、カナの綺麗な眉が一瞬だけ、ピクリと不自然に動いた。
完璧に作り込まれた仕事用の笑顔の隙間から、カナが時折見せる、あの得体の知れない「狂気」が、確かに一瞬だけ顔をのぞかせていた。
「本当、ピュアで初々しくて可愛いなー。なんだか見てるだけで、妹みたいで守ってあげたくなっちゃう」
カナはまるで小さな子供をあやすかのようなトーンで、さらに言葉を重ねた。
彼女の「若さ」をあえて「子供っぽさ」として定義し、暗に「私の方が大人の女として上だけどね」とマウンティングを仕掛けている。
そうして相手を牽制しながら、カナは俺の右腕をさらに内側へと引き込み、自分の豊かな胸の膨らみをこれでもかと俺の腕に押し付けて、無言の「彼女アピール」を炸裂させていた。
だが、目の前の彼女は、そんなカナの刺々しい視線や隠された意図に、全く乗っかる気がなかった。
それどころか、海外仕込みのフラットさからか、カナの完璧な美貌に対して、きらきらとした真っ直ぐな瞳を向けた。
「ありがとうございます! でも、お姉さんのほうがすごく綺麗です。お店に入ってきたときから、素敵な人だな、ってずっと思ってたんです。」
社交辞令でも、お世辞でもない。
彼女は本気で、心からそう思って口にしていた。カナの仕掛けたマウンティングを、敵対心もなく、称賛という「大人の対応」で、実にあっさりと受け流してしまったのだ。
「そんなことないよー。もうおばさんだから」
カナはふんわりとした笑顔で返した。声のトーンはどこまでも優しい。
だが、カナにとってはその程度の称賛など、言われ慣れている安っぽい言葉に過ぎない。
本気で褒めてくれた彼女に対して、カナの返した言葉は、100%形だけの、思ってもいない白々しいものだった。
隣にいる俺には、その温度差が痛いほど伝わってきて胸がヒヤリとする。
そのやり取りを見ていた俺は、内心で大きなため息をついていた。
(カナ……完全に大人げないぞ……)
相手は純粋にお祝いに来て、俺ともただの世間話をしていただけなのに、一人で勝手にバチバチに敵対心を燃やして自爆気味になっている。
俺は呆れると同時に、ほんの少しの可笑しさを覚えていた。
タイミングよく遠くから新婦が彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、私、ちょっと新婦に呼ばれたので失礼しますね」
彼女は小さく会釈をしてその場を離れていった。
残されたのは、俺と、俺の腕に絡みついたままのカナ。
彼女が遠ざかっていくのを見届けると、カナはゆっくりと俺の顔を見上げてきた。
その目はもう、さっきの仕事用の笑顔ではなかった。
「恭介さんって、あんな若い人が好きだったっけ?」
唐突に投げつけられた刺すような言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「はぁ? 普通に話してただけだろ。店の常連としてさ」
「そうだよね」
それが当たり前だよね、とでも言いたげな、どこか当然といった風の「そうだよね」。
私が隣にいるんだから当たり前。そんな静かな確信が、その短い返事には籠められていた。
だが、俺の腕をがっちりホールドしたまま離そうとしない。俺はちょっと口元をにやけさせ、意地悪く、いやらしく彼女に聞いてみた。
「普段、人前で腕とか組むことないけど……何かアピールしてた?」
「ん? 別に、普通だけど?」
カナはすっと視線を外して、ぷいっとそっぽを向いた。
とぼけるような口調。だが、そう言いながらも、カナは絡めた腕にさらにぐっと力を込め、わざと胸の膨らみをこれでもかと俺の腕に押し付けてきた。
服越しに伝わる、あからさまで柔らかな感触。
人目が密集するパーティーの真っ最中だ。慌てて声を潜めた。
「ちょっ……!」
腕を引き抜こうとする俺の反応を見て、カナは視線を外したまま、してやったりと言わんばかりに口元を満足げにニヤつかせている。
「私が彼女なんですけど」という主張をやり切った誇らしさと、俺を翻弄して楽しむ小悪魔な余裕が隠しきれずに滲み出ていた。
人前でベタベタされるのは正直勘弁してほしいけれど、そんなに分かりやすく嫉妬して、自分のポジションを当然のように守ろうとする姿は、どこか子供っぽくて可笑しくもある。
「はいはい、普通ね」
俺が苦笑しながらそう言うと、カナは少しだけ嬉しそうに、けれどやっぱり腕は組んだまま、俺の顔を見上げて小さく笑った。
それからしばらくして、熱気に満ちたパーティーもようやくお開きとなった。
店を出ると、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返った夜道が広がっていた。
冷たい夜風が、火照った身体に心地よい。
並んで歩く俺たちの間に、カツカツとカナのヒールの音だけが規則正しく響く。
店を出てもなお、カナはまだ少しだけ不満げに唇を尖らせ、軽い嫉妬を引きずっている様子だった。
そんな彼女の様子を伺っていると、カナは不意に足を止め、俺の顔をじっと見つめてきた。
「ねぇ、恭介さん」
「ん?」
カナは少し首を傾げ、上目遣いで、けれど自分の魅力に対する絶対的な自信を覗かせながら、甘えるような声で言った。
「さっきの若い子より、私の方が全然いいよね?」
そのストレートで、どこか独占欲の強い問いかけに、俺は思わず吹き出しそうになった。
どこまでも強気で、けれど俺の言葉を求めているめんどくさを孕んだ、可愛い彼女。
俺は苦笑しながら、彼女の肩を軽く引き寄せるようにして再び歩き出した。
「その通りだよ」
俺の言葉に、カナは今度こそ満足したように表情を緩め、嬉しそうに微笑んだ。
めんどくさいけれど、まぁ、こういう可愛い嫉妬なら悪くはない。
周囲の静まり返った夜道のなかで、俺はカナに腕を引かれるようにして歩みを進めていくのだった。




