逃避の味
会うたびに妻の話題を詮索され、挙句の果てに狂気じみた問いをぶつけてくるカナが、正直に言って今の俺にはひどくウザかった。
「どうして一緒にいるの?」なんて、不倫相手の男に聞いてどうするつもりなんだ。
大人の割り切った関係を楽しんでいたはずなのに、一歩踏み外せば底なしの沼が待っているような、あの特有の「女心」というやつが、俺には昔からどうにもよく分からない。
息が詰まるような日常から逃れるように、俺はスマホを取り出し、美里にLINEを送った。
『今晩暇じゃない?』
少しの沈黙の後、画面にぽんと返信が跳ねる。
『暇だよー』
いつも通りの、軽くて気負いのないテンポ。
その文面を見ただけで、胸の仕えが少しだけ軽くなるような気がした。
俺は美里の部屋へと足を向けた。
美里に会うと、とにかく癒された。
カナのようにトゲのある言葉で俺を試すこともなければ、我が家のプライベートを暴こうともしない。ただそこにいて、穏やかな時間を共有してくれるだけで、ささくれ立った俺の心はゆっくりと解きほぐされていくようだった。
グラスを傾けながら、俺は何気なさを装って、美里に疑問をぶつけてみた。
「なぁ。奥さんがいる人と付き合ってさ、その奥さんに嫉妬したりするもの?」
美里はグラスを持つ手を止め、少し意外そうな顔をした後、悪戯っぽく微笑んだ。
「するかなー。やっぱり、1番の女になりたいじゃない?」
その言葉は、あまりにもストレートで、だからこそ重かった。俺は少し身構えながら、さらに踏み込んでみる。
「美里も嫉妬することあるの?」
「もちろんあるよ」
あっけらかんと、しかし確信を込めて美里は言った。
その瞬間、胸の奥が、冷たい風に撫でられたようにざわっとした。美里の口から、カナと同じ「女の独占欲」の片鱗が覗いたからだ。
「そういう経験、あるの?」
俺の問いに、美里はただ含み笑いを漏らし、煙に巻くように視線を外した。
「どうかなー?」
答えをはぐらかす彼女の瞳の奥が、一瞬だけ、いつもの癒しの光とは違う、底の知れない色を帯びたように見えた。
美里のどこか含みのある「どうかなー?」という言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。
すると、美里は俺の顔をのぞき込むようにして、悪戯っぽく目を細める。
「それって、恭介くんの話?」
図星を突かれそうになり、俺は心臓が跳ね上がるのを悟られないよう、すぐに大袈裟な態度で首を横に振った。
「そんなわけないじゃん!」
俺は鼻で笑いながら、グラスを傾ける。
「友達とそういう話をしててね。……ほら、女の嫉妬についてさ。男同士じゃよくわからないから、ちょっと気になって聞いてみただけだよ」
「ふーん、お友達の話ねぇ」
俺が「友達の話」だと慌てて取り繕ったのを分かってか分からずか、美里は頬杖をつきながら、今度は逆に俺へ問いを投げかけてきた。
「男の人はどうなの? 普段遊んでる女の子の彼氏に嫉妬する?」
その瞬間、俺の脳裏に『あれ? 美里のことなんじゃないだろうか』という疑念がよぎった。彼女が普段、俺以外のどんな男と関わっているのか、そのリアルな影が不意に目の前に現れたような気がした。
だが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。俺は努めて大人の余裕を崩さないよう、静かに微笑んでみせた。
「俺は嫉妬しないかなー。……だって、嫉妬しても何も変わらないでしょ?」
割り切った関係の範疇を超えて感情を爆発させても、事態が好転することなど何一つない。
しかし、さっきの彼女の問いかけがどうしても引っかかる。俺は自分の胸のざわつきを隠しながら、今度はこちらからストレートに疑問を口にしてみた。
「それって、美里のこと?」
すると美里は、俺の目をじっと見つめ、悪戯っぽくて底の知れない笑みを浮かべてこう返した。
「どうかなー?」
俺が黙り込むと、美里はさらに距離を詰めるように、ふっと声を潜めた。
「恭介くんに彼女がいたら、ちょっと困るかなぁ」
ゆっくりと、けれど確実に俺の逃げ道を塞ぐように、美里は優しく言葉を攻め立ててくる。
カナのように激しく感情をぶつけてくるのとは違う。
静かに、じわじわと俺の心へと染み込んでくるような、そんな質の違う重さがあった。
「もしそうだったら、私は1番なのかな?」
トロンとした、それでいてどこか真剣な眼差しが、真っ直ぐに俺を射抜く。
その生々しい女心の攻勢をまともに受け止めるのを避けるように、俺は少し口元を緩め、さっきの彼女の口調をそっくりそのまま真似してみせた。
「どうかなぁ?」
俺のそのはぐらかしに、美里は張り詰めていた空気をふっと緩め、小さく肩をすくめて笑った。
「ちょっと、真似しないでよ(笑)」
「お互い様だろ」
クスリと笑い合うことで、その場に漂った重い空気は一旦霧散したかのように見えた。
『俺は、誰かの1番なんだろうか』
美里の笑顔を見つめながら、ふとそんな疑問が頭をよぎる。
そもそも、1番になることがそんなに重要なのだろうか。誰かの特別でありたいと願う女たちの情念が、今の俺には少しだけ重く、そしてどこか他人事のように冷めていた。
そんな俺の、どこまでも不誠実でクズな一面が、お酒の勢いもあってか、ふいにつるりと口をついて出る。
「美里は1番だよ。くだらないこと聞くなよ」
ただその場の空気をやり過ごすためだけの、甘くて中身のない言葉。
美里は俺の言葉に一瞬だけ目を見張り、それからすべてを見透かしたような、少し寂しげな笑みを浮かべた。
「嘘でも嬉しい。ありがと」
そうやって割り切ったフリをされると、男の妙なプライドがほんの少しだけ刺激されるのだ。俺は美里の肩を引き寄せるようにして、さらに言葉を重ねた。
「嘘じゃないよ!」
俺がそう言って美里の肩を引き寄せると、彼女は「もう、調子いいんだから」と呆れたように笑った。
カナとの間に漂うあの息苦しい空気から逃れて、美里の部屋にいる時間は、俺にとって何よりも代えがたい避難所だった。
そこから先は、本当に中身のない、くだらない世間話だった。
最近あった変な客の話や、テレビのニュースに対するどうでもいい文句。
お互いに声を上げて笑いながら、俺は完全に油断しきっていた。
やっぱり、美里といるのが一番楽だ。
カナのようにトゲのある言葉で俺を試すこともなければ、我が家のプライベートを暴こうともしない。
俺のクズな部分も、身勝手な言い訳も、ここなら全部笑って受け止めてくれる。
「あーあ、もうずっとここにいたいわ。男ってさ、結局こういう風に何も考えずに甘えられる場所が欲しいわけよ」
ソファーに深く体重を預け、俺は自分のワガママを何気なく口にした。
美里なら「はいはい」と笑って聞いてくれる、そう確信していたからだ。
だが、その瞬間、美里の笑い声がふっと止まった。
「……美里?」
いつもの優しい笑顔。いつもの柔らかな表情。
けれど、俺を見つめる彼女の瞳の奥から、光だけが綺麗に消え失せていた。
美里は俺の頬を優しく撫でながら、声音だけをスッと冷たくして、静かに告げた。
「私は恭介くんのお母さんじゃないのよ」
突き放すような冷徹な言葉。
しかし、俺の頬を包む彼女の指先は、ゆっくりと、這うようにして俺の唇、そして首筋へと降りていく。俺を男として値踏みし、縛り付けようとする「一人の女」の動きだった。
完全に身体を硬くした俺の耳元に、美里はさらに顔を近づけた。
そして、今度はとろけるように甘い、いつもの声で囁いた。
「ねぇ、いっそのこと……ここで一緒に暮らさない?」
冗談のようなトーン。だけど、その目は一切笑っていない。
俺を家庭から、日常から引き剥がし、この部屋という名の檻に閉じ込めてしまおうとする、優しく、けれど逃げ道のない提案だった。
見たこともない濁った沼が口を開けて俺を呼んでいる。
俺は引き攣った笑みを浮かべることしかできなかった。




