見えない視線
子供たちが同じ学校に通うようになった以上、今後はますます行動に気をつけなければならない。
いつもの街の喧騒に紛れていたはずの俺たちの関係に、今や「同じ学校の保護者」という、身近で、かつ最も厄介な監視の目が加わったのだ。
どこで誰に見られているかわからない。
俺とカナは、互いの距離感や連絡の取り方について、これまで以上に慎重になるという小さなルールを共有した。
それからというもの、運動会や授業参観といった学校行事が近づくたびに、俺はカナからその予定を事前に報告されるようになった。
「来週、参観日だから」「今度の日曜、運動会だよ」
相変わらず行事に関心のない俺にとっては、彼女からの連絡が、我が家のスケジュールを知る唯一の手がかりになっていた。
俺はいつも通り、仕事の予定を入れてそれらの行事をすべてパスする。
だが、そんなある日のことだった。
いつも通りに会っていたカナから、不意に棘のある言葉を投げつけられた。
「恭介さんの奥さん、綺麗な人だね」
微笑んではいるが、その瞳の奥は全く笑っていない。
隠しきれない嫉妬と嫌味が、その短い言葉にべっとりと張り付いていた。
聞けば、何かの行事の際、カナが意図的に我が家の名前を探り当て、妻の姿を遠くから盗み見たのだという。
「……そうか」
俺は短くそう返すことしかできなかった。
そんなことを言われたところで、俺にどうしろというのだろう。
勝手に妻の姿を探し出し、勝手にあれこれ品定めして、勝手に不機嫌になっている。
男からすれば、これほど理不尽でどうしようもないこともない。
大人の割り切った関係のはずだった。
だが、学校という共通の舞台が、カナの中に眠っていた生々しい独占欲と嫉妬心を、じわりと炙り出し始めているようだった。
それ以来、学校行事があるたびに、カナからの「報告」は執拗に続くようになった。
会うたび、あるいは行事が終わった夜のメッセージで、彼女は必ずその話題を口にする。
「今日も奥さん来てたよ」
……当然だろう。我が子の晴れ舞台なのだから、母親が足を運ぶのは至極まっとうなことだ。
俺に言わせれば、一度わざわざ探して見てしまったからこそ、その後も嫌でも気になって目で追ってしまうのだろう。
だが、それを毎回俺に報告されても、一体どうしろというのだ。
「そんなことを俺に報告されても、どうしようもないだろ」
ある時、さすがに辟易してそう告げると、カナはフンと鼻を鳴らし、あからさまにそっぽを向いた。
「別に何もしなくていいよ。……ただ、私が言ったっていいじゃない。それくらい」
少し拗ねたような、それでいてトゲのある言い方。
行事があるたびに、カナはどこか不機嫌そうに愚痴るようになった。それだけで終わればまだよかったが、次第に彼女の口からは、俺の妻に関する具体的な質問が次々と飛び出すようになる。
「ねぇ、奥さんってどんな人なの?」
「普段、何の仕事してるの?」
「ねぇ、奥さんって浮気とかしないの?」
探るような、試すような、粘り気のある問いかけ。
「ねぇ、奥さんと一緒に寝てるの?」
「奥さんって、私とタイプ違うよね。奥さん、髪長いよね」
そう言って、カナは自分の短い髪に細い指先で触れた。
以前、俺が何気なく「ショートカットの女性が好きだ」と言ったとき、彼女は嬉しそうに微笑んで、本当に髪をバッサリと切ったことがあった。
あの頃の健気で可愛い行動すらも、今のカナにとっては、ロングヘアである俺の妻に対する対抗心や、割り切れない気持ちを刺激する材料になってしまっているようだった。
一方で、俺はカナといるときに妻のことなど微塵も喋りたくなかった。
家庭のリアルな生々しさを持ち込まれることほど、鬱陶しく、興ざめなものはない。
だが、カナの詮索はそこで止まらなかった。じっと俺の横顔を見つめながら、さらに核心へと踏み込んでくる。
「ねぇ……恭介さんって、奥さんのこと好きなの? どういうところが好き?」
「別に、好きじゃないよ」
平凡で、退屈で、何よりも貴重だったはずの俺たちの日常。
過去の甘い記憶すらも侵食していくような、妻の存在を執拗に詮索してくるカナの歪んだ独占欲に、俺はグラスの氷を弄びながら、冷めた苛立ちと共にただじっと耐えることしかできなかった。
俺は感情を交えず、ただ冷淡にそう返した。
本当に、これ以上カナといるときに妻の話題など喋りたくなかったのだ。
鬱陶しく、興ざめなだけだった。
しかし、俺のその冷たい一言が、かえってカナの心の暗い部分を刺激してしまった。
「じゃあ……じゃあ、どうして一緒にいるの?」
その問いの瞬間、カナの瞳の奥に、言葉にできない歪んだ光が宿った。
ただの嫉妬や拗ねた愚痴ではない。何かが一線を超え、彼女の奥底に眠っていた「狂気」が、今にも目覚めて表に溢れ出しそうな、ゾッとするような危うさがあった
平凡で、退屈で、何よりも貴重だったはずの俺たちの日常。
目の前のカナが孕み始めた見えない狂気の気配に、俺はグラスの氷を弄びながら、冷めた苛立ちと、背筋を伝う小さな恐怖をただじっと堪えることしかできなかった。




