日常の引力
楽しかった温泉旅行の余韻も、数日も経てばいつもの街の喧騒にかき消されてしまう。
コンクリートに囲まれた見慣れた街並み、絶え間なく行き交う車の音、どこか冷ややかな人混み。そんな「日常」のサイクルに、再び自分の身体が埋もれていくのを感じていた。
一日の仕事を終え、夜になると自然と足が向くのは、いつものバー『アンカー』だ。
カウンターの定位置に身を寄せ、静かにグラスを傾ける。
琥珀色の液体が喉を焼く感覚だけが、退屈な毎日の確かな刺激だった。ドラマチックな事件もなければ、大きな変化もない。ただ時間が淡々と流れていく、そんな退屈とも言える平穏な毎日が続いていく。
それでも、旅を終えてからの日々が完全に元通りというわけではなかった。
カナとは相変わらず頻繁に連絡を取り合って会っている。市場で「奥さん」と呼ばれて照れていた姿が嘘のように、いつもの街に戻ればまた少し大人びた、けれど俺の前だけで見せる小悪魔的な可愛さは健在だった。
そして美里とも、それなりに時間を合わせ、静かで落ち着いた大人の関係を続けている。
お互いの生活を侵食し合わない、あの心地よい距離感のままで。
ふたりの女性との、いつも通りの毎日。
グラスの氷を指先で揺らしながら、俺はこの変わらない日常の引力に、心地よさと一抹の物足りなさを同時に覚えながら、静かに夜を過ごしていた。
そんなある日のこと、退屈な日常の歯車を少しだけ狂わせる、ちょっとした出来事があった。
カナがふと、ため息混じりに「息子が受験するんだよね」と切り出してきたのだ。
詳しく聞いてみると、カナの息子は俺の娘と同い年で今までお互いの子供の年齢を深く意識したことはなかった。
ただ、我が家の教育方針は至ってのんびりしたものだった。
娘は特に受験などせず、学区内にある地域の公立学校へそのまま進学する予定で、受験戦争とは無縁の生活を送っている。
一方で、カナは目に見えて神経質になっていた。
普段の小悪魔的な余裕はどこへやら、母親として息子の進路にあれこれと気を揉んでいるようで、どこかピリピリとした空気を纏っている。
(今は余計な口を挟まず、邪魔をしないように見守るのが正解だな……)
俺はそう判断し、彼女の家庭に踏み込みすぎないよう、適度な距離を保ちながら静かに時が過ぎるのを待った。
やがて季節は変わり、受験シーズンが終わる。
彼女からのポツリとした報告で、カナの息子が第一志望の受験に落ちたことを知った。
それだけなら、よくある不合格の割り切れない話で終わるはずだった。
しかし、驚くべき事実はその後に判明した。
カナの息子は、私立へは行かず、ただ割り当てられた地域の公立学校へと進むことになった。
それが、うちの娘が通うことになる学校と、全く同じだった。
その事実を先に知ったのは、カナの方だった。
いつものように顔を合わせた時、彼女はいつになく複雑な、どこか戸惑いを孕んだ表情で俺を見つめ、事の顛末を口にした。
「恭介さんの娘さん、あの学校に行くんだよね? うちのコも、そこに行くことになっちゃった」
カナからその言葉を聞かされた瞬間、胸の奥に、なんとも言えない、言葉にできない感情が広がっていった。
驚きなのか、あるいは一種の気まずさなのか。自分でもうまく整理がつかない。
今まで、カナとの関係はあくまで「大人の男女」として完結していた。
お互いの家庭や子供の存在は、頭では理解していても、どこか遠い世界の出来事のように捉えていたのだ。
それが、子供たちの進学というあまりにも現実的な形で、地続きになってしまった。
この先、入学式や学校行事、あるいは日々の生活の中で、一体どうなっていくのか。
今はまだ、具体的な未来を何一つ想像することができなかった。
ただ、俺の中で一つだけ、明確に決めているラインがあった。
(子供だけは、絶対に巻き込まない)
親たちの割り切れない関係や事情に、何も知らない子供たちを巻き込むことだけは、あってはならない。
ざわつく心を無理やり抑え込みながら、俺はカナの前で、ただ静かに小さく頷くことしかできなかった。
そうこうしているうちに、桜の季節が巡り、入学式の日がやってきた。
だが、俺はいつも通り仕事に向かっていた。
昔からその手の学校行事には一切参加したことがない。
それは我が家において冷徹なほど「当たり前」のルールになっており、妻や娘から不満をぶつけられることもなかった。
家庭内で進学や学校の話題が出ることもない。俺はいつも、すべてが終わったあとに「今日が入学式だったのか」と事後報告のように知るだけなのだ。
今回も例外ではなかった。娘が新しい制服に袖を通したであろうその日、入学式が無事に終わったことを俺に教えてくれたのは、他ならぬカナだった。
夜、スマートフォンに届いたカナからのメッセージには、どこかホッとしたようなニュアンスが滲んでいた。
『今日、入学式だったよ。……幸い、同じクラスにはならなかったみたい』
画面に表示された文字を見つめながら、俺は小さく息を吐き出した。
同じクラスになっていれば、子供同士が家での会話の中で互いの親の名前を口にするリスクが跳ね上がっていたはずだ。
ひとまずは最悪の事態を免れたことに、胸の奥のざわつきが少しだけ収まるのを感じる。
クラスが違えば、すれ違うだけの他人のままでいられるかもしれない。
そう自分に言い聞かせながらも、同じ校舎にふたりの子供たちが通っているという事実は変えようがなかった。
いつもの街の、いつもの喧騒。
その一角にある学校で、俺たちの知らない子供たちの新しい生活が、静かに幕を開けていた。




