小悪魔の贔屓
翌朝、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目を覚ました。
隣の温もりを探して無意識に手を伸ばしたが、ベッドのシーツはすでに空っぽで、ほんのりと冷たくなっている。
ふとテラスのガラス窓に目をやると、朝霧が立ち込める露天風呂の湯船に、カナの姿があった。
お湯に肩まで浸かりながら、カナがこちらを振り返る。
起きたばかりの俺と視線が合うと、彼女はパッと花が咲いたような笑顔を見せ、嬉しそうに手招きをしてきた。
誘われるように、俺もベッドから抜け出してテラスへと向かった。
冷たい朝の空気が素肌を心地よく刺激する。
ゆっくりとお湯に身体を沈めると、昨夜のアルコールと心地よい疲労感が、じんわりと溶け出していくようだった。
「ね? 最高の朝でしょ?」
カナが隣で嬉しそうに微笑む。
目が覚めてすぐに、好きな相手とこうして温泉に浸かっている。
日常の喧騒をすべて忘れて、ただ目の前の心地よさに身を委ねる。本当に、贅沢な一日だ。
部屋でのんびりと朝湯を堪能したあと、朝食の時間になった。
運ばれてきたのは、炊き立てのご飯に焼き魚、優しい味付けの小鉢が並ぶ、いかにも温泉旅館らしい丁寧な和朝食だ。
普段、朝はそんなに食べない俺は、並んだ料理を少しずつ静かに口に運ぶ。
対照的に、カナは「美味しそう!」と目を輝かせ、実に見事な食べっぷりを見せていた。
(よくそのスリムな体型を維持できてるな……)
気持ちいいほどによく食べる彼女の横顔を眺めながら、心の中でそんな感嘆の声を漏らしてしまう。
だが、美味そうに食べる姿は見ていて気持ちがよかった。
お世話になった旅館をチェックアウトし、車を少し走らせて立ち寄ったのは、地元の活気溢れる魚市場だった。
建物の中に一歩足を踏み入れると、磯の香りと共に「いらっしゃい!」「安いよ!」と威勢のいい声が飛び交っている。
観光客を相手に、店員たちが熱心に声をかけてくるのだ。店先には、水揚げされたばかりの新鮮な魚介類や地元の名産品がずらりと並んでいる。
賑やかな場内をあちこち見て回りながら、何度も店員たちから声をかけられた。
人混みを歩くうち、カナが俺の袖をきゅっと引きながら、ひそひそ声で感想を言いはじめる。
「さっきの角の人はちょっと押しが強くていまいちだったなぁ」
「そうか? 市場なんてあんなもんだろ」
「うーん、でもさっきの干物屋さんのおじさんは、すっごく感じが良くていい人だったよ! 」
カナはさっきから、特定の店だけをあからさまに絶賛している。
(そりゃそうだろ。さっき『そこの美人の奥さん! 旦那さんと仲良くこれ食べてってよ!』って満面の笑みで声をかけてくれたおじさんだからな)
その瞬間、カナが「奥さん、だって……」と嬉しそうにモジモジしていたのを、俺は見逃していない。
店員の評価が、単純に「自分を奥さんと呼んでくれたかどうか」で決まっているのが丸わかりだった。
言葉には出さず、心の中でそうツッコミを入れながら、いまだにご機嫌な様子で歩くカナの横顔を見て、思わず口元が緩んでしまうのだった。
いくつかの観光地を巡り、お互いへのお土産を選んでいるうちに、楽しかった旅もいよいよ終わりへと近づいていく。
車が都市部へと戻るにつれて、窓の外の風景は、静かな山あいの緑から、ビルや看板の並ぶ騒がしい街並みへと変わっていった。流れていく景色が騒がしさを増すのと反比例するように、車内の空気には、どこか静かで名残惜しい「終わりの気配」が満ちていく。
助手席のカナも、行きとは違って少し静かに、名残惜しそうに外を眺めていた。
やがて車はカナの家の近所へと到着し、ハザードを焚いて停車する。
カナはシートベルトを外すと、寂しさを隠すように、ひときわ明るい笑顔を俺に向けた。
「本当に楽しかった!……絶対、また行こうね!」
「ああ。また行こう」
俺がそう答えると、カナは嬉しそうに頷き、助手席のドアを開けた。
荷物を手渡して見送ったあと、車をゆっくりと発進させる。
ふとルームミラーに目をやると、カナが歩道に立ち、車が見えなくなるまで小さく手を振り続けていた。
ミラーの中で少しずつ小さくなっていく彼女の姿を見つめながら、俺の胸の中には、まだあの温泉の温もりが静かに残り続けていた。




