情熱と静寂の間
「ねぇ、恭介さん。まだ夕食まで時間あるよね?」
宿に戻ってきたものの、夕食の開始時間まではあと1時間ほどあった。
カナは部屋に入るなり、再び露天風呂へと向かおうとする。
「温泉は美肌効果があるからね。何回でも入らなきゃ」
そう嬉しそうに言って、カナはまたすぐに湯船へと滑り込んでいった。
ガラス越しに見える、お湯に浸かる彼女の姿。
今度は俺が視線を向けても、カナは恥ずかしがって怒るようなことはしなかった。
それどころか、湯気の中で俺を見つめ返し、「こっちおいで」と楽しそうに手招きまでしている。
「俺はいいよ。ここでゆっくりさせてくれ」
俺がそう言って座椅子から動かずにいると、カナはふっと不敵な笑みを浮かべ、おもむろに湯船から立ち上がった。
そして、部屋の中にいる俺に向けて、全裸のままでまるで海外のファッションモデルのような、大袈裟でキザなポーズを決めてふざけ始めた。
おどけたポーズなのに、湯気の中に立つ彼女の身体は、崩れのないしなやかなラインを描いていてハッとするほど美しい。
その白さと肉体的な魅力に、俺は一瞬だけ目のやり場に困った。
だが、これ以上調子に乗らせるのも癪だし、まともに相手をしていたらこちらの理性が保たない。
「おい、風邪ひくぞ」
俺はわざとため息をつき、相手にしないという意思を示すように、ガラス窓に背中を向けて寝転がった。
しばらくすると、ガラリとガラス戸が開く音がして、湯上がりの熱気をまとったカナが戻ってきた。
「ちょっと、なんで入ってこないのよ! 私、大サービスしたでしょ!」
カナは濡れた髪をタオルで拭きながら、本当に不満そうに声を張り上げる。
その怒り方も、どこか甘えるような響きを含んでいた。
「もう夕食の時間だよ。ほら、髪を乾かして早く行くぞ」
俺がそう促すと、カナはすぐに嬉しそうに身支度を始めた。
食事処に移動し、待ちに待った夕食の時間が始まる。
運ばれてくるのは、地元の新鮮な食材をふんだんに使った美しい料理の数々。そして、それに合わせる地元の美味しいお酒。
「美味しい……! 恭介さん、これ食べてみて!」
カナは一口食べるごとに目を輝かせ、お酒を嬉しそうに煽りながら、本当に大満足といった様子で笑顔を弾けさせていた。
目の前の相手が全力で「今」を楽しんでいるそのエネルギーが、お酒の酔いとともに心地よく身体に染み渡っていった。
食事を終えて部屋に戻る廊下でも、カナはどこか名残惜しそうに、俺の腕をきゅっと抱きしめるようにして歩いている。
部屋に戻ると、少し酔いの回ったカナは、嬉しそうに再び客室の露天風呂の方へと視線を向けた。
「ねぇ、恭介さん。私、また温泉入ってこようかな」
「本当に温泉が好きだな」
俺が苦笑しながら言うと、カナはいたずらっぽく微笑み、こちらを振り返ってまっすぐに見つめてきた。
「今度は、一緒に入るよね?」
その瞳には、お酒のせいだけではない熱が宿っていた。いつもより少し甘えるような、けれど真剣な響きがその言葉には混ざっている。
「うん」
俺が静かにそう答えると、カナは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから本当に嬉しそうな、ひときわ輝く笑顔を見せた。
「じゃあ、待ってるね」
弾んだ声でそう言い残し、カナはテラスへと向かっていく。
ガラス戸の向こうで湯煙に包まれる彼女の影を眺めながら、俺もまた、日常のすべてを置き去りにしたこの特別な夜へと身を委ねるように、ゆっくりと立ち上がった。
露天風呂に足を踏み入れると、じんわりとした熱さが全身を包み込んでいった。冷えた夜気と、肌を刺すような熱いお湯のコントラストが、凝り固まった身体をゆっくりと解きほぐしていく。
「よくわからないけど、本当にいいお湯だな」
思わず深く息を吐きながら呟くと、先に肩まで浸かっていたカナが、嬉しそうにこちらを振り返った。
「でしょ? ねぇ、私これで3回目だよ?」
「入りすぎだろ。のぼせるぞ」
俺が呆れたように言うと、カナはいたずらっぽく笑い、お湯を揺らしながらするりと俺の目の前へと移動してきた。
そして、ごく自然な動作で、俺の股の間へとその身体を滑り込ませてくる。
俺の胸にカナの背中がぴったりと重なり、お湯の熱さとはまた違う、彼女の柔らかく確かな体温がダイレクトに伝わってきた。
俺は自然な流れで、カナの引き締まったお腹のあたりに腕を回した。
カナはそれに身を委ねるように、俺の腕の上に自分の手をそっと重ねる。
浴槽の向こうには、夜の帳が下りた静かな山々のシルエットが広がっている。
街の明かりは届かず、ただ澄んだ夜空に星がいくつか瞬いているだけだった。
カナの髪から漂うかすかなシャンプーの香りと、お湯の匂い。
時折、身体の位置を変えるたびに揺れる、温かいお湯の感触。
何も喋らず、ただ同じ夜の景色を眺めながら、まったりとゆっくりとした時間が流れていく。
この世界には俺たち二人しか存在しないのではないか――そう錯覚するほどの静寂が、心地よかった。
しばらくの間お湯に浸かり、すっかり火照った身体でふたりで部屋へと戻った。
エアコンの効いた室内に入ると、素肌に触れる冷たいベッドのシーツが格別に心地よく感じられる。
冷蔵庫から冷えたお酒を取り出して乾杯し、テレビをつけると、聞いたこともないような地方のローカル番組が流れていた。都会の洗練された番組とは違う、どこか手作り感のあるユルい内容に、ふたりで笑い合う。
そんな他愛のない時間を過ごしている最中、俺の視線はある一点に引き寄せられていた。
カナはベッドの上に崩した姿勢で座っているのだが、浴衣の裾の隙間から、身につけている下着がチラリと覗いていたのだ。
(わざとか?)
それとも、お酒が入って単に無防備になっているだけなのか。
カナの行動には、時折こうして計算なのか天然なのか判別がつかない「あざとさ」がある。
男である以上、どうしても視線がそちらへチラチラと向かってしまうのを止められない。
カナはテレビを見たまま笑っているが、果たして俺のこの視線に気づいていて、わざと気づかないフリをしているのだろうか。
お酒の酔いも手伝って、部屋の中に漂う空気が、テレビの賑やかな音とは裏腹に、じわじわと甘く濃密なものへと変わっていくのがわかった。
お酒もほどよく回ったところでテレビを消し、ふたりで同じベッドへと潜り込んだ。
腕枕をしてカナを隣に引き寄せると、彼女の髪からいい香りが漂ってくる。薄暗い照明の中、お互いの息遣いを感じられるほどの距離で、まだたわいもない会話の続きをひそひそと交わしていた。
すると、カナがふっと話を止め、俺の胸元に指先で小さな円を描きながら、上目遣いでニヤリと笑った。
「ねぇ、恭介さん。さっき、見てたよね?」
「……え?」
「見てたでしょ。……興奮した?」
その言葉に、心臓がドクリと跳ねた。
(やっぱりわざとだったのかよ)と内心で頭を抱えつつも、ここで素直に認めるのは負けた気がして、俺は極めて冷静を装いながらシラを切ることにした。
「ん? 何のこと?」
「もう、すぐそうやって誤魔化すんだから」
カナは俺の胸を軽く小突くと、楽しそうに目を細めて俺の顔を覗き込んできた。
「わかるんだからね。……エッチ」
吐息混じりに 囁かれたその一言と、完璧に俺の動揺を見透かしている小悪魔的な笑み。
その男心を翻弄する手慣れた可愛らしさに、俺は降参するしかなかった。
この底知れないあざとさは、ある意味で恐ろしいとさえ思う。
いたずらっぽかった瞳は、薄暗い照明の中で静かに熱を帯びていく。
俺の胸元に置かれた彼女の手には、いつの間にか少しだけ力がこもっていた。
会話はそこで途切れた。
どちらからともなく互いの距離が消え、腕の中のカナから温かい体温が伝わってくる。
サイドテーブルの灯りを消すと、部屋は静かな夜の闇に包まれた。
窓の外から聞こえる温泉の音だけが、ふたりの夜の始まりを優しく見守るように響き続けていた。




