喧騒を忘れる二人
適度に仕事をこなす平穏な日々を送り、ついにカナとの旅行のための連休がやってきた。
助手席のドアを開けたカナは、以前の旅行の時と同じように、体に見合わない大きな荷物を抱えていた。後部座席に押し込まれたそのパンパンに膨らんだバッグを見つめ、俺は運転席から思わず眉をひそめる。
「……なぁ、前より荷物増えてないか?」
「そんなことないよ」
カナは悪びれもせず、むしろ嬉しそうに微笑んで助手席に滑り込んできた。
その大きな荷物には、今回も俺への執着や、旅行にかける彼女の異常なまでの熱量が詰まっているのだろう。
エンジンをかけ、俺たちは北へ向けて車を走らせた。
フロントガラス越しに流れる景色が、ビル群から次第に山あいの緑へと変わっていく。
カナは助手席で熱心にスマホの画面を見つめながら、現地の情報を俺に伝えてくれた。
「この温泉街、美味しいお蕎麦屋さんが近くにあるみたい。あとね、近くのレトロな喫茶店もすごく評判が良くって……」
画面を俺に見せるようにしながら、楽しそうに話すカナの横顔は、いつになく生き生きとしていた。
「本当に、今日のために頑張って仕事を終わらせたんだから。有給取るのもすごく大変だったんだよ? 上司に何度もお願いして、やっとお休みもぎ取ったんだからね」
少し得意気に、けれど「あなたのためにここまでした」という重みを含んだ口調でカナは言う。
彼女にとって、この旅行がどれほど特別なものか。
その純粋で重い熱量に、俺はハンドルを握りながら少しだけ気圧されつつも、「そっか。ありがとな」と答えて、カナの嬉しそうな笑顔に視線を向けた。
高速道路を北へ走らせていると、カナがふいに助手席から身を乗り出し、俺の顔のすぐ近くまで顔を寄せてきた。
「ねぇ、お昼、何時くらいに着きそう?」
「おい、危ないからやめろよ」
横目でカナの綺麗な瞳を見つめ返しながら、俺は慌てて視線をフロントガラスに戻した。
「ふたりで乗ってて、事故でも起こしたら大変だろ。大人しく座ってろ」
「はーい」
少し不満そうに口を尖らせつつも、彼女は嬉しそうにシートに深く座り直した。
普段の窮屈な日常から解放されたせいか、明らかにテンションが上がっているのが伝わってくる。その様子は、まるで遠足に行く子供のようでもあった。
途中で見つけた大きめの道の駅に、休憩がてら車を滑り込ませた。
車を降りると、高原の少しひんやりとした風が心地いい。カナは車を降りるなり目ざとく看板を見つけ、真っ先に売店を目指した。
「美味しい!」
ご当地のソフトクリームを頬張りながら、カナは本当に幸せそうな笑顔を浮かべた。
さっきまでの子供のようなテンションのまま、美味しそうに甘いものを口にする姿を見ていると、こちらまで肩の力が抜けていく。
「そんなに甘いものばかり食べてると太るぞ」
少し意地悪くからかってみると、カナはソフトクリームを握った手を俺の目の前に突き出してきた。
「太らないもん! 食べてよ、ほら」
差し出された真っ白なソフトクリーム。
俺は少しだけイタズラ心が疼き、カナが口をつけた上部ではなく、まだ誰も触れていない綺麗な横側の部分をひょいと掠め取るようにして食べた。
冷たい甘さが口の中に広がる。
「ちょっと! なんかそれ、おかしくない?」
カナは目を丸くして、それからすぐに頬を膨らませてぷんぷんと怒り出した。
間接キスを避けたように見えたのが不満なのか、それとも変な場所をかじられたのが気に入らないのか。
「別にいいだろ、美味いよこれ」
「意地悪!」
そう言ってそっぽを向くカナだったが、その怒った顔さえも、今の俺にはたまらなく可愛らしく思えた。
美里の部屋での静寂とはまた違う、騒がしくも鮮やかな熱が、ゆっくりと俺たちの間を満たしていく。
道の駅からさらにしばらく車を走らせると、山あいの木々に囲まれた風情ある温泉宿が見えてきた。
砂利を敷き詰めた駐車場に車を止め、大きな荷物を抱えてロビーへと足を踏み入れる。
畳の香りと、ほんのりと漂う硫黄の匂いが旅情をそそった。
「いらっしゃいませ」
仲居さんの丁寧な出迎えを受け、フロントのカウンターへと進む。
そこで受付用の宿帳が差し出された瞬間、カナはごく自然な動作で迷うことなく、俺と同じ苗字をサラサラと書き込んでいく。
それを見るのは、これが初めてではない。
前回の旅行の時も、彼女はこうして平然と同じ苗字を書き、世間的には「夫婦」としてここに泊まる体裁を整えていた。
当たり前のように俺の妻の座にいるかのように振る舞うその筆跡を、俺は少し複雑な気持ちで見つめていた。
カナはこうして、躊躇なく俺の境界線の中に潜り込んでくるのだ。
フロントのスタッフは何の疑いも持たず、にこやかに鍵を手渡してくれる。
「ありがとうございます」
カナは嬉しそうに鍵を受け取り、こちらを振り返って小さく微笑んだ。
同じ苗字を名乗ることで、まるでふたりの繋がりが本物になったとでも言うように、彼女の瞳は満足げな熱を帯びていた。
案内されたのは、前回と同様に、客室に専用の露天風呂が付いている贅沢な和室だった。
テラスの向こう、湯煙を上げるヒノキの浴槽と、その向こうに広がる山々の美しい緑が目に飛び込んでくる。
カナは部屋に入るなり、その露天風呂に目を輝かせてワクワクした様子でこちらを振り返った。
「お風呂! 私、もう入ってもいい?」
「いいよ。運転で少し疲れたから、俺は部屋で少し休んでる」
俺がそう答えると、カナは嬉しそうに頷き、脱衣所へ向かった。
この客室は、部屋の中の畳に座ったままでも、大きなガラス窓越しにテラスの露天風呂がよく見える作りになっている。
俺は座椅子に深く腰掛け、ガラスの向こうの景色を眺めていた。
湯船に体を沈め、ふぅと気持ち良さそうに息を吐くカナの姿。湯気の中に浮かび上がる彼女の白い肌と、切り揃えられた短い黒髪が、外の自然の緑にとてもよく映えていた。
(……綺麗だな)
思わず見惚れてしまっていると、不意にカナがこちらの視線に気づき、浴槽の中で振り返った。
目が合う。
するとカナは、慌てて両手で胸元を隠し、顔を真っ赤にした。
ガラス越しなので声は聞こえないが、こちらを睨みつけながら「ちょっと、見ないでよ!」とでも言うように、ぷんぷんと口を動かして怒っている。
そのあまりに慌てた、けれど微笑ましいリアクションに、俺は思わず吹き出してしまった。
「悪かったよ」と手を振って見せると、カナはさらに頬を膨らませ、お湯をこちらに撥ねるような仕草をしてみせる。
何よりも愛おしく思えた。
ザザッと心地よい湯の音を立てて、カナが露天風呂から上がってきた。
バスタオルで濡れた体を拭きながら、ガラス戸を開けて部屋に戻ってくるなり、カナは頬を膨らませて愚痴をこぼした。
「もう、なんで覗いてるのよ。恥ずかしいじゃん」
「覗いたわけじゃないって。この部屋、構造上そこから丸見えだから仕方ないだろ」
俺が苦笑しながら言い訳すると、カナは「屁理屈ばっかり」と小さく舌を出した。
でも、その表情には嫌がっている様子なんて微塵もなくて、むしろ俺に見つめられていたことが嬉しそうでさえあった。
日が沈みかける前に、少し温泉街のあたりを散策することにする。
「ちょっと待っててね」
そう言って洗面台に向かったカナは、それからしばらく時間をかけて、丁寧に身支度を整えていた。
やがて現れた彼女の姿に、俺は思わず息を呑んだ。
さっきまでお風呂で子供のように燥いでいたカナはそこにはいなかった。
メイクをばっちりと決め、宿の浴衣を艶やかに着こなした、しっとりとした大人の女性が佇んでいる。切り揃えられた黒髪が、うなじの白さをより引き立てていて、思わず目を奪われるほどの魅力があった。
「お待たせ。……どう? 似合う?」
少しはにかみながら首を傾げるカナに、俺は「ああ、似合ってる」と素直な感想を返した。
宿の玄関を出ると、夕暮れ時の涼しい風が通りを吹き抜けていく。
カナは当然のように俺の隣に並び、ごく自然な動作で俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
カランコロンと、アスファルトに響く下駄の音。
夕日に照らされた石畳の坂道を、腕を組んでゆっくりと歩く。
すれ違う観光客たちの目には、俺たちの姿はどこからどう見ても、仲睦まじい夫婦そのものに映っているに違いなかった。




