凪
『お土産があるからおいで』
スマホの画面に表示された美里からのLINEを見て、俺は小さく首を傾げた。
お土産? どこかに出かけていたのだろうか。
そんな疑問を頭の片隅に浮かべながら、俺は上着を掴んで彼女の部屋へと向かった。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい、恭介くん」
出迎えてくれた美里は、いつものように穏やかで、優しい笑顔を浮かべていた。
彼女の部屋に一歩足を踏み入れると、それだけで張り詰めていた肩の力が抜けていくような錯覚に陥る。
カナといる時のあのヒリついた空気とは対極にある、静かで安全な場所。
リビングのテーブルには、すでに冷えたお酒と、丁寧に盛り付けられた軽いつまみが用意されていた。
美里は甲斐甲斐しく俺の前にグラスを置きながら、覗き込むように訊ねてきた。
「ご飯、もう食べた? まだなら何か作ろうか?」
「……お腹すいたな」
正直にそう答えると、美里は嬉しそうに目を細めた。
「ふふ、じゃあ急いで何か作るね。お酒飲みながら待ってて」
そう言い残して、彼女はキッチンへと向かっていった。
トントンと小気味よい包丁の音が響き始める。
冷たい酒を喉に流し込みながら、俺はその背中を静かに眺めていた。
キッチンから漂ってくる香ばしい匂いを嗅ぎながら、俺はソファに深く背を預けた。
俺は美里に、こういう家庭的な優しさを求めているのだろうか。
それとも、もっと根源的な母性のようなものだろうか。
彼女といると、自分が妙に小さく思える。対等な男と女というよりは、いつも美里の方が一枚も二枚も上で、圧倒的に大きいのだ。
やがて美里が、彩りの鮮やかな美味しそうなサラダ仕立ての皿を運んできた。
さっと手際よく作られたとは思えないほど、見た目にも美しい一皿だった。
「すごいな。美里って本当になんでもできるんだね」
素直に感嘆の声を漏らすと、美里は少し照れたように、でも穏やかに首を振った。
「そんなことないよ。できないことばかりだよ」
そう言いながら、彼女は俺の隣に腰を下ろし、嬉しそうに俺が食べるのを見つめてくる。
「私の方こそ、恭介くんがいてくれて本当に助かってるよ」
その温かい言葉に、俺は手にした箸を動かしながら、ふと、ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた疑問を口にしてみたくなった。
「美里は……俺に何を求めてるの?」
見返りを求めないその優しさが、どこか不思議だった。
美里は少しだけ驚いたように瞬きをした後、困ったような、でも愛おしそうな眼差しで俺を見た。
「うーん、一緒にいたいな、とは思うけど……それは難しいでしょ?」
責めるようなトーンは微塵もなかった。ただ、冷徹な現実をそのまま優しく受け入れるような、そんな声だった。
彼女は、カナとは違う。
自分の感情に任せてどこまでも突っ走るカナとは違い、美里は決して走らない。
立ち止まり、自分の引いた境界線を守りながら、静かに佇んでいるタイプだった。
その静寂が、今の俺には酷く心地よく、同時に少しだけずるいようにも思えた。
「何か、俺にやって欲しいこととかないの?」
サラダを口に運びながら、俺は少し前のめりになって訊ねた。
「掃除とか、電球の交換とかさ。本当に、何でもいいから」
いつも美里には与えられてばかりだ。
彼女が差し出してくれる無条件の居心地の良さに、俺はいつだって甘えている。
だからこそ、何か少しでも彼女の役に立ちたい、自分にできることで彼女を喜ばせたいという、焦りにも似た欲求が胸の奥で燻っていた。
美里は少し意外そうに俺を見つめた後、くすりと小さく笑った。
「恭介くんが何かしてくれるの? 嬉しいな」
「本当に、何でもいいよ。言ってくれればやるから」
「じゃあ……」
美里は少しだけ首を傾げ、悪戯っぽく、でもどこか慎ましやかに言った。
「わがまま言おうかな。今度、ふたりでご飯食べに行こう?」
その瞬間、俺の心の奥で、何かが冷たく固まる音がした。
――ふたりで、外へご飯を食べに行く。
それはごくありふれた、男女のデートの約束だ。だが今の俺にとって、それは決定的なリスクを意味していた。
脳裏をよぎるのは、「アンカー」で隣に座るカナの姿だ。俺の一言のためだけに長い髪を容赦なく切り落とし、俺を真っ直ぐに見つめていたあの強い眼差し。
もし、美里とふたりで歩いているところを、あの狂気的な執着を孕んだカナが見聞きしたらどうなるか。想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。
以前、美里から同じような誘いを受けた時も、俺はその恐怖から逃れるように適当な理由をつけて誤魔化していた。美里はそれを承知の上で、あえてこのタイミングで、その「わがまま」を投げかけてきたのだ。
目の前で穏やかに微笑む美里の表情が、今はどこか、俺の覚悟を試しているようにも見えた。
だが、何度も断るわけにはいかない。
いつも自分を無条件に受け入れ、癒やしてくれている美里。その彼女が、これほど慎ましやかに口にしたたった一つのわがままだ。これをまた曖昧に濁して逃げれば、ふたりの間にある何かが決定的に壊れてしまうような気がした。
俺は喉の奥に仕えそうになる恐怖を飲み込み、覚悟を決めた。
「いいよ。行こうか」
俺がそう言うと、美里はぱっと表情を明るくした。
「ほんとに? 嬉しいな」
その喜び方も、カナとはまるで違っていた。飛び跳ねるような大袈裟なものではなく、胸の前でそっと両手を合わせるような、穏やかで品のある大人の喜び方。
その落ち着いた仕草を見ていると、こちらの強張っていた肩の力も自然と抜けていく。
「最近ね、この近くに新しいお店ができたの。そこに行かない?」
美里のその言葉を聞いた瞬間、俺は心の底から安堵した。
彼女の家の近く。生活圏のほんの片隅にあるような場所なら、あの狂気的なカナや、俺の知人に目撃されるリスクは限りなくゼロに近い。
美里がそこまで計算してその店を提案したのかは分からないが、張り詰めていた警戒心がすっと解けていくのが分かった。
安全だと分かれば、現金なもので、俄然やる気が湧いてくる。
「分かった。いつにする? 来週の……」
俺はスマホのカレンダーを開き、自分から積極的に具体的な日程を提案し始めていた。
美里を喜ばせたいという純粋な気持ちと、安全な逃げ道を見つけたという安堵感が混ざり合い、テーブルを挟む空気は一気に温かいものへと変わっていった。
……とことんクズだな、俺は。
手元のグラスに視線を落としながら、俺は心の底から自嘲した。
美里の優しさに付け込み、その好意を利用して「安全な場所」でだけ男としての義務を果たそうとしている。
カナの狂気から身を守るために、美里の提示してくれた気遣いを都合の良い逃げ道にして、さっきまでの恐怖をすっかり忘れて浮足立っている自分。
そんな自分の狡猾さと身勝手さに嫌気がさしながらも、俺は美里の穏やかな笑顔に甘えることをやめられなかった。
そして、約束の当日。
美里のマンションに到着した俺は、エントランスのインターホンで彼女の部屋番号を押した。コール音が数回鳴った後、スピーカー越しに美里の穏やかな声が返ってくる。
『はーい、今降りまーす』
数分もしないうちに、いつもの優しい美里が笑顔でエントランスに姿を現した。外で会う彼女は、家の中にいる時よりも少しだけお洒落をしていて、それがまた新鮮に映る。
「お待たせ、恭介くん。行こうか」
美里に案内されるまま、並んで目的の店へと向かう。道すがら、俺はそれとなく周囲に視線を走らせていたが、やはりこのあたりでカナや知人の姿を見かける気配はない。胸の奥で、安堵の呼吸をそっと吐き出した。
着いたのは、新しくできたばかりだという落ち着いた雰囲気の小さなビストロだった。
店に入り、テーブル席へと案内される。その際、美里はごく自然な動作で俺をソファー側の奥の席へと促し、自分は通路側の席に腰を下ろした。
美里らしいな
男の俺をさりげなく立て、居心地の良い場所を譲ってくれる。そんな彼女の細やかな気遣いに触れるたび、俺の胸は少しだけちくりと痛んだ。
美里の「わがまま」は、ただ二人でご飯を食べに行きたいという、それだけの簡単なものだった。
だが、そんな些細なことで、普段彼女から一方的に与えられている優しさの重さと釣り合いが取れるはずもない。対等になりたい。そう思う俺の自尊心が、何かを頑張ろうと俺を焦らせた。
やがて、大皿に盛られた美味しそうな温前菜がテーブルに運ばれてきた。
「俺がやるよ」
俺はトングを手に取ると、美里の皿へ料理を取り分けようと乗り出した。普段はそんな気の利いたことなどしないのに、今日くらいは「男らしいところ」や「気が利くところ」を見せたかったのだ。
だが、慣れない手つきで不器用に料理を掴もうとする俺の手元を見て、美里はすぐに楽しそうに目を細めた。
「ふふ、私がやるからいいよ。恭介くん、普段そういうこと全然やらないでしょ。見ててハラハラしちゃう」
そう言って、美里は優しく俺の手からトングを受け取ると、手際よく、そして美しく二人の皿へと料理を取り分けてみせた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
「ううん。無理して頑張ってるの、ちょっと新鮮で可愛かったよ」
美里はクスクスと嬉しそうに笑っている。
「ほんとはできるんだよ!美里に譲ったんだよ」
少しムキになって言い返すと、美里はさらに目を細めて、まるで幼い子供をあやすような表情を浮かべた。
「うんうん、わかったから、食べよ」
完全に子供扱いされている。そう気づきながらも、これ以上反論しても見透かされるだけだと分かっているから、俺は諦めてフォークを口に運んだ。
美里の言う通り、料理はどれも本当に美味しかった。
店内の落ち着いた照明と、周囲の適度な雑音。外出し、他人の目を気にする必要がないこの安全な席で、俺たちは静かに食事を楽しんでいた。
「美味しいね、恭介くん」
「ああ、美味いな」
美里はただ嬉しそうに、何度も小さく頷きながら食事を進めている。
本当に、これだけなのだ。
彼女の求めている「わがまま」は、こうして静かに美味しいものを食べて、ただ同じ時間を共有すること。
美味しい料理を平らげ、適度にお酒も入って心地よく酔いが回った頃、俺たちは店を後にした。
夜の澄んだ空気が、火照った身体に心地いい。美里のマンションへと向かう帰り道、並んで歩くふたりの影が、街灯の光に引かれて静かに揺れていた。
エントランスの前に差し掛かったとき、美里がふと足を止め、悪戯っぽく微笑みながら俺の顔を覗き込んできた。
「良かったら……寄ってく?」
そのセリフと、少し小悪魔的な表情。
かつてふたりが初めて出会った、あの「初回」の夜の完全な再現だった。
美里はそれを覚えていて、あえて茶目っ気たっぷりに投げかけてきているのだ。
張り詰めていた緊張感はもうどこにもなかった。俺は肩の力を抜き、美里の瞳を見つめ返した。
「もちろん」
そう笑って返すと、美里は本当に嬉しそうに、少女のような笑みをこぼしてオートロックの鍵を開けた。
見馴れた美里の部屋に入る。何も変わらない、いつもの安心感に満ちた空間だ。
コートを壁に掛け、ソファに深く腰を下ろしたところで、美里が「あ、そうだ。お土産!」と声を弾ませて奥の棚へと向かった。
仕事で少し遠くの地方へ出張に行っていたらしく、そこでの買い物を思い出したようだった。
彼女が持ってきてくれた包みを開けると、中から現れたのは、その地方の有名な地酒だった。
綺麗なガラスのボトルが、部屋の明かりを優しく反射している。
「これ、今一緒に飲もうよ」
俺がそう誘うと、美里は「ふふ、じゃあ飲もうか」と嬉しそうに微笑み、キッチンからふたつ、形の良いグラスを持ってきた。
本日2度目の乾杯。
美里はいつものように、手際よくパパッと軽いつまみを用意して隣に座る。
地酒のすっきりとした甘みが、先ほどまでのワインの酔いと静かに混ざり合っていく。
お互いに良い具合にほろ酔いになっているせいか、肩が触れ合うくらいの距離にいる。
いつもより、明らかに距離が近い。
俺がほんの少しだけ距離を詰めようとした瞬間だった。
美里が俺の顔を覗き込み、悪戯っぽく、まるで小さな子供に言い聞かせるようなトーンで口を開いた。
「恭介くん……なんか、汗の匂いがするね。お風呂、先に入る?」
あまりにストレートな指摘に、俺は一気に恥ずかしさが込み上げてきた。外を歩いたからか、それとも店で不器用に取り分けを頑張って冷や汗でもかいたのだろうか。
「すぐ入る!」
俺が慌ててソファから立ち上がると、美里は楽しそうにクスクスと声を立てて笑った。
脱衣所に駆け込み、恥ずかしさを洗い流すように勢いよくシャワーを浴びる。
さっぱりして風呂から上がると、脱衣所の棚の上に、着替えとして美里のものらしきシンプルなシャツが綺麗に畳まれて置かれていた。
(……これを着るのか?)
他に選択肢もないので、恐る恐る袖を通してみる。
首回りも肩幅も、案の定、男の俺の身体には肉体的に小さすぎた。突っ張る生地に苦笑しながらリビングに戻ると、ソファで待っていた美里が俺の姿を見た瞬間、吹き出した。
「あはは! やっぱり小さいかー」
「小さすぎるよ。パツパツなんだけど」
俺がそうぼやくと、美里はニヤニヤとした笑みを浮かべ、さらに距離を詰めて囁くように言った。
「ごめんごめん、似合ってるよ。でも、この後どうせ脱ぐんでしょ?」
いつもの穏やかなお姉さんらしからぬ、確信犯的で不敵なセリフに、俺は不意を突かれて喉を詰まらせた。
「……っ」
俺の慌てた反応を見て、彼女は満足そうに「じゃあ、私もお風呂入ってくるね」と言い残し、軽やかな足取りでお風呂場へと向かっていった。
一人残されたリビングで、俺は美里の小さなシャツを着たまま、残った地酒をゆっくりと口に含んだ。
平凡で、暖かくて、お互いのくだらないやり取りに笑い合う空間。
何もドラマチックなことは起こらない、ただ静かで穏やかな凪の時間。
俺はその心地よいぬるま湯のような安心感に、溺れていくようだった。




