切り揃えられた歪み
「ねえ、恭介さんはどういう女性がタイプなの?」
グラスの結露を指先でなぞりながら、カナが唐突にそんなことを訊いてきた。
その声はどこか作り物めいて軽かった。
「カナみたいな人かな」
とりあえずの正解を口にすると、彼女は小さく笑って首を振った。
「それは知ってる。そうじゃなくて、もっと一般的な女性のタイプを知りたいの。ギャルとか?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ見た目は? 茶髪とか?」
「うーん……ショートカットが好きかな」
深く考えずにそう答えると、カナは自分の肩にかかる髪の毛を指先で弄びながら、少しだけ視線を落とした。
「私、髪短くないけどね」
そう言って、カナは唇を少し尖らせて、可愛く睨むように俺の顔を見てきた。
その仕草のあどけなさに反して、彼女の瞳の奥にある熱が、暗い店内の空気に妙に馴染んでいた。
「じゃあ、どういう服装が好き?」
質問の手を緩めないカナに、俺は手元のウイスキーを口に含んでから答えた。
「その人に合ってればなんでもいいよ」
「逃げないでよ。じゃあ……今日の私はどう?」
そう言って、カナは少し身を乗り出すようにして俺の顔を覗き込んできた。
視線を落とすと、薄暗い店内のわずかな光を拾うような、カナのタイトなワンピースが目に入る。身体のラインを強調するそれに、俺は視線を戻して短く応じた。
「すごく似合ってるよ」
その一言だけで、カナの表情は分かりやすいほどパッと明るくなった。
「本当? 嬉しい」
カナは目に見えて上機嫌になっていく。その単純さが少し不気味でもあり、同時に、扱いやすくて安心するものでもあった。
――それから数日後。
いつもの「アンカー」のカウンター席。
俺はいつも通り、平行に伸びる木目の上にウイスキーのグラスと灰皿を置き、カナがやってくるのを待っていた。
カラン、と静かにドアベルが鳴り、店の扉が開く。
その瞬間、カウンターの向こうでグラスを拭いていたマスターの目が、一瞬だけ丸くなった。
「あ……」と言いかけたまま、動きがピタリと止まっている。
なんだ?
怪訝に思い、俺は入り口の方へと振り返った。
そこに立っていたのは、カナだった。
だが、俺の知っているカナではなかった。
綺麗に伸びていたはずの豊かな黒髪が、丸みを残してすっきりと切り揃えられている。
女性らしい柔らかさのある、綺麗なショートボブ。
俺と目が合うと、カナは少し照れくさそうに、はにかむような笑顔を浮かべた。
「どうした?」
思わず声が出た。
呆然とする俺の前に、カナはゆっくりと歩み寄ってきて、隣の席に腰を下ろす。
「どう? 似合ってるかな……切りすぎちゃった?」
そう言って、恥ずかしそうに短い髪の毛先を指先でいじる。
そのすっきりとした耳元には、以前、俺がプレゼントしたピアスが見えていた。
元々整った顔立ちだとはずっと思っていたが、髪を短くしたことで、彼女の持つパーツの美しさがより一層際立っていた。今までの大人びた雰囲気とはまた違う、どこか危ういほどの透明感と艶っぽさがある。
俺は本気で驚き、言葉を失ったまま、目の前の新しいカナを見つめることしかできなかった。
数日前の、あの他愛のない会話が脳裏をよぎる。
『うーん……ショートカットが好きかな』
まさか、あの深く考えずに放った一言のためだけに、彼女はこれだけの執着を見せた。
驚きと見惚れる気持ちの裏側で、背筋に冷たいものが一筋走るのを、俺は確かに感じていた。
「前から可愛いと思ってたけど、もっと可愛くなってる」
俺がそう言うと、カナは一瞬だけ目を見開いた後、すぐに唇を尖らせた。
「なにそれ。チャラいなぁ……」
文句を言うような口調だったが、その声は隠しきれない歓喜で弾んでいる。
頬がほんのりと赤くなり、嬉しさを噛みしめるように手元のグラスに視線を落とした。
その分かりやすさが、たまらなく女らしかった。
「失恋でもした?」
少しからかうように訊いてみる。一般的に、女性が急に髪を短くした時の定番の冗談だ。
だが、カナはすぐに顔を上げ、俺の顔を可愛く睨む。
「違うよ。好きな人がショートが好きだっていうから」
静かに、でも決定的な事実を告げるように彼女は言った。
その瞬間、俺の胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。
数日前の俺の気まぐれな一言を拾い上げ、そのためだけに長い髪を切り落とし、俺が贈ったピアスを覗かせて笑っている。
危ういほどの執着だと分かっているのに、目の前で嬉しそうにしているカナの存在が、どうしようもなく愛おしかった。
「そっか」
俺は短く応じると、彼女の新しい髪にそっと手を伸ばした。
「カナは、どういう男がタイプ?」
少しだけ髪に触れた手を戻し、俺はグラスを傾けながら訊ねてみた。
髪を切るほど俺に執着している彼女だ、どんな答えが返ってくるかは分かっているつもりだった。
だが、カナは少しだけ首を傾げて、あっさりと答えた。
「うーん……特にタイプはないかなー」
「俺じゃないのかよ」
思わず苦笑混じりにツッコミを入れると、カナはいたずらっぽく目を細めて俺を見た。
「恭介さんの顔は、特にタイプでもないかな」
「じゃあ、なんで一緒にいるんだよ」
俺が少し拗ねたように見せると、カナは「なんでかなー」と言いながら、悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑った。
その屈託のない笑顔と、すべてを見透かしているような確信犯的な視線。
俺の反応を面白がっているそのイタズラな表情に、俺はただ苦笑するしかなかった。
「ねえ、これ見て」
カナがスマートフォンの画面を俺に向けてスライドさせてきた。
「友達から送られてきた写真なんだけど。温泉に行ったみたい。私も行きたいな。久々に旅行に行こうよ、恭介さん」
画面を覗き込むと、そこにはカナの友人らしき若い女性の姿が写っていた。水着姿で温泉に浸かっていて、湯気の中に豊かな肢体が浮かび上がっている。なかなかに刺激的な一枚だった。
男として、そこに視線が吸い寄せられるのは半ば本能のようなものだ。俺が黙ってその画面をじっと見つめていると、不意にスマートフォンが強引に引っこ抜かれた。
「ちょっと! 見過ぎじゃない? 変態!」
カナはスマートフォンを胸元に抱え込むようにして、露骨に眉を吊り上げて怒っていた。
「いや、カナが見せてきたんだろ」
「見せたけど、そんなに凝視しろなんて言ってない! 最低」
頬を膨らませてジロリと俺を睨みつけるカナだったが、その口調にはどこか、俺の反応を確かめて楽しんでいるような気配もあった。
「もう、絶対温泉行くからね! 」
怒り気味にそう宣言するカナの言葉は、半分は脅しで、半分はただの純粋なおねだりだった。
「分かったよ。じゃあ、どこに行くか決めるか」
俺がそう言うと、カナは「やった」と小さく声を弾ませ、すぐにスマートフォンを開いて俺の隣にすり寄ってきた。
髪を切ったばかりの彼女の、その強い眼差しに押し切られるようにして、俺たちはカウンターで頭を突き合わせて温泉を探し始めた。画面をスクロールしながらあちこちの旅館を比較した結果、今度行くのは北の方の、まだ寒さの残る地域に決まった。
「じゃあ、初日はここに行って、お昼はこれがいいな。恭介さんは何が食べたい?」
「何でもいいよ。カナに合わせる」
嬉しそうに次々とプランを考えていくカナの横で、俺は手元のグラスを傾けながら、ただ適当に相槌を打っていた。
楽しそうに喋り続けるカナの横顔を眺めながら、俺の頭は少し別のことを考えていた。
北の温泉街。誰も俺たちのことを知らない見知らぬ町。
そこでは、カナは俺の妻というポジションに収まる。
以前の旅行でも経験した、あの「偽夫婦」の時間が、また始まるのだ。
本物の夫婦ではないと分かっていながら、その設定に嬉々として身を委ねるカナの姿が、妙にリアルな質感を持って脳裏に浮かぶ。
その歪な関係性がもたらす心地よさと、どこか逃れられない足枷のような感覚が、ウイスキーの酔いとともに俺の身体にゆっくりと染み渡っていった。




