閉幕
「来月から、出張でしばらく東京に行くことになった」
いつもの部屋で、テレビの音を聞きながら過ごしていた時のことだった。恭介が静かにそう切り出すと、缶チューハイを口に運ぼうとしていたカナの手がぴたりと止まった。
「……え? 出張? どれくらい?」
「一応、3ヶ月の予定だけど……仕事の進み具合によっては、もうちょっと長引くかもしれない」
恭介が答えを口にした瞬間、カナの表情が一気に曇り、目に見えて慌て始めた。
「どうして? それ、行かないとダメなの? ねぇ、行かないで。 どうして!? 行かないでよ」
カナは抱えていたクッションを投げ出すように横へやり、恭介の腕にしがみついて激しく首を振った。
「私、1人になっちゃうじゃん! いいの!? ねぇ、なんで行くの? 行かないでよ……!」
あまりの取り乱しように、恭介は困惑しながらも、引き剥がすようにカナの肩を優しく掴んだ。
「仕事だからさ。俺だって好きで行くわけじゃないし、断れるような立場じゃないんだよ」
「嫌だ、嫌だ! 3ヶ月だって長いのに、もっと伸びるかもしれないんでしょ? お願いだから行かないでよ……!」
子どもみたいに何度も駄目を連発してゴネるカナの目には、すでに大きな涙が溜まり、今にも溢れ落ちそうだった。
いつものカナなら、寂しそうな顔をしながらも「仕事なら仕方ないね」と物分りよく微笑むか、あるいは「浮気しないでね」と冗談めかして送り出してくれるはずだった。
だからこそ、なりふり構わず本気で嫌がり、取り乱して自分を引き止めようとするカナの姿に、恭介は胸を刺されるような感覚を覚えた。一人きりにされることへの強い不安と、恭介が自分の手の届かない大都会へ行ってしまうことへの根深い恐怖。カナの全身から、それが痛いほど伝わってきた。
「大丈夫だから。浮気もしないし、毎日連絡もする。絶対に帰ってくるからさ」
恭介は涙でぐしゃぐしゃになりかけたカナの体を強く抱きしめ、背中を何度も撫でながら宥め続けた。
何時間もかけて話し合い、最後はカナも小さく頷いて納得する形にはなった。しかし、出張前の部屋に落ちた小さな影と二人の間の不穏な空気は、消えることなく重く漂い続けていた。
◇
出張の前日、狭い部屋には発送前の段ボール箱が数個並び、いつもとは違う殺伐とした空気が漂っていた。
恭介が着替えや仕事の資料を黙々と段ボールに詰め込み、ガムテープを引く無機質な音だけが部屋に響く。カナはその作業を、少し離れたベッドの端に座ってじっと見つめていた。
「……ねぇ、帰ってくるんでしょ?」
静寂を破るように、ぽつりと落とされたカナの声。
「当たり前だろ」
作業の手を止めずに答える恭介に、カナはたまらず立ち上がり、恭介の背中にすがりついた。
「ねぇ、やっぱり行かないでよ……」
明日にはもうこの部屋に恭介がいないという実感が押し寄せてきたのか、カナは最後まで子どもみたいにゴネ続けた。
「仕方ないだろ。仕事なんだから」
「……うん」
恭介の冷静な声に、カナはそれ以上何も言えなくなり、ただ恭介の服をギュッと強く握りしめた。
その夜、二人は狭いベッドで固く抱き合って眠った。カナは恭介の体温、匂い、肌の触れ合いのすべてを、自分の体にしっかりと焼き付けるかのように、夜が明けるまで何度も何度も恭介の身体を確かめるように抱きついていた。
◇
「じゃあ、行ってくるわ」
スーツケースの持ち手を握り、恭介が振り返る。カナの目はすでに真っ赤で、今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えていた。
「う、うん……」
「泣くなよ。いつでも連絡はできるだろ?」
「うん……」
諦めきれないカナは、背伸びをして恭介に何度も、しつこいくらいにキスを重ねた。唇が離れるたび、またすぐに求めてくる。
「そろそろ遅れるから行くよ」
「うん……気をつけてね」
「うん、いってくる」
ドアノブに手をかけた恭介の背中に、カナが必死の思いで声を張る。
「着いたらすぐLINEして! いや、新幹線に乗ってる時もLINEしてね!」
「わかったよ。じゃあ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
カチャリ、と無機質な音を立てて重いドアが閉まった。
鍵がかかった瞬間の、静まり返った部屋。 残されたカナは、ドアの前に立ち尽くしたまま、静かに涙を流した。
「今、新幹線に乗った」 「もうすぐ着く」 「今着いた」 「マンションに着いた」
スマートフォンが振動するたびに、画面に表示される恭介の名前。 出張先へと向かう移動の合間、言われた通りに逐一届く報告メッセージを、カナは部屋で今か今かと待ち続けていた。通知音が鳴るたび、ほんの少しだけ胸の奥の重みが軽くなる気がした。
けれど、画面の向こうにいる恭介の存在を確認すればするほど、静まり返ったこの部屋の広さが際立っていく。
今日から、一人での生活が始まる。
いつもならドアが開くはずの時間になっても、部屋には自分の呼吸音しか聞こえない。洗面台に並ぶ歯ブラシ、クローゼットの空間、二人で並んで座っていたソファ。どこを見渡しても恭介の気配が残っていて、それが余計に寂しさと不安を大きくさせた。
(耐えるしかないんだ……)
カナはぎゅっとスマートフォンを両手で握りしめた。
恭介だって好きで遠くへ行ったわけじゃない。仕事で戦っているんだから、私がここで弱音ばかり吐いて困らせちゃダメだ。恭介がこの部屋に帰ってくるその日まで、ちゃんとここで待っていよう。
次に恭介に会えるのは、来月の中頃。一時的にこちらへ戻ってくるときだ。
「あと、約一ヶ月……」
カナはカレンダーのその日付に小さく印をつけ、寂しさを振り払うように深く息を吐いた。この時はまだ、その一ヶ月という時間が、二人にとってどれほど長く、そして二人の心を少しずつ変えていってしまうのかを知る由もなかった。
特に楽しみもない毎日が、ただ淡々と過ぎていった。
一人で食べる素っ気ない夕飯。誰もいない部屋に響くテレビの音。カレンダーの数字を一つずつ消していくことだけが、カナの唯一の日課だった。
あと1週間。 あと5日。 あと2日。
ついに明日。
やっと会える。
そう思うだけで胸がキュッと締め付けられ、まるで付き合い立ての頃のような緊張感が込み上げてくる。その日のために、カナはしっかりと仕事の休みを取っていた。
外は、日差しが容赦なく照りつける酷暑の午後。エアコンの効いた部屋で落ち着かないまま過ごしていると、玄関からカチャリと鍵の開く音が響いた。
(帰ってきた!!!!)
弾かれたように玄関へ走る。
「ただいま」
ドアの向こうから聞こえた、ずっと聞きたかった懐かしい声。
「おかえり!」
靴を脱ぐ間すら待ちきれず、カナは恭介の胸へ思い切り抱きついた。首元に顔をうずめ、必死にその体温と匂いを確かめる。
「ちょっと待ってくれよ……すごい疲れた」
苦笑いしながら肩を叩く恭介に、カナは腕の力を緩めない。
「ダメ! 待てない!」
「わかったから、ちょっとシャワー浴びさせて。汗すごいし」
「一緒に入る!」
恭介が浴室に入ると、間髪入れずにカナも服を脱いで入ってきた。
1分1秒でも離れたくないと言わんばかりに、カナはスポンジに泡を立て、恭介の背中や胸元を丁寧に洗っていく。汗と長旅の疲れを優しく洗い流し、シャワーの温水できれいに流した。
「はい、いいよ!」
満足そうに微笑むカナに押し出されるようにして、恭介はリビングへと戻った。
「ふぅーーーー」
タオルで髪を拭きながら、恭介は長い息を吐いてソファへと腰を下ろした。たった1ヶ月ちょっと離れていただけで、どこか懐かしく感じる我が家。
冷蔵庫からキンキンに冷えたビールの缶を取り出し、勢いよくあけて一気に喉へ流し込む。
「ぷはぁーーー……」
身体の奥まで冷たさが染み渡り、張っていた緊張の糸が一気に解けてリラックスしていく。
その隣へ、カナが吸い寄せられるようにして座り、ピッタリと体をすり寄せてきた。腕を絡め、恭介の肩に頬をうずめるカナの表情は、ずっと待ち焦がれていた愛おしさに満ちあふれていた。
「ねぇ、寝ようよ…?」
隣に座るカナが、恭介の腕をぎゅっと抱きかかえながら、上目遣いに囁いてきた。
レースのカーテン越しに、夏の強い日差しが部屋いっぱいに差し込んでいる。時計の針はまだ午後の早い時間を指していた。
「こんなに明るいのに?」
「うん…」
少し甘えたような、けれど真っ直ぐなカナの瞳。恭介はその言葉の裏にある意味を、瞬時に理解した。
「欲求不満かよ…?」
苦笑いを浮かべながら尋ねると、カナは恥ずかしがる素振りも見せず、真顔で恭介を見つめ返した。
「うん、そうだよ」
1ヶ月以上も離れ離れで、寂しさを一人で抱え込みながら耐え続けていたカナ。そのストレートすぎる返答に、恭介は小さく息を吐き出すと、手に持っていたビールの缶を傾けた。
「うん、これ飲んだらな。先に行ってて」
「うん。早く来てね」
カナは嬉しそうに微笑むと、すっと体を離して寝室へと向かっていった。
冷えたビールを喉に流し込みながら、恭介はベッドルームへと続くドアを見つめる。久しぶりの我が家の匂いと、待ち焦がれていたカナの熱気。
缶をテーブルに置き、恭介もゆっくりと立ち上がった。
寝室のドアを開けると、カナはいつもの部屋着ではなく、特別なお気に入りのランジェリー——まさに「戦闘服」に身を包んで恭介を待っていた。
(相変わらず、可愛いな)
胸の奥がくすぐったいような愛おしさで満たされる。
「えへ、早く来て」
ベッドの端に腰掛けたカナが、少し照れくさそうに手を伸ばしてくる。恭介はその手を取り、吸い寄せられるようにして2人でベッドへとなだれ込んだ。1ヶ月間、ずっと触れたくても触れられなかったお互いの肌の温もりが、肌と肌を通してダイレクトに伝わってくる。焦らすような愛撫と激しい抱擁のなかで、空白だった時間が一気に埋まっていくようだった。
熱い時間を過ごしたあと、窓の外はすっかり茜色から群青色へと変わり始めていた。
カナはベッドから起き上がると、少し乱れた髪を指で整えながら恭介を振り返った。
「そろそろ晩御飯作るね」
「食べに行けばいいじゃん。せっかく帰ってきたんだし」
まどろみの中で恭介がそう言うと、カナは首を横に振って柔らかく微笑んだ。
「ううん、帰ってきたから作るよ。普段お弁当とか外食ばかりでしょ?」
そう言ってキッチンへと向かうカナの背中を、恭介はベッドの中からぼんやりと見つめていた。トントンとまな板を叩く心地よい音と、慣れ親しんだ出汁の香りが部屋に広がっていく。
しばらくして、できたての料理がテーブルに並べられた。
カナと向かい合ってテーブルを囲み、一緒に食べる久しぶりの夕食。
「うまいな、やっぱり」
「ほんと? 良かった!」
他愛のない話をしながら、温かいご飯を口に運ぶ。出張先の大都会で一人で食べるコンビニ弁当や居酒屋の料理とは違う、どこかホッとする時間。遠く離れていたからこそ、こうした何気ない日常の当たり前な温かみが、身体のすみずみにまで深く染み渡っていくようだった。
食後も、カナは片時も恭介のそばを離れようとしなかった。
食器を洗う時も、テレビを見ている時も、常に身体の一部を触れさせてくる。ソファに並んで座れば、当然のように恭介の膝の上に頭を乗せ、服の裾をキュッと指先で掴んでいた。
「ちょっとトイレ」
恭介が立ち上がろうとすると、カナは一瞬だけ悲しそうな顔をして腕を引っ張る。
「……早く戻ってきてね」
そんなやり取りすら、カナにとっては切実だった。1ヶ月間、ぽっかりと空いていた心の穴を埋めるように、恭介の体温や匂い、肌触りのすべてを吸い込み続けているようだった。
夜が更けてベッドに入ってからも、カナは恭介の腕枕から頑なに抜け出そうとしなかった。恭介の胸元に顔をうずめ、背中に回した腕にギュッと力を込める。
「ずっと、こうしていたいな……」
暗闇の中で聞こえるカナの囁きは、どこか切なく揺れていた。恭介もまた、カナの柔らかい髪を静かに撫でながら、彼女の温もりをそのまま抱きしめ返す。
外の静けさと、互いの規則正しい息遣いだけが響く部屋。明日になればまたカウントダウンが始まり、数日後には再び離ればなれになってしまう現実を忘れたいかのように、二人は互いの存在だけを確かめ合いながら、深く甘い夜の中へと沈んでいった。
◇
数日間の夢のような時間はあっという間に過ぎ、再び旅立ちの朝がやってきた。
玄関に立つ恭介の足元には、前回よりも少し重みを増したスーツケースが置かれている。
「気をつけてね」
カナは無理に笑顔を作ろうとしながら、恭介のシャツの裾をそっと撫でた。前回のように激しく泣きじゃくることはしなかったが、その分だけ胸の奥に大きな痛みを押し殺しているのが伝わってくる。
「うん、カナもな。じゃあ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
ガチャリと無機質な音を立ててドアが閉まり、恭介の足音が廊下に消えていく。カナは一人、静まり返ったリビングへと戻り、恭介の匂いがかすかに残るソファに深く腰掛けた。
また、淡々と過ぎていく毎日。
朝起きて、仕事へ行き、誰もいない部屋へ帰ってくる。一度恭介の温もりに触れてしまった分、一人で過ごす夜の寂しさは出張前よりもずっと深く、冷たく部屋に漂っていた。
「今から地下鉄に乗る」 「了解、無理しないでね」
最初は移動のたび、食事のたびに交わされていたLINE。
しかし、大都会でのプロジェクトが本格化するにつれて、恭介からの返信は少しずつ遅れるようになっていった。連日の激務と慣れない人間関係に追われる恭介と、ただ部屋で帰りを待ち続けるカナ。
「今日もお疲れ様!」というカナのメッセージに対して、数時間後に「おつかれ」とだけ返ってくる短い一言。
あんなに毎日欠かさず取っていた連絡の頻度は、週を追うごとに、少しずつ、けれど確実に減っていった。画面越しの二人の距離は、東京とこの部屋の距離以上に、静かにひらき始めていた。
大都会の夜の喧騒は、部屋の窓を閉め切っていてもどこか遠くで低く響いていた。
出張に出てから、あっという間にふたつの月が過ぎようとしている。恭介はベッドの上に転がり、明かりの消えた天井を見つめていた。デスクの上に置いたスマホの画面が静かに暗転する。
カナからのLINEにメッセージを送ってから、もう三日が経っていた。
最初は毎晩のようにしていた電話も、いつしか数日に一度になり、やがてメッセージのやり取りすら滞るようになっていた。分刻みで流れていく都会の仕事に追われ、疲弊して部屋に帰ると、画面越しにカナの甘えた声を聞く気力すら残っていない夜が増えていった。
「――でさ、結局人が多過ぎてさ、やっぱり都会だなと思って」
たまに繋がる電話で恭介が話す「こちらの日常」に、カナはいつも少しだけ間を置いてから「へぇ、楽しそうだね」と返した。その声のトーンに含まれる微かな距離感に気づきながらも、恭介はそれに触れないフリをした。
そんな折に届いたのが、カナが軽い接触事故に遭ったという連絡だった。
驚いて受話器越しに「大丈夫なのか? 今すぐ戻ろうか」と尋ねた恭介に、カナは拍子抜けするほど明るい声で答えたのだった。
「全然! ほんの掠り傷だから! 恭介さん仕事大変でしょ? 帰って来なくていいよ、ほんとに大したことないから!」
強がりなのか、本心なのか。
仕事の穴をあけられない現実にどこか安堵しながら、「そうか、無理すんなよ」と告げて電話を切った自分に、恭介は泥のような嫌悪感を抱いた。
そして、その「隙間」は、恭介の知らないところで静かに埋まっていった。
決定打は、後輩のタクヤからの気まずそうな電話だった。
『……恭介さん。あの、カナさんのことなんですけど』
タクヤが言葉を濁しながら教えてくれたのは、怪我をしたカナの身の回りの世話を、毎日のように焼いている男がいるということだった。買い物に付き添い、落ち込むカナの側に寄り添っている男。
『……カナさん、最近ちょっと寂しそうだったんで。その男、けっこう親身になってるみたいで……』
タクヤの声を聴きながら、恭介は冷めきった缶コーヒーを握りつぶしそうになっていた。
怒りよりも先に湧いてきたのは、圧倒的な無力感だった。
遠く離れた場所で、画面越しの冷たいテキストしか送れない自分。 目の前で手を差し伸べ、彼女の寂しさを直接埋めてやれる男。
(……俺が遠くにいるからだろうな……)
あの時、カナの元にすぐに帰ることも出来たはずだ。だが恭介は帰らなかった。その時に答えは出てたのかもしれない。
いつ終わるとも知れない出張。いつ帰れるかも分からない自分。くだらない意地を張り合いながらも、いつも側にいることで成り立っていたふたりの関係は、物理的な距離によってあっけなく摩耗していたのだ。
(終わらせたほうがいいかもな……)
それが、今の自分にできる唯一の誠実さのように思えた。
恭介はスマホを取り出し、久しぶりにカナの番号をタップした。
数回のコール音の後、カチャリと繋がる。
『あ、恭介さん? ごめん、今ちょっと手が離せないから、後で掛け直すね』
背後からかすかに聞こえる、テレビの音と……誰かが皿を洗うような生活音。
「……あぁ、わかった」
久々に聞くカナの声は、事故のショックなど感じさせないほど、どこか穏やかで元気そうだった。
それが、余計に胸を刺した。
――10分後。
スマホが震えた。画面には「カナ」の文字。
恭介は息を整え、通話ボタンをスライドさせた。
『もしもし、お待たせ! どうしたの?』
画面越しに聞こえる声に、かつてのような「寂しい」や「早く帰ってきて」という甘えた響きはなかった。どこか、恭介を気遣うような、客観的な明るさ。
「……ちょっといいか?」
『うん、なに?』
恭介は一呼吸置き、静かに言葉を紡いだ。
「もう、終わりにしよう」
『……え?』
電話の向こうで、呼吸が止まる気配がした。
「いきなりでごめんな」
『待ってよ……恭介さん、急に何言ってるの……?』
動揺を隠せないカナの声。だが、恭介はもう自分の心を偽るつもりはなかった。引き止めるような声に甘えるわけにはいかなかった。
「いや、もう終わりにしよう。カナも、そのほうがいいだろ」
『どうして……?』
「……男の話は、聞いてる」
「――ッ」
カナの息が詰まる音が、はっきりと聞こえた。
「だから……俺たちは終わりにしよう」
静寂が二人を包み込む。かつてのくだらない意地を張り合っていた頃の二人は、もうそこにはいなかった。
『……え、……ご、ごめんなさい……』
震える声で絞り出されたのは、弁明でも拒絶でもなく、消え入りそうな謝罪だった。
その言葉を聞いた瞬間、恭介の胸の奥で、何かが静かに途切れた。
「いや、いいんだ。俺もいつ帰れるかもわからないし……いつまでも、カナを待たせられないから」
『……』
受話器の向こうで、カナが小さく鼻をすすり、頷く気配がした。
どこか遠くで車の走る音がかすかに混じるだけで、二人の間には重い沈黙が横たわっていた。かつてはくだらない軽口で一瞬にして埋まっていた隙間が、今はどうしようもない距離となって広がっている。
「部屋はどうするんだ……?」
『うん……片付けとく……』
「急がなくていいから」
『うん……帰ってきた時に連絡してよ……』
『いや、連絡はしない』
『友達みたいに、また話せるでしょ……?』
『いや、無理だろ……』
恭介は躊躇することなく、きっぱりと拒絶した。
これでいいんだ。カナは目の前にいる新しい男と、ちゃんと温かい幸せを築けばいい。そこにいつまでも影のように自分を残しておくのは邪魔なだけだし、自分自身も「友達」なんて綺麗事で彼女と向き合えるほど器用じゃない。自分に言い聞かせるように、胸の奥で固い決意を固める。
『わかった……』
震えるカナの声が、受話器越しに小さく響いた。
「うん、じゃあな」
恭介はそれ以上彼女の声を聞く前に、指先で画面の通話終了ボタンを押し込んだ。
ブツリと音がして、静寂が都会の部屋を満たす。
恭介はソファに深く身体を沈め、暗くなった画面をじっと見つめていた。
数分前まで耳元で聞こえていたカナの声はもうない。部屋の中には、無機質なエアコンの稼働音だけが虚しく響いている。
どれだけの時間を、あの狭い部屋で一緒に過ごしてきただろう。
くだらないことで喧嘩をして、意地を張り合って、最後は呆れながら笑い飛ばす。全部が二人で少しずつ積み上げてきた「絆」だと思っていた。
二人で過ごしたあの濃密で愛おしい歳月。 積み重ねてきた思い出の数々。
それなのに、崩れ去る時はあまりにもあっけなかった。
怒鳴り合うこともなく、泣き叫んで引き止めることもなく、わずか数分の淡々としたやり取りだけで、二人の関係は綺麗に切って落とされた。
嘘みたいだった。
何年もかけて少しずつ作り上げてきた愛おしい世界が、たった一本の電話と、一瞬の指先のアクションで、跡形もなく消えてしまった。
恭介は静かに腕を掲げ、目元を覆った。
暗闇の中で、二度と触れることのできなくなったカナのぬくもりと、もう戻れないあの部屋の気配が、痛いほど胸を締め付けていた。
◇
3ヶ月が過ぎ、恭介は予定通りこの街に戻ってきた。
アパートのドアを開けると、静まり返った部屋からはカナの荷物が綺麗に消え去っていた。
二人で過ごした記憶が染み付きすぎているこの空間に留まるのは、正直言って惨めで辛かった。早く次の部屋を見つけて引っ越そう――そう心に決めながら、コンビニの弁当で済ませたり、たまに簡単な自炊をしては酒を煽って泥のように眠る日々を送っていた。
戻ってきてから一週間ほど経った、ある夜のことだった。
カチャリ、と突然玄関の鍵が開く音が響いた。
(ん? カナ……?)
反射的に身体が動いた。恭介がリビングの引き戸を開けると、そこに立っていたのはカナだった。
二人は思わず目を合わせ、そのまま言葉を失って立ち尽くした。静寂が二人を包み込む。
「……どうした?」
掠れた声で、恭介が先に問いかけた。
「うん、戻ってきてるって聞いたから……」
カナは視線を泳がせながら、ぽつりと答えた。まだ鍵を返しに来ていなかったのか、あるいは明かりが見えて思わず上がってきてしまったのか。
「そっか」
恭介は深く追及することなく、短く頷いた。
「……なんか飲む? 酒しかないけど」
「うん……」
カナは静かに靴を脱ぎ、かつて自分の居場所だったその部屋へ、おずおずと足を踏み入れた。
グラスに注いだ缶チューハイをテーブルに置き、二人は向き合って腰を下ろした。
当然、乾杯なんてしない。グラスが触れ合う澄んだ音すら、今の二人には余計だった。
「元気か?」
恭介が静かに切り出すと、カナは膝の上で固く手を握りしめたまま、ぽつりと答えた。
「うん……」
重苦しい沈黙が落ちる。恭介は冷えたグラスの表面を指先でなぞりながら、ずっと胸の奥に引っかかっていた問いを口にした。
「男、できたんだろ?」
「……うん」
カナは視線を落としたまま、隠すこともなく小さく頷いた。予想していた答えだったが、いざ本人から聞かされると、胸の奥が冷たく冷えていくのが分かった。
「良かったな」
「ごめん……」
絞り出すようなカナの謝罪に、恭介は首を横に振った。
「謝ることないだろ? 本当に良かったと思ってるよ」
強がりでも皮肉でもなく、恭介の素直な本音だった。自分が側にいてやれなかった時間を埋め、彼女を支えてくれた男だ。遠くから指をくわえているだけだった自分より、ずっとカナを幸せにできるはずだった。
「……ここに来て、彼氏はいいのか?」
カナは一瞬だけ言葉に詰まり、それからまた弱々しく頷いた。
「うん……」
「彼氏に報告しとくからな」
恭介がわざと軽めのトーンで冗談めかすと、カナは引きつった笑みを浮かべた。
「ははは……」
「一緒に住んでるのか?」
「ううん」
会話はそこで途切れ、再び重い沈黙が二人を包み込んだ。テレビのついていない部屋に、冷蔵庫の低いブーンというモーター音だけが虚しく響く。
「で? どうした?」
恭介が静かに尋ねると、カナは手に持ったグラスを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「なんとなく……」
「帰る家、間違えたのか?」
「ううん。会いたかったから……」
その素直すぎる言葉に、恭介の胸がわずかに波打つ。だが、すぐにそれを振り払うように冷たい言葉を被せた。
「彼氏に言えよな」
「ははは……」
カナは力なく笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
一度壊れてしまった二人の距離は、同じ部屋でこうして向き合っていても、もう二度と元には戻らないのだと痛感させるように、寂しい空気が静かに流れていった。
「じゃあ、私、そろそろ帰るね……」
一口しか手をつけていないグラスを置くと、カナは寂しげに立ち上がった。
「おう、気をつけてな」
カナはリビングの扉を開けて、ふとこちらを振り返った。
一瞬、時間が止まる。 お互い、何かを期待していたのかもしれない。……いや、俺だけが期待していたのかもしれない。
何か一言言えば、あの頃みたいに抱きしめれば、またやり直せるんじゃないか。そんな愚かな未練が胸をかすめる。だが、視線が交差したまま、互いに言葉を出せない沈黙だけが虚しく続いた。
「……ありがとう」
カナがぽつりと小さく言った。
「こちらこそ、ありがとな」
恭介がそう返すと、カナはゆっくりと頷き、玄関へと向かった。 カチャリと扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
「はぁ……」
静まり返った部屋に、恭介の大きな溜め息だけが落ちた。
「これで良かったんだよな。……うん、これでいいんだ」
自分に何度も言い聞かせるように、誰もいない空間へ呟く。
ふと視線を落とすと、二人で飲んでいたテーブルの上に、ぽつんとアパートの鍵が置かれていた。
恭介はその冷たい金属を静かに見つめながら、今度こそ二人だけの長い物語が完全に終わったのだと知った。
誰もいない部屋の中は、驚くほど広くて静かだった。
いつも二人で狭苦しく過ごしていたせいか、一人で佇むこの空間に若干の戸惑いを覚える。
(これから、一人の生活が始まるんだな)
当分は、誰に邪魔されることもない一人の時間だ。胸の奥にぽっかりと開いたこの寂しさを、無理に埋めるのではなく、今はただ浸り、満喫すればいい。
どうせそのうち、また別の女の子でも連れ込んで、いつもの賑やかでくだらない生活に戻っていくのだろう。何も心配することなんてない。俺はいつだってそうやって生きてきた。
自分にそう語りかけながら、恭介はソファの背もたれに深く深く身体を預けた。
今はただ、静かに。 何も考えず、何もせず。
去っていった温もりの余韻を冷ますように、恭介はゆっくりと目を瞑った。




