緊張
電話口から漏れ聞こえる母親の甲高い声に、恭介はめんどくさそうに耳からスマホを少し遠ざけた。
「は? いや、あいつにも予定とか色々あんだろ」
「晩御飯食べて帰ればいいじゃない。連れてきてもいいからね」
強引に電話を切られ、恭介はため息をつきながらソファにスマホを放り投げた。向かいのテーブルで、まったりと雑誌をめくっていたカナが「なに? お義母さん?」と顔を上げる。
「なんか……うちの親がさ、『連れてくれば?』って言ってるんだけど」
「え!? 私……!? ただの彼女だよ? いいの……!?」
カナの手から雑誌が滑り落ちそうになる。
「まあ、お袋がうるさいからさ。嫌なら断るけど」
「嫌じゃない! 嫌じゃないけど……えっ、 どうしよう……! じゃ、じゃあ、挨拶しとこうかな……」
さっきまでの落ち着きはどこへやら、カナは一瞬で目を泳がせ、パニック状態に陥った。付き合いは長いが、恭介の実家に挨拶に行くなんて夢にも思っていなかったのだ。
「え、どうしよう、何着ていけばいいの!? どんな手土産がいいの!? 恭介さん、お母さんって甘いもの好き!?」
「いつもの恰好でいいし、手土産なんて気遣わなくて――」
「何言ってるのよ!! 恭介さんのご両親なんだよ!?」
それからのカナは、台風のようだった。
カナの部屋のベッドの上には、クローゼットから引っ張り出された服が山のように積み上げられていた。
「ねえこれ! このコンサバ系のネイビーのワンピースどう!? 育ちが良さそうに見える!?」
「……お堅い企業の中途採用面接でも受けるのか? かたすぎるだろ」
「じゃあこっちのベージュのニットは!? 清楚だし、派手すぎないし……あー駄目! 初対面で胸元開きすぎって思われたらどうしよう! 下品な女だと思われたら私、立ち直れない!」
「普段のカナでいいんだって。うちの親、そんな気取るような奴らじゃねぇから」
恭介が呆れ顔で声をかけるが、カナは真顔で振り返った。
「ダメ! 恭介さんの『彼女』として、完璧な第一印象を残さないと気が済まないでしょ!」
真面目すぎる理由に、恭介は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。自分との実家訪問のために、ここまで本気で悩み、パニくっているカナの姿が少し愛おしい。
そして当日。
車の助手席で、カナはデパ地下で一時間悩み抜いて買った高級和菓子のお重を、まるで爆弾でも抱えるかのように大事そうに抱きしめていた。
「恭介さん……私、お辞儀の角度大丈夫かな……? 『初めまして、カナと申します』で合ってる……? 変な奴だと思われないかな……?」
「大丈夫だって。何回目だよその確認」
チラリと横目で見ると、カナの膝が緊張でかすかに震えている。
「ふーっ……ふーっ……」と深呼吸を繰り返すカナを見て、恭介は運転しながら口元を緩めた。
「お前さ、柄にもなく緊張しすぎ」
「緊張するに決まってるでしょ! 恭介さんの家族に会うんだよ……?」
信号待ちの車内。ひたすら緊張をほぐそうと深呼吸を繰り返すカナが、ふと気になったように口を開く。
「ねぇ、恭介さん……」
「ん?」
「恭介さんって……親に彼女見せたことあるの?」
恭介は一瞬だけ視線を泳がせ、なんてことなさそうに答えた。
「え……まぁ、あるよ。若い頃な」
「そっか」
カナは短く頷いた。 もちろん、バツイチである恭介の「前の奥さん」の存在は知っているし、当然ご両親にも会っているはずだ。だが、それは過去に一度「家族」になった人であり、今の自分が張り合うような対象ではない。そこは完全に『別枠』として、静かに敬意と一線を画している。
カナが意識しているのは、あくまで恭介の記憶やご両親の思い出に残っている「過去の彼女たち」だ。
恭介のご両親の記憶のどこかに、自分以外の「恭介の彼女」が存在しているという事実。
ただの緊張が、「歴代最高の彼女として上書きしてみせる」という謎の使命感へと変わっていく。ご両親に気に入られるだけじゃ足りない。「今まで連れてきた誰よりも素敵で、恭介にぴったりな子だ」と一目で分からせなければ気が済まない。
カナは抱え直した高級和菓子のお重をギュッと握り締め、キリッと澄ました顔で助手席の背もたれに深く座り直した。
「実家に着く前に、ちょっとコンビニに寄って」
「ん? なんだよ? ジュースでも買うのか?」
実家に到着する直前、大きな幹線道路沿いのコンビニの駐車場に、恭介の車が滑り込んだ。エンジンを切ると、カナは真顔で恭介の方を振り向いた。
「恭介さん、タバコ吸ってきて」
「は? 俺いま別に吸いたく——」
「いいから。外でゆっくり吸ってきて」
押し切るような強い視線に押され、恭介は「なんだよそれ……」と苦笑いしながらポケットからタバコを取り出し、車外の灰皿スペースへと向かっていった。
一人になった車内。
ドアが閉まる音を確認すると、カナは小さく息を吐き、助手席のシートに背中を預けた。
膝の上にあるのは、デパ地下で吟味し抜いた高級和菓子。その重みを確かめるように手で軽く撫でる。
(大丈夫……落ち着いて、私)
サンバイザーの裏にあるミラーをそっと降ろし、自分の顔を映し出した。髪の乱れはないか、メイクは派手すぎないか、口紅の色は浮いていないか。入念にチェックを重ねる。
車外では、恭介が灰皿の横で少し寒そうにしながらタバコを吸っているのが見えた。
カナはゆっくりと両手を頬に当て、パンパンと軽く叩いた。
「ふぅー……大丈夫、大丈夫」
鏡の中の自分に向かって、一度だけ最高の笑顔を作ってみせる。
よし、完璧。
タバコを吸い終えて車に戻ってきた恭介が、ドアを開けながら呆れたように言った。
「一人で車の中で何やってんの?」
「気持ちを整えてたの。よし、行きましょう! 恭介さん!」
車が静かに停車したのは、築年数は経っているものの、きれいに手入れされた一軒家の敷地内だった。
「着いたぞ」
「……ふぅ…来てしまった……」
カナは心臓の鼓動が耳の奥でドックンドックンと鳴り響くのを感じながら、大事に和菓子の重箱を抱えて助手席を降りた。
玄関へと向かう恭介の背中。カナはまるでその背中に吸い寄せられるように、一歩遅れて金魚のフンのようにピタリとくっついて歩く。
インターホンの横に立った恭介が、躊躇なく指を伸ばした。
ピンポーン――。
返事はないが、恭介は鍵の開いていた玄関引き戸をズカズカと開けて中へ踏み込んでいく。
廊下の奥のドアが開き、エプロン姿の女性が顔を出した。
「あら、おかえり。車混んでなかった?」
恭介さんのお母さんだ!
カナの緊張はピークに達した。小柄だがシャキッとした佇まい、温かみのある声。恭介の面影がどこか感じられる表情。本物のお母さんを目の前にして、カナの心臓は飛び出さんばかりに跳ね上がった。
「あぁ、大丈夫。……あ、彼女連れてきたよ」
恭介がすっと横に移動し、カナを前に押し出す。
完全に無防備な状態でバトンが渡された。隠れ蓑を失ったカナは、まるでスポットライトを浴びた舞台上の役者のように固まる。だが、コンビニで整えた覚悟を思い出し、全身の力を振り絞って深く頭を下げた。
「初めましてっ。カナと申しますっ!」
裏返りかけた声を必死に抑え込み、練習通りの美しい角度でお辞儀を決める。
恭介の母は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに柔らかい満面の笑みを浮かべた。
「初めまして。恭介の母です。わざわざ遠くまでありがとね。ほらほら、立ち話も何だから入って入って!」
「あ、はい! お邪魔いたしますっ!」
靴を揃えて上がろうとしたその時、横から恭介が意地悪そうな顔で覗き込んできた。
「なんだよ? カナ、緊張してんのか? 普段と違うじゃないか」
「い、いや、な、なんでよ……!」
カナは顔を真っ赤にしながら、恭介の脇腹を恭介の母に見えない角度で小突き返した。
普段のサバサバした大人の余裕はどこへやら、恭介の「たった一人の彼女」として完璧でありたいカナの、絶対に負けられない実家訪問が幕を開けたのだった。
「ケーキ食べるー?」
奥の台所から、お母さんの明るい声がリビングへ響いた。
「果物が乗ってなかったらな」
ソファに深く腰掛け、テレビのリモコンを適当に操作しながら恭介が返す。実家ならではの、何の遠慮もないぶっきらぼうな態度だ。
カナが隣でハラハラしながら恭介の袖を引っぱっていると、台所からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「カナちゃんは?」
「あ、はい! いただきますっ!」
カナは反射的に背筋を正して返事をしたかと思うと、勢いよく立ち上がった。
「あ、私、用意しますよ!」
「いいのいいの。座ってて。コーヒーでいい?」
「はい!」
お母さんの優しい声に押され、カナは恐縮しながらもう一度ソファの端にちょこんと腰を下ろした。
お母さんが台所で食器を準備するカチャカチャという音を聞きながら、カナは身を乗り出し、恭介の耳元で蚊の泣くような小声で囁いた。
「私、手伝わなくて大丈夫かな……? 『気遣いができない子』って思われない……?」
眉を八の字にして必死な顔で聞いてくるカナに、恭介はあくびを噛み殺しながら呆れたように言った。
「そんなことしなくていいんだよ、カナは客なんだから、おとなしく座ってりゃいいの」」
恭介の言葉に少しだけ胸をなで下ろしつつも、カナは落ち着かない様子で膝の上で手をギュッと握りしめた。
「はい、お待たせー」
そこへ、ケーキとコーヒーの載ったトレーを持ってお母さんが戻ってきた。カナは飛び起きるように立ち上がり、トレーを受け取ろうと手を伸ばす。
「あ、お母さん! お手伝いします!」
「いいのよ、座ってて頂戴。はい、カナちゃんの分ね」
目の前に運ばれてきたのは、綺麗なイチゴが乗ったショートケーキ。恭介の前には、お母さんが言った通り果物の乗っていないシンプルなチョコレートケーキが置かれた。
「恭介はこれね。カナちゃん、甘いものは大丈夫だった?」
「はい! 大好きです! ありがとうございます!」
緊張でガチガチになりながらも、カナは目の前のショートケーキと、向かいで鼻で笑っている恭介を交互に見つめた。
(よし……まずはこのケーキを、世界一上品に美しく食べてみせる……!)
心の中で静かに炎を燃やすカナの、絶対に失敗できないお茶会が始まった。
「で? 結婚するの?」
お母さんがコーヒーカップをコトンとテーブルに置き、何でもないことのようにサラッとぶっ込んできた。
カナの喉を通りかかっていたショートケーキが一瞬詰まりかけた。
(ふ、吹き出す……っ!?)
必死の思いで喉を鳴らして飲み込み、なんとか直前で踏み止まる。口元をハンカチで押さえ、顔を真っ赤にしながらプルプルと震えるカナ。
当の恭介は、チョコケーキをフォークでつつきながら、眉一つ動かさずに言い放った。
「あ? そんなのまだまだ先の話だよ。その時が来たらな」
心の中で恭介の無神経さに猛ツッコミを入れるカナだったが、お母さんは恭介のあしらいなど気にも留めず、優しく穏やかな目をカナに向けた。
「カナちゃん、この子、バツイチなの知ってる?」
少しだけトーンを落とした、心配と気遣いの混ざったお母さんの問いかけ。恭介の過去を隠すことなく、カナを傷つけないように配慮してくれた言葉だった。
カナは膝の上でそっと手を重ね、深く息を吐いてからまっすぐお母さんの目を見た。
「あ、はい。実は私も……」
「あら、そうなのね。じゃあ、大丈夫ね」
お母さんは静かに頷き、それ以上は踏み込んでこなかった。
沈黙が落ちる。ケーキのフォークが皿に当たるカチャカチャという音だけがリビングに響く。
お母さんはコーヒーカップに手を伸ばしながら、どこか申し訳なさそうな、けれど息子を気遣う親特有の苦笑いを浮かべた。
「この子はほんと何にも出来ないから、カナちゃんよろしくね」
恭介の過去を知った上で、わざわざ遠くまで挨拶に来てくれたカナに対して、親としての遠慮と感謝が混ざった言葉だった。
カナは背筋をピンと伸ばし、しっかりと頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ……至らない点ばかりですが、よろしくお願いいたします」
過度に調子に乗ることもなく、かといって謙遜しすぎて引き下がることもない。お母さんの気遣いを真っ直ぐに受け止めるカナの丁寧な言葉遣いに、お母さんは少し目元を緩めた。
「さてと、片付けちゃうわね」
立ち上がって食器をまとめ始めるお母さん。
その動作を見た瞬間、カナの身体が弾かれたように反応した。
「あ、私お下げします!」
「いいのいいの、座ってて」
「いえっ! これくらいはやらせてください!」
断られても絶対に引き下がらないカナの固い決意に、お母さんは「あらあら……じゃあ、これお願いしようかしら」と、少し困惑しつつも恭介の空いた皿をカナに渡した。
カナはまるで貴重品でも運ぶかのように、慎重に皿とカップを両手で持ち上げ、お母さんの後を追って台所へと向かった――。
台所のシンクの前に、お母さんとカナがふたり並んで立つ。水道から流れる水の音だけが、少しぎこちない空間を満たしていた。
お母さんが洗剤の泡をつけたスポンジの手を動かしながら、ふとリビングの方を伺い、声を落とした。
「カナちゃん、あの子の昔を知ってる? ヤンチャで髪を染めてね……」
リビングにいる恭介に聞こえないような、絶妙な小声。
カナは泡立てたスポンジの手を止め、お母さんの方をまっすぐ見つめて小さく頷いた。
「あ、はい、なんとなくは……」
「あ、そうなのね、うんうん」
お母さんはそれ以上、何も言わなかった。ただ安堵したように、どこか遠い目をしてフッと微笑み、また手元の皿洗いに戻った。
カナはお母さんの横顔を見つめながら、その短い問いかけの意図を静かに理解していた。
私の実家や家柄のこと、恭介が辿ってきた決して平坦ではない過去。離婚歴だけでなく、若い頃の荒れていた時期や、親として冷や冷やさせられてきたであろう「恭介の歩み」。
そうした背景をすべて知った上で、カナが今、こうして恭介の隣にいるのかという確認。そして、そんな恭介をまるごと受け入れて付き合ってくれているのかという、親としての深い懸念と感謝だったのだ。
「でも、すごく優しくて、いつも助けてもらってます」
お母さんの手がピタッと止まる。
お母さんはチラリとカナの横顔を見ると、今度はさっきよりもずっと温かい、親としての本当の笑顔を浮かべた。
「……ふふ、あの子には勿体なさすぎるくらい良い子ね、カナちゃんは」
「そんなことないですっ……!」
台所で並ぶ二人の間の空気が、少しだけ柔らかく、温かいものへと変わっていった。
「おーい、麦茶ちょうだいー」
リビングから聞こえてきたのは、実家特有の油断しきった恭介の間抜けな声だった。
さっきまで台所で流れていた緊張感や、お母さんとの静かな対話の余韻が、その一言で一気に吹き飛ぶ。
「自分で取りに来なさいよ!」
台所からリビングに向かって、お母さんが容赦ない一声を張る。実家ならではの、長年培われた母と息子の距離感がそこに散りばめられていた。
「あ、いいですよ。私持っていきます」
カナは咄嗟にフォローしようとグラスに手を伸ばしたが、お母さんはピシャリと手を横に振った。
「いいのよ! 取りに来させれば。甘やかすとつけ上がるんだから」
「あは、はい……」
カナは苦笑いしながら、そっと伸ばした手を引込めた。この「お母さん対恭介」の容赦ない実家ルールには口を挟めない。
数秒後、のそのそとリビングからだらしない足音が近づいてきた。
「なんだよ……麦茶くらい持ってきてくれたっていいだろ……」
扉の影から、不満げな顔をした恭介が顔を覗かせる。
「あんたねぇ、カナちゃんがせっかくお手伝いしてくれてるのに、何座って威ばってんの。自分の飲むものくらい自分で汲みなさい!」
「へいへい……」
お母さんから説教を喰らい、大人しく自分でコップに麦茶を注ぐ恭介。その背中は、外で見せる大人の余裕なんて微塵もなく、まるで実家に帰ってきた中学生のようだ。
リビングのテーブルを囲み、温かいお茶を飲みながらの世間話。
「カナちゃんは仕事してるの? なんの仕事?」
お母さんが身を乗り出すように尋ねてくる。
「デパートで化粧品売ってます」
「あら、立派じゃないの。べっぴんさんなはずだわ」
「あはは、いえいえ……!」
お母さんのまっすぐな褒め言葉に、カナは恥ずかしそうに手を振って恐縮する。だが、お母さんの口から出た遠慮のない言葉に、リビングの空気が一瞬だけピキッと跳ねた。
「昔ね、恭介がすごい不細工な子を連れてきたことがあったのよ。ねぇ?」
「あ? 誰のことだよ……? 知らないよ」
恭介は面倒くさそうにスマホから目を離さず、本気で覚えていないといった様子で鼻で笑う。
だが、お母さんは構わず、しみじみとした顔でカナに向かって頷いた。
「どうしようかと思ったけど、カナちゃんは可愛くてよかったわ」
「いえいえいえいえいえいえ!!!」
恐縮して顔を真っ赤にしながらも、ちらりと横の恭介を見る。恭介は「お袋、変なこと言うなよ」と呆れ顔で麦茶を飲んでいるだけだが、カナにとっては聞き捨てならないビッグニュースだった。
(っていうか……『可愛くてよかった』って……お母さんに顔合格された……!?)
謙遜の言葉を連打しながらも、カナの胸の奥には、じんわりとした誇らしさと「勝ち」の確信が広がっていく。
恭介の過去のどんな登場人物よりも、今、目の前で恭介の隣に座り、お母さんから「可愛い」と言われているのは自分なのだ。
「ほんと、この子見る目ないと思ってたから安心したわぁ」
呆れる恭介と、ニコニコとカナの手を握るお母さん。
カナは爆発しそうな心臓を必死に抑えながら、「ありがとうございます……っ」と蚊の鳴くような声で微笑むのが精一杯だった。
「晩御飯食べて帰るでしょ?」
お母さんがごく自然にそう尋ね、恭介は無言でチラリとカナの顔を見た。「お前はどうする?」という無言の問いかけだ。
「はい、いただきます!」
即答したカナに、お母さんは嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、納豆焼きでも作ろうかしらね」
(あ……! 納豆焼き!)
カナの胸の中でパッと電卓が叩かれた。恭介が普段から「うちの定番」みたいにパクパク食べていた、あの納豆焼きだ。
(ルーツはここだったんだ……! 恭介さんの好きな味の原点はお母さんだったんだ……!)
「手伝います!」
今度は断らせない勢いでカナは立ち上がり、お母さんと一緒に台所へと向かった。
お母さんが慣れた手つきでフライパンを取り出し、ボウルに材料を混ぜ合わせていく。カナはその横にぴったりと寄り添い、真剣な眼差しでその手元を注視した。
「私もたまに作るんですけど、うまく出来なくて……」
「簡単よー。ほら、こうして、こうしとけばいいのよ」
お母さんは笑いながら、生地の混ぜ具合や火加減のコツをポンポンと教えてくれる。大雑把に見えて、焼き色の付け方やひっくり返すタイミングには長年の経験からくる絶妙な塩梅があった。
「へぇー! だしを少し多めに入れるんですね! だからあんなにふっくらするんだ……!」
「そうそう! 恭介、カリカリしすぎると嫌がるでしょ? 中がふわっとしてるのが好きなのよあの子」
食卓の上に、香ばしい匂いを立てる納豆焼きをはじめ、煮物や和え物など、昔から恭介が食べて育ってきたであろう「実家の味」がズラリと並んだ。
カナにとっては、どれも目と舌に焼き付けたい貴重な勉強の機会だ。ひとつひとつの料理を慈しむように見つめていると、お母さんが冷蔵庫を開けながら振り返った。
「カナちゃん、お酒は飲むの?」
「あ、はい。少しだけですけど……」
初対面の義理の親(仮)の前である。ここは可憐に、奥ゆかしく「少しだけ」と答えるのが正解のはずだった。
だが、隣で箸を持った恭介が、間髪入れずに余計な一言を挟む。
「嘘つけよ。すごい飲むだろ」
(な……っ!?)
カナは素早く首だけを恭介の方へ向け、殺気すら込めて「キッ」と睨みつけた。 (空気を読みなさいよこのバカ恭介!!)という必死の無言の圧力を送るが、当の恭介はどこ吹く風で納豆焼きを口に運んでいる。
そのやり取りを見たお母さんは、嬉しそうに目を細めた。
「あら、じゃあ、飲む?」
「いえいえっ! 帰ってから家のことやらないといけないので……!」
カナは慌てて両手を振って辞退しようとした。いくら恭介に暴露されたとはいえ、初訪問の実家で図々しく酒を煽るわけにはいかない。
しかし、お母さんはカナの遠慮など意に介さず、すでに冷蔵庫から缶を取り出している。
「いいじゃないの。なに? ビール?」
「あ、は、はい。じゃあ、いただきます……っ」
お母さんのあまりに自然で温かいおもてなしに押し切られ、カナは恐縮しながらも恐る恐るビールグラスを受け取った。
トクトクとグラスに注がれる黄金色の液体。
「はい、お疲れ様。カナちゃん、カンパイ」
「カンパイ……いただきますっ」
一口飲むと、キンキンに冷えたビールが緊張で乾いた喉にしみ渡る。そして、お母さんが作った納豆焼きを一口。外は香ばしく、中はふっくら。
(う、うま……っ! ビールに合いすぎる……!)
本当は豪快にプハッとやりたいところを、必死に「上品で嗜む程度の女子」の顔を取り繕うカナ。
「どう? 美味しい?」
「はい! すごく美味しいです! お母さんの納豆焼き、最高です……!」
目の前で美味しそうにビールと料理を味わうカナを見て、お母さんは心底安心したように微笑んだ。
「よかったわぁ。恭介と一緒にお酒飲んでくれる子で。あの子、家で一人で飲むの好きだから、付き合ってくれる人がいて安心したわ」
お母さんのその言葉に、カナはグラスを抱えたまま、胸の奥が温かくなるのを感じた。
恭介の過去の彼女がどうだったかは知らない。けれど今、こうして恭介の実家の食卓で、お母さんと一緒に恭介の好きな料理をつまみながらビールを飲んでいるのは自分だ。
(……ふふ。お酒が飲める子で、大正解だったみたい)
隣で相変わらず黙々とメシを食っている恭介をチラリと見ながら、カナは幸せな気持ちで二口目のビールを口に運ぶのだった。
お母さんの手料理はどれも絶品で、キンキンに冷えたビールとの相性は抜群。本当ならおかわりを連発して、ガツガツ食べて豪快にプハッとやりたいところだ。
けれど、ここは恭介の実家。そして自分は「恭介のたった一人の大切な彼女」として挨拶に来ている。
(ダメよ私……! 落ち着いて! ここで本性を出したら『大食いで酒豪の図々しい女』になっちゃう……!)
もっと食べたい。もっと飲みたい。目の前の黄金色の液体と香ばしいおつまみがカナの理性を強烈に揺さぶる。しかし、カナは必死で欲望を抑え込み、グラスを両手で包み込むようにして、小さく「ちびっ」と口をつけた。
「ふふ、お口に合ってよかったわ。もっとたくさん食べてね?」
「あ、はい……! すごくおいしいですっ」
上品な笑顔を崩さず、お母さんには可憐で控えめな「可愛い彼女」を完璧に演じきるカナ。箸をつける一口のサイズも普段の半分だ。
「カナちゃん、遠慮しなくてもいいんだから。好きなだけ食べて」
「あ、は、はい。ありがとうございます……っ」
お母さんの温かいお言葉に、カナは笑顔で応えつつも、相変わらず可憐な一口サイズで納豆焼きを口に運んだ。本当はタッパーに入れて持ち帰ってビールで流し込みたい欲求を、必死の理性で抑え込んでいる。
すると食後、お母さんが思い出したように台所の奥へ向かった。
「あ、そうだ。野菜持って帰りなさいよ。近所からたくさんいただいて余ってんの」
「えっ、いいんですか!? 助かります!」
「これもいる?」
お母さんが手に持ってきたのは、高級そうな和菓子の詰め合わせやお煎餅の袋。
「あ、はい。いただきます!」
「これは? いただいたみかん、箱であるのよ」
「はい、いただきます!」
断るのはかえって失礼かも……という持ち前の真面目さと優しさが裏目に出る。気づけばテーブルの上には、農家直送の段ボール箱に大量の野菜やお菓子が積み上がっていた。
さらに、お母さんは棚の奥から立派な箱を取り出してきた。
「そういえば、頂き物のワインがあるんだけど……カナちゃんお酒飲むなら持っていく?」
「はい、いただきます!」
善意のラッシュにカナの「断れないスイッチ」が完全にONになっていた
「あと、残ったオカズはタッパーに入れてあげるわね。今日のご飯ラクになるでしょ? 帰ってから食べればいいじゃない」
(えっ……お母様の手作りのオカズ、家で思いっきり食べられる……!?)
「いいんですか!? いただきますっ!」
初対面の緊張と遠慮で爆発しそうだった食欲が、「お土産として持ち帰れる」と分かった瞬間に歓喜へと変わる。カナの目がパッと輝いた。
両手では抱えきれないほどの荷物と、オカズがギッシリ詰まったタッパーの山。それを見ていた恭介が、呆れたように口を挟んだ。
「なんでも持って帰るなよ……。」
すかさずカナがお母さんの方を向き、可憐な笑顔で恭介をフォロー(?)する。
「いいじゃないの。美味しいんだから!」
恭介がパンパンに膨らんだ紙袋の上から覗き込み、眉をひそめた。
「これなんだよ?」
袋の底から出てきたのは、透明な袋に入った地味な茶色の粉末だ。
「きな粉よ」
お母さんがさも当然といった顔で即答する。
「は? きな粉持って帰ってどうするんだよ? 餅なんか食わないだろ」
恭介の呆れ果てたツッコミにも、お母さんはどこ吹く風でカナの方へ向き直った。
「いいじゃないの。何か作る時にいるでしょ。ねぇ?」
実家特有の「とりあえず家にあるものは全部持たせる」という謎の善意ラッシュ。断るわけにもいかず、かといって「きな粉最高です!」と乗っかるのもどこか違う。
完全に板挟みになったカナは、ひきつりかけた顔で必死に可憐な愛想笑いを浮かべた。
「は、ははは……はい! ありがとうございます……っ!」
「ほら見なさい! カナちゃん喜んでるじゃない!」
「絶対困ってんだろ……」
恭介が頭を抱えて呟く横で、カナは「きな粉……きな粉のレシピ……クッキー……和え物……」と頭の中で必死に使い道を検索し始めていた。
どれだけ荷物が増えようと、どれだけ謎の食品を持たされようと、恭介のお母さんからの愛を全身で受け止める。
大量の紙袋と段ボール箱を恭介の車のトランクに押し込み、カナは最後にお母さんに向き直った。
「カナちゃん、またいらっしゃいね。いつでも歓迎するから」
「はい! 本当にごちそうさまでした、ありがとうございます!」
深々と頭を下げて車に乗り込む。
「じゃあ、帰るわ」
「気をつけてね。カナちゃん、恭介をよろしくね」
恭介が軽く手を挙げてエンジンをかけ、車は静かに恭介の実家を後にした。バックミラーに映るお母さんの姿が小さくなっていくのを、カナは愛おしそうに見つめていた。
幹線道路に出て少し走ったところで、ハンドルを握る恭介が呆れ顔で口を開く。
「なんでももらいすぎなんだよ。どうすんだよ……」
「いいじゃないの。あげるって言ってるんだから」
「きな粉とかどうするつもりだよ」
「そ、それは……何かに使うよ! クッキーとか……和え物とか……!」
「絶対考えてなかっただろ」
カナはバツが悪そうに横を向いたが、すぐに胸の奥からこみ上げてくる温かい気持ちで表情を緩めた。
「……でも、いいお母さんだったね」
「そうか?」
「うん」
恭介は「ふん」と鼻で鳴らし、前方を見つめたまま何も言わなくなった。けれど、その横顔は実家に着いた時よりも少しだけ柔らかく見えた。
後部座席に積み込まれた大量の野菜とお菓子、タッパーに詰まったオカズ、そして謎のきな粉。
実家に連れて来てもらえたこと。そして、お母さんに温かく受け入れてもらえたこと。 元カノや過去の影を越えるとか越えないとか、そんなちっぽけな意地なんてどうでもよくなるくらい、今の自分が恭介の1番近くにいるという確信が、カナの胸をいっぱいに満たしていた。
「ねぇ、恭介さん」
「ん?」
「家で納豆焼き作ってあげる。お母さんに教わった通りにね」
「……カリカリにしすぎるなよ」
「わかってるってば!」
二人を乗せた車は、すっかり日の落ちた夜道を楽しそうに走り抜けていった。




