溢れる余裕
休日の午後。
カナは窓際の二人掛けの席に深く腰を下ろし、一人だけの穏やかな時間を堪能していた。
ガラスのグラスに注がれたアイスコーヒーの表面では、小さな氷がカラランと涼しげな音を立てて漂っている。スマホに目を落としつつ、時折グラスの縁についた結露を指先でなぞる。
一人で過ごすカフェの時間は好きだった。誰にも邪魔されず、スマホを操作しながらゆっくり冷たいコーヒーを飲む。
「あの……恭介さんの彼女さん……ですよね? 違ってたらすいません」
不意に頭の上から降ってきた声に、カナはゆっくりと目を上げた。
目の前に立っていたのは、一目見て気合が入っているとわかる身なりの女性だった。丁寧にウェーブを巻いた栗色の髪、品の良いベージュのアンサンブルニット、首元で控えめに主張するブランドもののペンダント。フルメイクの顔立ちには隙がなく、手元にはこれ見よがしに海外高級ブランドのバッグが抱えられている。
(だれ……?)
カナの記憶の引き出しには、一切存在しない顔だった。だが、彼女はカナの顔を見て、自分の確信が正しいことを確かめるように小さく頷いた。
「え? あ、はい。そうですけど……」
カナは驚きを隠しつつも、相手を不快にさせない程度の柔らかい笑みを浮かべて返答した。
「よかった〜! ちょっと前に、恭介さんと二人で歩いてらっしゃるところを何度かお見かけして……あ、私、恭介の元カノなんです」
「あ、そうなんですか」
カナは表情を変えず、相槌だけを打った。 だが、次の瞬間、その女はカナが「どうぞ」と席を促すよりも早く、当然のような顔でカナの向かいにある空席にすっと腰を下ろしたのである。膝の上に丁寧な手つきでバッグを置き、姿勢を正してカナをじっと見つめてくる。
(うわ、座った……。結構ぐいぐい来るタイプだなぁ……)
カナの胸の奥で、静かに小さな警戒のアラートが鳴り響いた。
「急にごめなさ〜い。なんだか懐かしくなっちゃって」
女は親しげな笑みを浮かべ、カナとの間に横たわる距離感を無視して身を乗り出してきた。その仕草には、長年付き合ってきた身内のような傲慢さがかすかに滲み出ている。
「恭介くん、元気にしてます?」
「あ、はい。元気ですよ」
「ふふ、でしょうね。あの人、昔から根が真面目だから止まれないんですよね。今、どのへんに住んでるんですか? まだ前のマンション?」
「あぁ……まぁ、このあたりですけど」
カナは語尾を濁した。付き合っていた過去があるとはいえ、現在の住まいやプライベートの深い部分にズカズカと土足で踏み込んでくる厚かましさ。目の前の女を「無害な通行人」から「観察対象」へと切り替える。
(なになに? 偶然会っただけの元カノが、なんでそんなこと聞いてくるの?)
カナの探るような視線に気づく様子もなく、女はカナの反応を自分に対する怯えか戸惑いだと都合よく解釈したらしい。勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべると、いよいよ本領を発揮し始めた。
「恭介くんって、今もマックのポテトって塩抜きなんですか?」
不意に投げかけられた言葉に、カナはパチリと瞬きをした。
「え? うん、そうだけど?」
「へー、まだ、そうなんだ……」
女はくすりと小さく笑うと、どこか遠くを見るような、深みのある目つきをして見せた。まるで「彼の深いこだわりを知っているのは自分だけ」と言いたげな、計算された演出だった。
「相変わらずこだわり強いんだ。私の時もそうだったなぁ。恭介くんって、自分のペース崩されるの嫌がるでしょ? 」
カナは何も言わず、ただ静かに女の顔を見つめていた。女はカナの沈黙を「図星を突かれて何も言い返せないのだ」と受け取ったのか、さらに調子に乗って言葉を重ねていく。
「車に乗ると絶対に洋楽しか流させないでしょ? こっちが日本の歌をかけようとすると『グルーヴがない』とか言って曲変えちゃうの、ほんと困ったなぁ。あと、仕事に集中すると左の眉頭を指でなぞる癖。あれが出たら絶対に話しかけちゃダメなんですよ。私、最初は知らなくてよく怒られちゃって〜」
女の口から次々と飛び出す、恭介の「取扱説明書」。
ポテトの塩抜き、車内の音楽、集中したときの癖――どれも確かに、恭介という男を構成する特徴的なピースだった。女はそれを、まるで宝箱から一つずつ大切な思い出を取り出すかのように、けれどカナに聞こえるように見せつけてくる。
「あと寝る時もね、カーテンをちょっとだけ開けておかないと朝起きられない性格だし……ほんと、あんな面倒くさい男に付き合えるの、世界で私くらいだと思ってたんだけどな。まあ、私は彼のそういう厄介なところも全部受け止めて、付き合ってたんだけどね」
女はふぅと一息つくと、手入れの行き届いた自分の完璧なネイルを眺め、それからゆっくりとカナの目を覗き込んできた。その瞳の奥には、ドロドロとした執着と、マウントを取りきったという歪んだ満足感がギラギラと揺れていた。
「あーあ、なんだか話してたら懐かしくなっちゃった。……恭介くんと、久々に飲みたいなぁ」
トドメの一言。
自分がどれだけ恭介を深く理解していたか、どれだけ特別な存在だったかを嫌というほどアピールした上で投げかけられた、あからさまな宣戦布告だった。普通なら怒りで顔を真っ赤にするか、不安で瞳を揺らすか、あるいは「やめてください」と縋り付く場面かもしれない。
だが、静まり返ったカフェの席で、カナが浮かべた表情はそのどれでもなかった。
カナは一切の動揺を見せず、背もたれにゆったりと体を預けた。アイスコーヒーのストローを軽く指先で弄びながら、目の前の女をじっと見つめる。
その瞳には、怒りも、焦りも、嫉妬すら存在しなかった。あるのは、遠くの道端に落ちている落ち葉でも眺めるかのような、心底可哀想なものを見る目。冷徹で、動じない、圧倒的な余裕だけだった。
「……そうなんだ。詳しいねー。……で? だから何?」
「え……?」
予想していたような慌てや怯え、感情的な怒りが一切返ってこず、女の顔から完璧に作られていた微笑みがピキッと凍りついた。
「なにか勘違いしてるみたいだから言わせてもらうけど」
カナは肘をついて顎を乗せた。恭介の前で見せる甘えた仕草など微塵もない、冷徹な女の顔だ。
「昔の男の細かい癖をいくつか覚えてるくらいしか自慢できることがないからって、わざわざ私にマウント取りに来たの?」
「は、はあ!? マウントなんて……私、ただ懐かしくて――」
「それ、全部『過去』の話だよね?」
カナはクスッと小さく笑った。その笑い声には、相手を徹底的に愚かだと切り捨てるような、可憐で残酷な響きが含まれていた。
「恭介さんが昔どんな感じだったかとか、ぶっちゃけどうでもいいのよね。だって今、仕事から帰ってきて寝るまで、私のそばにいるから」
「っ……なによ、それ……!」
「私の前で見せる恭介さん、あんたの知ってる『取扱説明書』とは全然違うよ? 音楽だって私の好きな曲を笑って聴いてるし、眉頭触って集中してるときに後ろから抱きついても、怒るどころか照れくさそうにしてるだけだし」
カナの語調はどこまでも柔らかく、耳に心地よいほどだった。だが、その内容の一つひとつが、女が長年大切に抱えてきた「過去の優越感」を完璧に砕いていく。
「あなたが必死に『攻略した』と思ってる恭介さんの取扱説明書なんて、今の私にとってはただの古いゴミなの。今の恭介さんを一番近くで動かしてるのは、私だから」
女の顔から一気に血の気が引いていくのが見えた。完璧だったメイクの下の肌が白くなり、膝の上のバッグを握りしめる手がプルプルと震え始める。
「私と恭介さんの間には、あんたが差し込めるスキマなんて1ミリもないのよ、ごめんね」
「……アンタ、自分が何言ってるか分かってんの!? 私たちが重ねてきた時間の方が――」
「ねえ」
カナは女の言葉を、静かだが拒絶の意を込めたトーンで遮った。首を少しだけ小悪魔的に傾け、心から相手を心配するような、嘘くさいほど優しい表情を作ってみせる。
「恭介さん、あんたのこと覚えてないと思うよ? 大丈夫?」
「は……? 覚えているに決まって――」
「そんなに自信があるならさ」
カナは迷いのない動作でバッグから自分のスマホを取り出した。画面を軽快にトントンとタップし、その液晶画面を女の目の前へと突きつける。画面に表示されているのは、LINEのトーク画面。【恭介】という名前と、アイコン画像。
「今から電話して呼んであげようか? すぐ来ると思うけど? なんなら、服の指定までする?」
「……っ!!」
今すぐにでも通話ボタンを押そうとするカナの指先を見て、女は息を呑み、勢いよく背中を背もたれにぶつけるように後退った。
もし今ここで電話をかけられ、スピーカー状態にされ、恭介から「誰それ? 知らないんだけど」と素っ気なく返答されたら――自分という存在がどれほど惨めに否定されるか、女は本能的に悟ったのだ。
「LINE教えてあげようか?まあ、秒でブロックされて終わりだろうけど」
顔を真っ赤にし、屈辱と恐怖で言葉を失った女を、カナは冷めた瞳で見つめ返した。
スマホを操作し、画面を消すと、カナはそれをゆっくりとバッグの中に戻した。立ち上がり、椅子の背もたれにかけていた薄手のコートを軽やかに羽織る。
見下ろす視線には、憎しみも怨念も一切含まれていない。ただの「無関心」という名の凶器。
「次、くだらないことで話しかけてきたら、その時は恭介さんに迷惑だって相談してみるね」
「……っ、く……」
女は拳を強く握りしめ、唇を噛み締めながら、ただ震えることしかできなかった。過去の思い出という弱小な武器で突撃してきた結果、現在の圧倒的な愛と存在感の前に完敗したのだ。
カナは優雅にバッグを肩にかけると、最後にとびきり可愛らしく、極上の笑みを浮かべて見せた。
「じゃ、帰ってご飯作らないといけないから。恭介さんが待ってるからね」
カツカツと、澄んだヒールの音を店内に響かせながら、カナは優しくカフェのドアを開けた。
怒るでも、慌てるでも、マウントを取り返して満足するでもない。
世間から見れば、恭介なんてどこにでもいる普通の男だ。こだわりが強くて面倒くさくて、他人からすれば大した価値もないかもしれない。だが、カナにとっては違う。世界中のどんな完璧な男よりも優れていて、愛おしくて、かけがえのないパートナーなのだ。
その男と二人で日々を積み重ね、お互いを特別な存在だとする圧倒的な自負。過去の残像にしがみつき、彼の「スペック」や「取扱説明書」を自慢してくる女の戯言など、カナの持つ本物の愛の前には何の波風も立てられない。
恭介の欠点も癖もすべてを知った上で、今の彼を誰よりも愛しているのは自分なのだという、凛とした大人の誇り。それは、恭介の前で見せる甘えた姿とはまったく違う、一人の自立した女性としての圧倒的な美しさだった。
(さてと……今日の夜は何作ろうかな)
オレンジ色に染まる夕空を見上げながら、カナはふっと穏やかな微笑みを浮かべる。
くだらない嫉妬も不安も、彼女の心には最初から一滴すら存在しなかった。等身大の愛と揺るぎない余裕を胸に、カナは愛する人が待つ我が家へ向かって、しなやかに歩みを進めた。




