第8話 買い占める商会
市場から塩が消えると、街の声はすぐに変わった。
朝までは、鉱山事故の負傷者が全員助かったことへの安堵があった。治療院へ清潔布が届いたこと、倉庫街で壊れた荷車が直りそうなこと、神殿の炊き出しに回収班が手を貸すこと。
けれど昼前には、食料品の露店で言い争いが始まっていた。
「昨日まで銅貨三枚だった塩が、どうして五枚なんだ!」
「仕入れ値が上がったんだよ。文句なら卸に言ってくれ」
「冬支度前にこれじゃ困る」
「困るのはこっちも同じだ」
レンは市場の端で、そのやり取りを聞いていた。
隣にはセリア、ガルド、ミナがいる。領主であるセリアは目立つため、今日は白い外套ではなく、簡素な灰色の上着を羽織っていた。それでも姿勢の良さで人目を引いている。
「市場の値段は、こんなに早く変わるものですか」
セリアが低い声で聞く。
ガルドが答えた。
「噂だけでも変わります。塩が遅れている、燃料が足りない、冬が早い。そう聞けば、皆が少しずつ余分に買う」
「余分に買えば、ますます足りなくなる」
レンは頷いた。
「不足そのものより、不足するという予感の方が早く広がります」
市場の奥では、薪束を抱えた女が店主に詰め寄っていた。
「半束しか売れないって、どういうことですか」
「そう決まったんだ。今日から一人半束まで」
「うちは小さい子がいるのに」
「うちだって燃やす薪がないんだよ」
ミナが唇を尖らせた。
「神殿も同じ。炊き出しの鍋を一つ減らすって」
「昨日、廃材を見つけました」
レンは言った。
「乾燥炉を動かす分の一部には使えます。でも街全体の薪を補うほどではありません」
「じゃあ、やっぱり買い占め?」
ミナの言葉に、ガルドが険しい顔をする。
「簡単に言うな。証拠なしに大商会を敵に回すと面倒だぞ」
セリアは市場の奥を見た。
「ヴェルナー大商会」
その名を口にしただけで、近くの店主がちらりとこちらを見た。
王都にも支店を持つ大商会。塩、燃料、鉄具、酒、布、魔石まで扱う。リンドホルムのような辺境都市にとっては、ありがたい取引相手であり、逆らいにくい相手でもある。
「直接問いただしても、在庫調整だと言われるでしょう」
レンは市場の荷を見ながら言った。
「買い占めかどうかは、店頭の値段だけではわかりません」
「では何を見るのですか」
「動きです」
レンは市場の裏手を指した。
「荷馬車、空箱、荷札、馬の疲れ方。物を隠すなら、必ずどこかで動きが残ります」
ミナの目が輝いた。
「裏道なら、あたしが見る」
「危ない場所には入らない」
「わかってるって」
「本当に?」
「半分くらい」
ガルドがミナの頭を軽く小突いた。
「全部わかれ」
セリアは小さく笑ったが、すぐに表情を戻した。
「レン。何から始めますか」
「市場に入った燃料と塩の荷札を確認します。昨日から今日にかけて、どの商会がどれだけ受け取ったか。それと、門前で空になったはずの馬車がどこへ戻ったか」
「門番記録を使えます」
「お願いします」
ガルドが腕を組む。
「倉庫組合の出入り記録も見せてやる。ただし外には出すな」
「見られれば十分です」
その日の午後、レンたちは共同倉庫の奥にある記録室へ入った。
記録室と呼ぶには、そこは混沌としていた。木札、帳簿、古い荷札、通行証の控えが棚いっぱいに詰め込まれている。
ガルドが咳払いをした。
「先に言っておく。汚いと言うな」
「言いません」
「顔が言っている」
「整理すれば使いやすくなります」
「言うなと言った」
レンは帳簿を開いた。
文字を追う。
塩樽、二十。
燃料薪束、百二十。
木炭袋、四十。
受取商会、ヴェルナー。
出庫先、市場卸。
出庫数、塩樽六。
残数、十四。
帳簿の上では、残りは倉庫内にあることになっている。
だがレンの《棚卸し》には違和感があった。
倉庫内塩樽、実数八。
帳簿残数、十四。
差異、六。
「六樽、合いません」
ガルドの眉が跳ねた。
「何?」
「帳簿では塩樽が十四残っている。でも倉庫内にあるのは八です」
「見たのか」
「今、見えています」
「またその目か」
ガルドは記録係を呼び、倉庫奥の塩樽を数えさせた。
結果は八。
セリアの表情が冷える。
「帳簿の誤記ですか」
記録係が青くなる。
「い、いえ、昨日の夜には確かに十四と」
「夜に出した荷は?」
レンが聞く。
「正式な出庫はありません」
「正式ではない出庫は?」
記録係は黙った。
ガルドの声が低くなる。
「答えろ」
「……ヴェルナー大商会の者が、預かり替えだと。倉庫内が混んでいるから、一部を自社倉庫に移すと」
「許可は」
「商会印がありました」
「領主印は?」
記録係はさらに青ざめた。
セリアが静かに言った。
「ありませんね」
記録室の空気が重くなる。
レンは帳簿の別の行を追った。
燃料薪束、帳簿残数七十。
倉庫内実数、四十二。
差異、二十八。
木炭袋、帳簿残数三十。
倉庫内実数、十八。
差異、十二。
「燃料も減っています」
ガルドが机を叩いた。
「あの連中」
「待ってください」
レンは言った。
「まだ、どこへ運んだかが必要です」
「自社倉庫だろう」
「表の自社倉庫なら、すぐに見つかります。買い占めなら隠すはずです」
ミナが手を挙げた。
「夜に空箱を運んでた人たち、旧倉庫街の方から来た」
レンは彼女を見る。
「旧倉庫街から?」
「うん。でも帰りは北門じゃなくて、革職人通りの方へ抜けた。あっちは荷馬車が通れる裏道がある」
ガルドが唸る。
「革職人通りの先は、古い酒蔵だ」
セリアが言った。
「今は使われていないはずです」
「使われていない場所は、隠すには便利です」
レンは帳簿の端に書かれた印を見た。
ヴェルナー大商会の荷札。
赤い丸に、三本線。
市場で見た薪束の札にも、同じ印があった。
「荷馬の蹄跡を見れば、運んだ量がわかるかもしれません」
「蹄跡?」
セリアが聞き返す。
「重い荷を積んだ馬車は、轍が深くなります。塩樽と燃料を運んだなら、空箱だけの馬車とは跡が違う」
ミナが得意げに言った。
「革職人通りなら、あたしが案内する」
「危険な場所には」
「入らないってば」
レンは少し考えた。
相手は大商会だ。子供を連れていくのは危ない。
だが、ミナの知っている裏道がなければ、隠し倉庫を見つける前に証拠を動かされる可能性がある。
セリアが判断した。
「ミナは案内だけ。中には入らせません。護衛を二人つけます」
「えー」
「返事は」
「はい」
不満そうだが、ミナは頷いた。
夕方、レンたちは革職人通りへ向かった。
そこは市場の喧騒から外れた、匂いの強い通りだった。干された革、なめし液、古い水路。通りの奥には、使われなくなった酒蔵が並んでいる。
ミナは一つの角で立ち止まった。
「ここ。昨日、馬車が曲がっていった」
レンは地面に膝をついた。
轍がある。
深い。
空箱ではない。
塩樽か、木炭袋か、薪束か。いずれにせよ重い荷だ。
轍の幅、二台分。
往復回数、少なくとも三回。
積載重量、中。
搬入時刻、夜間。
荷の種類、塩、燃料混在。
レンは立ち上がった。
「この先です」
ガルドが拳を鳴らす。
「踏み込むか」
「まだです」
レンは酒蔵の屋根を見た。
煙突がない。
だが、壁際に新しい藁くずが落ちている。
塩樽の下に敷く乾いた藁。
それから、空箱の板切れ。
「証拠を確認します。外から」
ミナが小声で言った。
「裏に小窓があるよ」
セリアがミナを見る。
「案内だけです」
「小窓まで案内」
「中には入らない」
「入らない」
旧酒蔵の裏には、割れた石壁と狭い水路があった。小窓は高い位置にあり、大人では覗きにくい。
ミナが壁を登ろうとしたので、レンは慌てて止めた。
「危ない」
「じゃあ見えない」
レンは周囲を見回し、壊れた木箱を二つ重ねた。
「これに乗って。俺が支える」
「わかった」
ミナが小窓を覗く。
すぐに息を呑んだ。
「……塩樽、いっぱいある」
セリアの表情が硬くなる。
「どれくらい」
「数えられない。薪もある。炭の袋も」
レンはミナを下ろし、自分も小窓を覗いた。
暗い酒蔵の中に、塩樽が積まれている。
奥には薪束。
木炭袋。
そして、ヴェルナー大商会の印。
塩樽、推定二十四。
薪束、推定百。
木炭袋、推定五十。
帳簿外在庫。
都市備蓄転用疑い。
レンは小窓から離れた。
「あります」
セリアが目を閉じた。
「買い占め、ですね」
「少なくとも、領主許可なしの移動です」
ガルドが低く言った。
「踏み込むぞ」
「待ってください」
レンは首を振った。
「今踏み込めば、相手は倉庫番の独断だと言い逃れます。誰が命じたか、どこへ売るつもりだったかが必要です」
「ならどうする」
レンは酒蔵の正面に目を向けた。
ちょうどそのとき、一台の馬車がゆっくりと近づいてきた。荷台には空箱。御者台にはヴェルナー大商会の若い男が座っている。
馬車は酒蔵の前で止まった。
男は周囲を見回し、扉を叩く。
内側から別の男が顔を出す。
「次は北門の倉庫だ。夜までに全部移せ。領主家が嗅ぎ回ってる」
セリアの目が鋭くなった。
ガルドがレンを見る。
レンは小さく頷いた。
「今のは、十分です」
セリアが護衛に命じた。
「扉を押さえなさい。逃がさないで」
護衛たちが動く。
酒蔵の前で、ヴェルナー大商会の男たちが慌てた声を上げた。
レンはミナを自分の後ろへ下がらせる。
少女は荷札を握りしめていた。
「ねえ、レン」
「何?」
「あれ、ちゃんとみんなのところに戻る?」
レンは酒蔵の中の塩樽を見た。
神殿の炊き出し。
治療院の消毒。
食料の保存。
冬を越す家々。
「戻します」
レンは言った。
「届くべき場所に」




