第74話 頁と棚
崩壊まで、残り十日。
レンは、朝いちばんに手持ちの紙を全部並べた。
トムルの写し。ドランの炭書きの写し。厩の受け渡し簿。控え帳の二割差異の付け合わせ。それから、昨日、三箇所の印を置いた王都の図面。
「新しい紙は、もう出ません。出てくるのを待つのも、やめます」
この十日で、帳面には、もう十分会った。蔵の帳。父の写し。咎めの綴り。どれも、誰かが命を懸けて残した紙だ。だが、次の紙を待つ間にも、日数は減る。
「手の中の紙と、外の現場で、組みます。今日は、北縁です」
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北縁の倉には、ヤールの整えた検分の様式を持って入った。
都市補給官代理には、経由する荷の検分を求める権限がある。様式が正しければ、断る理由が向こうにない。実際、断られなかった。それどころか、倉の下役は綴りを三冊、自分から運んできた。
「受け入れの綴りです。搬出はこちら。判の控えは、この綴りに」
いつかの夕、軒下から遠目に見た、あの若い下役だった。名乗りも手続きも、教本のようだった。疚しさの影は、今日も、どこにもなかった。
レンとニスは、半日かけて倉を検分した。
受け入れの判。全部、正規だった。搬出の判。全部、正規だった。荷札の書式。正規。保管の期間。規定の内。倉のどこを突いても、正しい紙と正しい判しか出てこなかった。
そして、棚の奥に、ハーレンと同じ空きがあった。
手前の一列は、詰まっている。奥へ入るほど、棚板が広く見える。レンは奥の列を、端から数えた。ニスが反対の端から数え、中央で突き合わせた。二人の数字は合った。台帳の数字とは、合わなかった。
「この空きは」
「保管替えです。判は、こちらの綴りに」
下役が示した頁には、確かに判があった。保管替えの様式。決裁の番号。日付は、月の暗い夜のものだった。レンはもう、驚かなかった。空きにさえ、正しい紙が付いている。
「搬出の行き先は」
「北方面の中継搬送、とあります。行き先の倉の名は、この綴りには載りません。中継の様式ですので」
「北へ送ることを、誰が決めるんですか」
「決裁の判の通りです。うちの倉は、判のある荷を、判の通りに動かすだけです」
下役の答えに、噓はないのだろう。この男は、荷がどこから来てどこへ消えるのか、知らない。知らないままで、全部の手続きを正しくこなせる。そう出来ている。
倉を出たところで、ニスが低く言った。
「取っ掛かりの、ない壁になっとります」
「壁じゃありません。これは、道です」
答えながら、自分の言葉が腑に落ちた。塞がれているのではない。荷は、正規の道を、正規の判で、静かに流れている。ただその道の行き先が、誰の帳面にも載らない場所にあるだけだ。
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残る二箇所は、対照的だった。
書記課の管轄内の倉は、立ち入りの様式そのものが下りなかった。理由は、様式不備でも保留でもない。「検分権限の適用範囲外」。ヤールが書式を三通り変えても、答えは同じだった。立ち入れる倉が全部正しくて、正しさを確かめられない倉が一つだけある。入れないことが、そのまま答えだった。
神殿の倉に近い区画は、ニスが外周を下見した。並ぶのは薬瓶と飼葉の棚で、祭具の類とは関わりのない倉だという。こちらは、いずれ人手で数えられる。
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夕の卓で、紙を組んだ。
ユリウスが読み上げ、ヤールが並べ、レンが線を引いた。
まず、トムルの写し。抜かれた頁の品目と数量。次に、控え帳の二割差異。差異の品目が、写しの品目と重なる。次に、ドランの炭書き。ハーレンの棚から現物が減った日付。受け渡し簿の月の暗い夜。厩の飼葉の減り。全部、同じ暦の上に載った。
最後に、今日の北縁の倉。ハーレンから裏路で運ばれた荷が、正規の判で受け入れられ、正規の判で「北方面の中継搬送」へ抜けていく。
一枚の絵に、なった。
書記課の高い決裁が、頁を抜く。抜かれた荷は帳簿の上で「調査継続中」になり、調査の名の下で保管替えの体裁を取る。現物は裏路を通り、正規の顔で受け取られ、北へ流れて、どの帳面からも消える。
どの段の担当も、規則の通りに働いている。頁を抜く決裁には決裁の権限があり、運ぶ厩は判のある荷を運び、受ける倉は判のある荷を受ける。誰も、盗んでいない。
「盗んだ者は、いません」
レンは、線を引き終えた図面を見て言った。
「それでも、薬は届いていません」
誰も、何も言わなかった。悪意を探して十日、見つかったのは、悪意の要らない仕組みだった。盗人なら、捕まえれば終わる。仕組みは、捕まえる襟首がない。
ユリウスが、受け渡し簿の受領欄に目を留めた。
「この名は、覚えがあります。ゴーシュ。……南宿場の、空箱の受取人です」
「父の写しの中にも。受領の欄に、何度も」
ヤールが続けた。南宿場で聞いた名前だった。下級荷役。空箱の山の前で、名前だけが残っていた男。その名が、王都の受領欄にも、繰り返し並んでいる。
「この男も、盗んでいません。判のある荷を、言われた場所で受け取っただけです。……末端は、仕組みに使われただけです」
レンは、受領欄の名を目で追いながら言った。罰する相手の名前ではなく、仕組みに擦り減らされた側の名前が、また一つ増えた。
それから、ヤールがもう一つ、静かに拾った。
「写しに残る決裁の判の番号。この番号の体系は、送り先の区分を含みます。書記課の様式の、引き方の癖です。……ハルの移送の記録番号を、この体系で読むと」
ヤールは、図面の北に指を置いた。
「北方神殿方面、です」
関所で消えた少年の行き先が、初めて方角を持った。荷と同じ道の先に、人もいる。
「もう一つ、分かったことがあります」
ヤールの声は、乱れなかった。
「父の死亡の記帳です。移動先の倉の、混乱期の名簿に紛れて載っています。書式から見て、他人の手ではありません。父が、自分で紛れ込ませた。……頁を抜ける仕組みは、人ひとりを隠すのにも、使えたんです」
帳簿の穴を知り尽くした書記が、その穴に自分を隠して、書き続けた。敵の仕組みの中に、敵の知らない部屋を一つ作った男の話だった。
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夜、レンは新しい綴りを一冊、卓に置いた。
昼のうちに、自分の銭で買ったものだ。誰かの遺した紙ではなく、これから書く紙だった。
一頁目に、書いた。
消えた人の、名簿。
トビの、父。名は、まだ分からない。北東街道で、行きは空、帰りも空の馬車と共に消えた。分かっているのは、それだけだ。それだけを、書いた。
次の頁。厩を出された者たち。受け渡し簿に、出された後の日付で印だけが残る名前。ベックに聞き合わせて、一人ずつ埋めていく。ニスが横から、覚えている限りの名を足した。同じ厩で寝起きした男たちの名を、ニスは十年経っても、役職と受け持ちの馬ごと言えた。
次の頁。トムル・ヴァストロ。書記課上席。ひと月前、王都南西で死去。葬られた場所、なし。遺したもの、写し一束と、筆一本。この頁は、ヤールが自分で書いた。父の名を書く手は、途切れなかった。
書きながら、レンは辺境の倉庫街を思い出していた。荷札に名前を書けない子が、炭で初めて自分の名を書いた朝のことだ。名前は、書かれるために在る。荷札にも、帳面にも、名簿にも。消える側にだけ、書かれない。それを、ここで折り返す。
数えられなかった人を、数える。それが弔いになるのかは、分からない。ただ、帳面から消された人を、別の帳面が覚えている。それだけのことを、この王都で誰かが始めなければならなかった。
綴りの頁は、埋まっていく。埋まらない欄が、一つだけあった。
盗んだ者の名を書く欄は、どの頁でも白いままだった。
罰する相手が、いない。それなら、この流れを終わらせる方法は一つしかない。「調査継続中」を、終わらせることだ。調査を完了させ、完了の印を押させる。
そして、その印を持つ者は、この構造の、いちばん中心にいる。
崩壊まで、残り十日。
明日、北から来た儀礼の客が、動くはずだった。




