第75話 北からの証言
崩壊まで、残り九日。
朝、宿の表に、赤と黒の徽章を付けた武人が立った。
「門外、失礼いたします。カーレル・ヴェン、と申します。とは言え、二度目のご挨拶にございますな、補給官代理殿」
関所の夜に黒馬で現れた男は、あの時と同じ格式で、あの時と少し違う声で言った。
「あの晩は、迎え入れる側で参りました。今日は、運ぶ側で参りました」
供は、二騎だけだった。いつか大路で擦れ違った先触れと同じ、房飾りの馬具。街道の宿場の馬を五日先まで押さえて進んできた、あの一行の主が、供回りを表に残して、単身で宿の敷居をまたいだ。格の高い者が身軽に動くとき、用件はいつも重い。
ニスが、廊下の奥で一礼した。カーレルは目礼を返し、ほんの一拍だけ、視線を留めた。十年前の王都厩舎で擦れ違った者同士の、名前のない挨拶だった。どちらも、何も言わなかった。
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宿の卓に、カーレルは油布の包みを置いた。
中身は、書状が一通と、小さな印章がひとつ。
「オルブライト男爵の証言状を、お持ちいたしました。印章は、男爵ご本人がお預けくださった。……写しではございません。現職の印、そのものにございます」
ヤールが、書式を検めた。男爵の自署。日付。証言の要旨。読み上げる声は、いつもの通り途切れがちで、いつもより少し速かった。
要旨は、こうだった。関所の兵を引き上げさせた、あの命令書。男爵は、自分の名で出されたその書状を、書いていないと証言する。偽の書状が出たことに、男爵は自分で気づいた。気づいて、騒がず、身柄ごとヴェン家の神殿に保護を求めた。以来、北で生きて、この証言状を書く日を待っていた。
「殺されもせず、奪われもせず、ただ名前だけを使われた。男爵は、そう仰いました。名前を使われた者は、名前で返すしかない、とも」
街道の宿場の馬が、五日先まで押さえられていた理由が、これだった。儀礼の一行の荷は、祭具でも進物でもない。紙が一通と、印がひとつ。それを、確実に、誰にも抜かれずに王都へ入れること。ヴェン家は、そのためだけに儀礼の格式で街道を進んできた。儀礼の荷は、街道の誰も検められないからだ。
「途中、二度、荷を検めたいと申し出る者がございました。所属は名乗らず、様式だけは整っておりましたな。……儀礼の格式で、お断りいたしました」
抜く側も、この紙の意味を知っている。八日の道中は、静かな運び合戦だったらしい。カーレルは、それを茶飲み話の口調で言った。
偽の書状は、正しい様式で書かれていた。書式を知り尽くした手が、どこかにある。それは、トムルの写しが指すのと、同じ方角だった。
レンは、証言状を置いて、訊いた。
「ヴェン家は、なぜここまで動くんですか。関所では、迎え入れる側だったはずです」
カーレルは、すぐには答えなかった。答えの代わりに、格式を半歩だけ崩した。
「家の中にも、見る側と、取り戻す側がございます。百年、家はその二つで保ってきた。あなた方を見張っていた目は、見る側が置いたもの。私と、私の主が動くのは、取り戻す側の務めと、心得ております」
見る側と、取り戻す側。布の人を置いたのは、一族の保守の側。そして関所の夜にレンたちを試した姉弟は、取り戻す側として、この証言状を八日かけて運んできた。
「詳しくは、いずれ。今日のところは、紙の話をいたしたく存じます」
カーレルはそこで区切り、それから、思い出したように付け足した。
「ああ。……ひとつ、紙にならぬ話もございました。神殿で、保護している少年がおります。名は、まだ申せません。ただ、木を彫るのが、たいそう巧い」
ヤールの手が、綴りの上で止まった。
木を彫る少年。南宿場の薬瓶の底に、名前を彫った子。関所の裏門から入り、書記課で預かられ、半年前に北へ移された子。ヤールが関所で最後に記録を見た、あの子だ。
「……生きて、いるんですね」
「生きて、彫っております」
それ以上は、どちらも言わなかった。名前のない報せは、名前のある報せより、静かに深く届くことがある。ヤールは目を伏せて、一度だけ強く瞬きをして、それから書式の検分に戻った。
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昼、三度目の申請を出しに行った。
貸付証文。トムルの写し。そして、オルブライト男爵の証言状と印章。ヤールが様式を整え、カーレルが証人として連署し、レンが携えた。
マゼルは、今日も机の前にいた。紙の角は揃い、筆は三本、長さの順に並んでいた。冬の陽が、その紙の縁だけを白く炙っていた。
「三度目の、ご申請です」
「はい。前回の差し戻しの理由は、添付文書の作成者が現職でないこと、でした」
レンは、証言状を机に置いた。
「今回の作成者は、オルブライト男爵です。署名と、職印。……現職です」
マゼルは、証言状を手に取った。書式を検める。署名を検める。印影を、控えの印譜と突き合わせる。手つきは、いつも通り正確だった。一つの動作に、一つの確認。積み方に、隙がない。
検めながら、マゼルは一度だけ、顔を上げた。カーレルの徽章を見て、また紙に戻った。北の家の格式と、王都の様式。二つの正しさが、同じ机の上に載っている。
「この証言が確かなら、関所の兵を引かせた、あの命令書は、偽文書ということになります」
「なります」
「偽文書が、正規の書式で作られていたことにも、なります」
「なります。……あなたの様式が、あなたの知らない場所で使われていた。そういう話です」
レンは、それ以上は言わなかった。書式を作った側と、書式を悪用した側。マゼルがそのどちらに立ってきたのかを、この場で断じる材料はない。ただ、この男が様式を信じてきたことだけは、疑っていなかった。信じてきたものの背中に、偽の判が並んでいた。それを、いま本人が数えている。
「書式は、整っております。作成者は、現職。証人の連署も、有効です」
そこで、言葉が止まった。
規則です、と続くはずだった。時間がかかります、でもいい。順を踏むしかありません、でもいい。この男の言葉は、いつも次の一文が決まっていた。前の文の尻尾を受けて、正確に積み上がっていくはずだった。
続きが、来なかった。
マゼルは、証言状を机に置いた。それから、保留印を手に取った。朱肉に、正確に一度だけ触れた。
印が、紙の上で止まった。
帳簿が乱れれば、配りが乱れる。配りが乱れれば、飢える者が出る。私はそれを見たことがある。いつか、この男はそう言った。規則は、この男にとって飢えを防ぐ堤だった。その堤の石の間に、偽の判が挟まっていた。いま、本人がそれを知った。
押されない判を、レンは初めて見た。差し戻しの判も、保留の判も、この男は一度もためらわずに押してきた。規則が答えを決めていて、手はそれを写すだけだったからだ。その手が、宙で止まっている。規則が、答えをくれなかったのだ。
偽の書状は、正しい様式で書かれていた。その証言を、正しい様式が運んできた。正しさを守ってきた男の目の前で、正しさが二枚に割れて、互いを指していた。
「……本日の返答は、いたしかねます」
長い沈黙の後で、マゼルはそれだけを言った。声は、乱れていなかった。ただ、いつもより一文だけ、短かった。
「預かります。正しく、預かります」
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局を出ると、冬の陽が傾きかけていた。
「押させましたな」
カーレルが、歩きながら言った。
「いえ。止めただけです」
「止まらぬ判を止めるのは、押させるより難しゅうございます。……あの御仁、割れますぞ。ああいう手合いは、折れるのではない。割れて、どちらかが残る」
武人の見立てだった。レンは、止まった判を思い返した。あの手が次に動くとき、押されるのが保留なら、道はまた塞がる。押されないなら。
その先は、まだ誰にも見えなかった。
宿に戻ると、ユリウスが卓で待っていた。首尾を短く伝えると、商人は指を三本立てた。
「判が、止まった。なら、三日のうちに、どちらかへ動きます。商いの経験では、迷う相手には、迷わせたまま次の材料を届けるのが上策です。幸い、届ける材料は、まだ残っています」
控え帳の二割差異。厩の偽印の列。北縁の倉の中継搬送。一枚の絵は、まだマゼルの机には載せていない。出す順を、間違えないことだ。ヤールが綴りを繰り、ニスが図面を畳み、カーレルが茶を含んで、それぞれの持ち場で夜が更けた。
崩壊まで、残り九日。
番人の手は、まだ印の上にある。




