第73話 見えない棚
崩壊まで、残り十一日。
朝の卓の上で、紙は全部、止まっていた。
証文は保留。写しは様式不備。照会は様式から。どの紙も、出せば戻ってくる。壁は人だと分かっても、その人の上へ届く紙が、まだない。
レンは、手持ちの数字を並べ直した。
王都の中で、ハーレンと同じ形の空きがある場所。当たりを付けるだけなら、倉の数はおよそ四十。人手で回って一つずつ数えれば、一日に二つ。二十日かかる。残りは、十一日。
足りない。紙の道が全部塞がれた今、足りない九日を埋める方法を、レンは一つしか持っていなかった。
「《棚卸し》を、王都全体に掛けます」
卓が、静かになった。
「一度だけです。倉の場所の当たりさえ付けば、あとは人手で確かめられる。二十日が、三日になります」
数字は、嘘をつかない。この判断は検算済みだ。そう言い切るレンの手元を、ユリウスが黙って見ていた。答えが先にあって、後から並べた検算であることを、この商人は多分、見抜いていた。それでも、止めなかった。紙の全滅は、ユリウスも一緒に見てきたのだった。
ヤールが、口を開きかけて、閉じた。書記の頭が、代わりの手を探したが、見つけられなかったのだろう。ニスだけが、短く訊いた。
「お一人で、立ちますか」
「裏庭で。……ええ、一人で」
「では、私は後ろに立っとります。仕事は、それだけにします」
止めない。案じる言葉も足さない。倒れる前提で、受け止める位置にだけ立つ。信じるというのは、そういう配置のことらしかった。
♦
昼、宿の裏庭に立った。
王国全体を見たときは、遠い棚の影を数えただけだった。王都は違う。近すぎて、多すぎる。王都に入って間もない頃、路地で一度試したが、像は結ばなかった。人が多く、物が多く、動きが多い。あの時は、すぐに手を放した。
今日は、放さない。
目を閉じる。白い輪郭が、頭の中に起き上がってくる。倉、蔵、納屋、店の奥。輪郭の中に数字が灯り、揺れ、流れていく。多い。波のように多い。レンは、波を数えず、形だけを見た。頭に入れてきた台帳の数字と、目の前の棚の数字。二つの間に隙間のある倉だけを、拾っていく。
一つ。北縁の近く。帳簿は満ち、棚の奥に空きがある。ハーレンと同じ形だ。
二つ。書記課の管轄の中。同じ形。
音が、遠くなってきた。裏庭の井戸の軋みが、水の底から聞こえるようだった。構わず、続けた。
三つ。神殿の倉に近い区画。同じ形。まだある。四つ目の輪郭が起き上がりかけて、
崩れた。
輪郭が一斉に薄くなり、数字が流れて消えた。目を開けると、視界の端が薄かった。空が白いのか、目が白いのか、分からなかった。自分の手が見えて、ひどく重かった。持ち上げようとして、地面が傾いた。傾いたのは自分の方だと、遅れて分かった。
膝が、雪を踏んだ。沈み切る前に、後ろから肩に手が入った。ニスだ。約束の位置から、約束の仕事だけをした。
「おっと。そのまま、そのまま」
反対の肩に、もう一つ手が入った。荷を担ぐときの、腰の入った支え方だった。宿の女将だった。洗い物の桶を放り出して、井戸端から駆けてきたらしい。
「はい、立たない。立てないうちは、立たない」
二人がかりで、レンは裏口の框に座らされた。女将は顔を覗き込み、目の中を確かめ、それから台所へ怒鳴った。
「粥、火にかけて。硬いのはいらないよ」
レンは、礼を言おうとした。声が、思ったより遅れて出た。女将は聞き終わる前に首を振った。
「倒れるのは構わないけどね、順番ってものがあるよ。食べてから、倒れなさいな」
数える者が、数えられる側になって、運ばれていた。担がれた荷は、みんなこんな景色を見ていたのか、と場違いなことを思った。
粥は、熱くて、薄かった。匙が重くて、途中から女将が取り上げた。宿の女将に飯を食わされる都市補給官代理というものを、レンは生まれて初めてやった。器が空くまで、女将は一言も説教を足さなかった。それが、いちばん効いた。
♦
拾えたのは、三つだった。
四十の候補が、三つに絞れた。ハーレンと同じ形の空きが、王都の中に、少なくとも三箇所。それが今日の収穫で、今日の全部だった。四つ目から先は、数え切れなかった。
夕方の卓で、ヤールが王都の図面に三つの印を置いた。北縁の近く。書記課の管轄内。神殿の倉に近い区画。散らばっているようで、どれも裏路の足が届く範囲に、行儀よく収まっていた。明日から、人手で確かめる。ニスが足の順路を組み、ヤールが立ち入りの名目を様式で用意する。数えるのは目だが、届くのは足と紙だ。
こめかみの奥で、細い軋みがまだ続いていた。夕方には引くだろうと思っていた。燈の油が目に見えて減っても、まだ引かなかった。前より、長い。それだけを、事実として頭の隅に置いた。誰にも言わなかった。
夜、部屋の戸が叩かれた。ユリウスだった。
粥の礼だとか、明日の段取りだとか、そういう用件は何も言わなかった。戸口に立ったまま、一言だけ置いた。
「何も、伺いません。今夜は、まだ」
名は申し上げません、今夜はまだ。いつかの留保と、同じ形だった。訊かないと言いながら、知っていると告げる言い方だった。
「ただ、次に掛けるときは、先に仰ってください。倒れる場所くらいは、選べます」
なんでもない、と言いかけて、レンはやめた。この人には、多分もう通らない。代わりに、短く答えた。
「……二十日を、三日にしました。差額は、俺持ちです。高い買い物かどうかは、これから決まります」
「ええ。高くなかったと、言える終わり方にしましょう」
ユリウスは、それだけで戸を閉めた。
♦
寝床で、レンは天井を見ていた。
三つの空き。数字は拾った。だが、分かったことが、もう一つあった。数え切れなかった、ということだ。この王都の絡繰りは、レンの目より大きい。一人の目で数え切って勝つ戦いでは、最初からないのだった。
仕組みが抜くなら、仕組みで塞ぐ。
頁を抜く手を、一本ずつ掴んで止めるのではなく、抜いても意味のなくなる形を作る。倉を回る足も、能力の目も、そのための下拵えでしかない。決意は、静かな方が長持ちする。レンは目を閉じて、明日の段取りを三つ、順に並べてから眠った。
夜半、遠くで車輪の音がした。
石畳を踏む、重い車輪。護衛の馬蹄。そして、涼やかな鈴の音が、細く尾を引いた。
窓の下で、ニスの声が低く言った。
「補給官殿。北の儀礼の馬車が、いま、門をくぐりました」
崩壊まで、残り十一日。
紙は止まったまま。だが北から、動く者が来た。




